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 拠点である、丘の上に建つ然程大きくはない家に気を失ったままの2人を置き、ミス・ウェンズデーに毛布をかけたクオンはMr.9はそのままに『報告書を書いて出しておいてくださいね。私は所用があるので少し出掛けます』と書き置きを残して家を出た。
 肩に乗ったハリネズミがきゅいと鳴いてクオンの気を引く。小さな前足が伸ばされた先の入り江に、すっかり見慣れてしまった羊の船首がついた海賊船と海賊旗があって、クオンは被り物の下で目を細めた。
 きっとあそこでは、町の人間全員による歓迎がなされているのだろう。いつものように。


「参りましょう、ハリー」


 サボテン岩の裏側にある岸辺。そこに泊められた船で主と共にこの島を逃げ出すための、準備をしなければならなかった。





† ウイスキーピーク 2 †





 粗方の準備を終えた頃には、すっかり日が暮れ空には月が浮かんでいた。もう主は目を覚まして書き置き通りに報告書をしたためている頃だろう。そうすればよくできましたと優しく撫でられると学んだ主は今まで報告義務を欠かしたことはない。
 色々あったし無事に海を泳ぎ切ったMr.9にも何か、主の相方を務めてくれた彼へ用意してあげてもよかったが、残念なことに時間がない。後日適当に手配することにしよう。何なら、裏切られたことで上からの折檻を受けないよう逃げ道くらいは残してやろうと思うくらいには、クオンはMr.9のことをそれなりに気にかけていた。


「はりーぃ!」

「おかえりなさい、ハリー。護衛隊長殿には無事渡せたようで何よりです」


 今頃麦わらの一味の相手をしてくれているウイスキーピーク町長であるイガラッポイ、もといMr.8、そして正体は主の祖国の護衛隊長を務める彼に今夜にでも出航する旨をしたためた手紙を届ける任務を完遂したハリーはクオンの手の上で誇らしげに胸を張り、差し出されたおやつに早速齧りついた。
 ガリガリガリガリ、と瞬く間に金属片がハリネズミの口の中に消えていく。それを気にしたふうもなく、おかわりをねだられたクオンはもう2つほど人間の指くらい容易く食いちぎる“偉大なる航路グランドライン”産ハリネズミのおやつである小さな金属片を渡した。


「失敗にせよ成功にせよ、月が沈む前に姫様と護衛隊長殿を回収しなければなりませんね」


 ハリネズミに語りかけるようでいて実質ひとり言をこぼし、船室の準備が整ったことを再度確認したクオンは甲板へと出て船べりに凭れた。人間3人にハリネズミと、ミス・ウェンズデーの相棒であるカルガモが乗るには十分な大きさの船は月明かりの下で静かに波に揺れる。
 クオンはぼうと欠けた月を見上げた。これから満ちていく月は大きく、地上の争いなど素知らぬ顔で美しく輝きながら満ち欠けを繰り返そうとしている。

 ふいに町の方が騒がしくなった気配を感じて凭れていた背中を離す。体を反転させて顔を向けても様子は分からないが、ミス・マンデーに手を出さないでと言われたからにはここに留まっておくのが正解なのだろう。町が再度静けさを取り戻したら、予定通り2人と1羽を回収しに行けばいいだけの話だ。


「……」


 しかし、クオンは無言で船を降りた。音もなく地に足をつけて町へと近づく。
 クオンが今回参戦しないことは、ミス・マンデーからクオンの主へと伝えられたはずだ。そうでなければ彼女はとっくにクオンの名前を呼び回っている。それがないということはミス・マンデーの言い分に納得したということに他ならない。誰も彼も肝が据わっていて感心する。クオンはそんな彼らが、嫌いではなかった。

 ゆったりとした歩みは徐々に早まり、タン、と軽い足音を立ててクオンは常人の目にも留まらぬ速さで駆けるとすぐさま町へと入った。
 高い建物の上に登り、殺気と怒声が飛び交う、物騒な喧噪に満ちた町を見回して目を凝らす。2階建ての建物の上に建てられた教会に飛び移る緑色が視界に入り、その手に持った刀を振るうのが見えた。まだまだ粗削りだが、迷いの一切がないなめらかな動きだ。並の人間ではおそらく一刀で斬り伏せられるのが見て取れる。あまり大きくはない教会の前にいた10人以上もの人間が一掃され、その腕前の高さを改めて認識した。

 クオンは無言で視線を走らせた。暴れ回るゾロ以外の姿が見えない。しこたま食事と酒を与えられて潰れているのだろう。
 まあ昼間あれだけ寝ていたのだからこれくらいはしていただかないと、とお前はどっちの味方なんだと問い詰められかねないことを内心で呟いた。
 それにしても、何となく予想はしていたが本当に彼ひとりでこの町を潰しそうだ。


(しかし、分からない)


 こうしてつぶさに観察してみても、あの鷹の目が彼を生かした理由が、いまだに分からない。
 剣の腕は確かだ。技術もある。鷹の目に剣を向け相対して尚折れなかった心と、胸の大傷はふさがりきっていないだろうに平気で動き回れる精神力はあまりに強靭。まだ年若い彼は成長だって目まぐるしいだろう。そうした、客観的に見れば十分過ぎる理由でもどこか納得しきれない自分がいて、クオンは左手で首を撫で、いまだ本気を出していないだろう剣士の動きをひたすらに追った。





†   †   †






 賞金稼ぎの巣、ウイスキーピークを拠点とする秘密結社“バロックワークス”を相手に新入り・・・である刀の試し斬りを兼ねて眠りこけるクルー達の代わりに暴れ回っていたゾロは、そのあまりの骨のなさに吐き出しそうになるため息を噛み殺した。
 各自連携は取れている。食事と酒を振る舞って眠らせたところを一網打尽にするのは、“偉大なる航路グランドライン”にやってきたばかりの海賊相手には決して悪い手ではない。しかし各個人の力量があまりに足りず、多少マシだったのはガタイのいい、全身筋肉でできているような力自慢の女だった。

 女だからと容赦せずその顔を握る手に力をこめて力比べ・・・をしながら、周囲に鋭く視線を走らせて視界に白が掠めないかと警戒する。水色の髪をしたミス・ウェンズデーがここにいるのだ、あの執事が彼女を置いて遠くに行っているとは思わなかった。この騒ぎに気づいていないとも思わない。


「あの執事がいねぇな」

「……!!」


 思わずこぼせば、今にも意識を飛ばしそうになっていたミス・マンデーが目に強い光を取り戻し、歯を食いしばって口の端を笑みの形に歪めた。その反応にゾロの目がミス・マンデーへと据えられる。


「あの、ひとは…!あんた、よりも、強いよ……!」

「へぇ、なら何でここにいねぇんだ」


 確かに、短い時間メリー号で垣間見たあの白い執事の実力は確かなものだった。身のこなし、隙が一切ない動き、針を巧みに操る手腕、そして何より、目にも留まらぬそのはやさ。この町の人間が束になってもあの執事には敵わないだろうな、という評価は間違っていないと確信している。
 だがその執事は今、この場にいない。主さえ放っておいてどこかへ行っている。どうせなら戦ってみてぇと町の人間をいなしながら探っているが、その気配はどこにもなかった。
 無意識に手に力がこもり、さすがに意識を保つことができなくなったミス・マンデーが泡を吹いたところで手を離せば、その鍛えられた体躯は背中から倒れた。外野がありえないだの嘘だのと騒いでいるのを聞きながら、さすがにこの辺の奴らを全員倒せば出てくるか、とゾロは考える。特にあの執事が主と戴くあの水色の髪の女が倒れれば、さすがに出て来ざるを得ないはずだ。

 額から流れて口元へ垂れた血を舐め、ゾロは「続けようか、“バロックワークス”」と凶暴に笑う。それはゾロにつけられた異名“海賊狩り”とは別の、“魔獣”と呼ばれるに相応しい笑みと眼光だった。


「ケンカは洒落じゃねぇんだぜ?」


 だから、と胸の内でゾロは低く喉を鳴らして笑う。得体の知れない、妙な被り物を被った白い執事を脳裏に描いて早く出てこいと口の中で唸り、おもむろにサックスを構える男を見下ろす。そうして始まったケンカ・・・の続きを、白い執事が離れているところで黙って見ていることには、気づけないまま。










 Mr.8がサックス構えて始まったその戦いは、早々に片がついた。
 途中ルフィをミス・ウェンズデーが人質に取ったものの、ゾロはMr.8の銃弾に身代わりとしたMr.9をミス・ウェンズデーに投げつけてまとめて場外へ弾き出し、いまだ眠り続けるルフィのメシで膨れた腹を借りて3階にある教会の前まで飛びMr.8へと斬りかかる。邪魔が入るかと思われたが振り上げた刀はMr.8へと吸い込まれ、なすすべなく斬り伏せられた男はやはりそのままどさりと倒れ込んだ。


(……出て来ねぇな)


 ゾロは刀を鞘に納めながら油断なく周囲に視線を走らせる。ミス・ウェンズデーを助けるか、最後のひとりであるMr.8を助けるか、あるいは倒した瞬間に白が飛び込んでくるかと思ったのだが、拍子抜けするほど何もない。何もないことに落胆がにじむため息をついたゾロが酒でも飲むかと肩の力を僅かばかりに抜いた、その瞬間。


「───!!」


 風を切る音が耳朶を微かに震わせると同時、氷の板を押しつけられたような悪寒が背中を駆け抜けたゾロは本能的にその場から離れた。瞬きの間もなく、ゾロが足をつけていた場所を3本の長い針が貫く。
 屋上を滑るようにして跳び退り腰の刀に手を伸ばしたゾロの背後に、何の予兆もなく気配が唐突に現れて息を呑んだ。しかし気配の主は何をするでもなく、微かな衣擦れの音を立てただけ。振り向けないまま、遅れてぞくりと背筋を這い上がるのは悪寒ではなく得体の知れない真っ白執事への武者震いで、背後にいる執事の強さの一端に口角が引き攣れるように上がった。


「ハ、主人がノされたってのに、今更の登場かよ執事野郎」


 ゆっくりと振り向き、挑発するように言うが、やはりそこにいた真っ白執事は無言のまま気絶したミス・マンデーを軽々と抱え、近くに転がるMr.8の襟首を掴むと瞬きのうちに眼下の地面へと降り立っていた。存外優しい手つきで2人を地面に横たえた執事が背筋を真っ直ぐに伸ばし、その被り物がこちらを向く。どこか愛嬌があるが間の抜けた猫を模した被り物はしかし、辺りに満ちるひりつくような油断ならない空気を和ませることはなかった。

 執事の肩に乗っていたハリネズミがぴょんと飛び降り─── 刹那、空気が張り詰める。ゾロが考える間もなく本能に従って抜いた刀を前に構えれば、キィンと硬く高い音がして目の前に白が立っていた。
 はやい。執事の右手の指の間には細く鋭い針が携えられ、的確に心臓を抉ろうとしたそれを刀の腹で止めたゾロは瞳に鋭利な光を宿した。


「敵討ちか?随分とお優しいな」

「……いいえ」


 刀と針を拮抗させながら、白い執事は低くくぐもった声を上げる。


「これは、私の個人的な衝動に過ぎません。─── 構えなさい」


 ギィン!と甲高い音を立てて刀が弾かれる。ゾロはすぐさま執事から距離を取り、左腕に巻いた黒い手拭いを頭に巻くと腰から二本目の刀を抜いた。油断なく執事の一挙手一投足を見つめ、右手の指に挟まれた3本の針の動きを追う。執事は動かない。ゾロは三本目を口に咥えた。瞬間執事が一歩、足を踏み出して、─── 消える。否、目で追えない速度での高速移動だ。姿を消す能力を有しているのであれば、最初からわざわざ姿を現さなかったはず。

 ゾロは神経を研ぎ澄ませた。空気の流れを読み、人間が必ず地を踏みしめる音を聞き、左で気配が揺れて、瞬間刀を振り下ろした。
 甲高い音がひとつ。3本の針の背で刀を受け止められたゾロは、再び姿を消される前に追撃を繰り出した。高い音がひとつに繋がって夜闇に響く。
 剣の重さは相当なものだろうに、執事は決して細くはない腕で容易くゾロの剣筋を捌いてみせた。いつの間にか、執事の左手の指にも針が挟まれている。


「……ふむ」


 被り物越しのその小さな呟きが、剛剣を軽々と捌きいなす動きが、じわじわとゾロの脳裏にひとりの男を描いていく。捌く執事が振るう針を相手に、一瞬でも気を抜けば刀を弾かれて地に転がされる予感が脊髄を突き刺し、足に力を入れることで振り払う。
 ステップを描くようにするすると白い肢体がやわらかく踊り、振り下ろした刀を右手の針が弾いた。弾く力は決して強くなく、むしろ軽いほどだ。軽く、流されていく。


「重く、凶暴で、鋭い───」


 執事の呟きが耳朶を打った瞬間、その姿が消える。視界はダメだ。何も頼りにならない。残像を追っていては簡単にこの心臓に針が突き立てられる。
 考えるよりも体の方が先に動く。ウソップの故郷で相対したあの黒い執事と同等、しかし自分でコントロールできている分それよりもずっと厄介な白い執事の気配を感じ取ると同時に左手の刀を振り下ろせば、白は捉えたがやはり斬撃は軽くいなされた。続けざまに右手の刀を振り上げ、しかし執事はするりと避けて3歩下がる。ゾロは鋭く舌打ちした。


「てめぇ、何で本気を出さねぇ」


 間合いを取り合い、刀の切っ先を突きつけながら詰問する。
 戦意はあるが殺意がない執事は、その気になればゾロの心臓に針を突き立てることなど容易だろう。ゾロは執事の動きを目で追えない。そして、そのはやさが限界ではないことも察していた。
 左手で首を撫でた執事は、気配や足音を悟らせずに懐へ飛び込むことも背中を取ることも難しくはないはずだった。そうしたら、腕一本くらいはやって執事のことを叩き斬るつもりだったのだが。

 ちらちらと脳裏を掠める男のこともあり、早々にケリをつけたかった。胸の大傷がひどく痛む気がする。この執事は、戦うほどにあの男・・・を彷彿とさせる。
 被り物のせいで執事の素顔は見えない。どんな顔をしているのか、何を見ているのか。そもそもとして、あれでは視界が遮られているだろうに、それを取ることすらしない執事との実力差が浮き彫りにされているようで腹立たしい。もっとも、ゾロは執事が被っているそれが実は然程視界を塞がないのだとは知らないのだが。


「私は、小さな獣を狩るのに全力を出すような真似はしません」


 あなたにはこれで十分でしょう。
 その、言葉が。低くくぐもった声で紡がれたその台詞が、白手袋に覆われた両の手に挟まれた針が、おもちゃじみた小刀を連想させる。向けられた声は確かにこの執事のものなのに、鼓膜の奥で違う男の声が甦った。


 ─── 哀れなり、弱き者よ


「ふ…ざけんなァ!!」


 全身の血が一瞬で沸騰したような激情に駆られるがまま叫び、一足跳びで執事の懐へと飛び込む。しかし執事は慌てることなくその姿を消した。振り上げた刀が空を斬る。
 本当に、これで十分だと思っているのだ。このおれを、倒すのに。殺意はないから殺すつもりはないのだろうが、それでも執事は自分が逆に倒されるなど微塵も思っていない。
 激情でぐらぐらと腹の奥が煮えたぎるほどだというのに、ゾロの神経は比例して研ぎ澄まされていた。こいつには、この執事にだけは、たとえ心臓を貫かれたとしても敗けるわけにはいかない。

 針が空気を切る音が聞こえ、その場から跳び退ったゾロは一瞬遅れて床に刺さる針を一瞥もすることなく飛来した方を見据えた。
 執事の白い姿が瞬きひとつ満たない時間確かに視界に入って、すぐに掻き消える。やはりだ。あの執事は針を飛ばす瞬間だけ、その姿をあらわにする。


(次で決める)


 刀を握る手に力をこめ、常人なら気絶しかねないほど凶暴な光でその目を爛々と輝かせたゾロは喉の奥で短く唸る。
 執事はまだ決め手を打たない。こちらの体力を削ってから仕留めるつもりなのかもしれないし、他に何かしらの意図があるのかもしれないが、ただゾロの剣戟を捌いて思い出したように針を投げる執事との戦闘は、長引くほどに不利だ。腕の一本、心臓ひとつ、覚悟を決める。

 ふいに、空気を切る音がした─── 後ろ!
 ゾロは反射的に反時計回りに振り返りながら左手の刀を払って飛んできた針3本の内2本を打ち落とし、1本は避け、執事が消える前に駆け出そうとして───


 そこに、白い執事の姿はなかった。


 視界の端に白が映る。左。否、後ろ。白い執事の右手に、ゾロの背後から飛んできて撃ち漏らした1本の針が、握られているのが見えて。
 そういえばこいつの能力は何だったか。どこか遠くで疑問に思う自分の声を聞きながら、その手が振り下ろされるのを見た。
 心臓のある場所。今にも貫かんとする、おもちゃみたいなそれ。一度敗けた。二度と敗けないと誓った。二度目が、音もなく目の前に迫る。

 すべてがスローモーションのように遅くなる。執事のはやさに慣れたせいかもしれなかった。
 ゾロはねじるように体をひねらせ、左手に持った刀を無理やりに振り上げた。無茶な体勢にぎしりと筋が悲鳴を上げるが無視をして、心臓目掛けて振り下ろされた針の先を斬り飛ばす。先端を平らにされた針が服を刺し、繊維を貫いて厚みのある胸筋に阻まれて止まる。
 目の前の執事が驚いたように息を呑んだ気配を感じ取る暇もあればこそ。ゾロは勢いのまま、白い執事へと右手の刀を振り上げた。白刃が、月光を受けて煌めく。

 ざくりと手応えがして。


 ─── 白い首が、宙を飛んだ。





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