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 遠目にサボテンのような大きな岩が見えた頃、クオンはおもむろに手を伸ばしてミス・ウェンズデーとMr.9の首根っこを掴んだ。
 ぽい、と2人を海へ投げ捨てる。水しぶきが2つ大きく立ち、あれこれ前もあったな、と海に強制入水させられた2人が慌てて海面に顔を出した。


「ここまで送ってくださり、ありがとうございました。私達はこの辺でおいとまさせていただきます」


 いつの間にか浮き輪とオール、そしてアタッシュケースを手にしたクオンが手すりの上に立つ。
 胸に手を当て、優雅な仕草で綺麗な一礼をした全身真っ白執事は懐に手を入れ、小袋を取り出してナミへ投げ渡した。船賃です、と言えばナミが「おつりは必要かしら?」と不敵に笑う。
 ナミは守銭奴と聞いていたからその言葉が意外で、けれど被り物のせいできょとんと目を瞬くクオンの様子は誰に見られることもなかった。


「たとえ縁があろうとも、あなた達とはまた会いたくはないものです」


 それだけを言い残して、クオンは手すりから海へと飛び降りた。





† ウイスキーピーク 1 †





 いきなり海へ投げ捨てられた2人は、浮き輪の上に立つクオンを恨みがましげに見上げる。


「もう少し近くまで寄ってもらってもよかったじゃない、クオン

「こっから泳ぐとなると大変だぞ!?」

「おや、ここから町まで私についてこれたらお仕置きを免除して差し上げようかと思いましたが、不要でしたか?お嬢様、3日間の素顔禁止令を撤回且つ、素顔でお姫様抱っこしつつの甘やかしは、いらないと」

「泳ぎます」

「おおいミス・ウェンズデー!!お前がクオンの顔にちょろすぎるのは知ってたけど自重しろ!?」

「何でクオンに対しての欲望を抑える必要が…?」

「真顔やめろ!!!」

「さてMr.9、針千本ノックここからウイスキーピークまでやり泳ぎますか?やり泳ぎませんか?」

やり泳ぎます」


 よろしい、とひとつ頷いたクオンは肩に乗ったハリネズミをひと撫でして海面に浮かぶ2人から遠くに見えるウイスキーピークへと顔を向ける。
 上部には三角形が2つ、頬部分には左右対称に3本の線が、そして黒い2つの目とωな口元だけを描いた猫を模した被り物は少々間の抜けた顔をさらしているが、その中身は鬼か悪魔のような執事だ。
 そう心の中で評したMr.9を見ることもせず、被り物も身にまとう燕尾服も手袋も何もかもが白い全身真っ白執事はオールを海面につけ、「では行きましょう」と言った瞬間には既に2人から離れたところへと飛び出していた。ぎょっと2人が目を剥いて慌てて泳ぎ出す。


「まっ…!待ってクオン!!」

「ミス・ウェンズデー!置いていかないでくれ!!」


 執事の主であるミス・ウェンズデーの近くにいればおこぼれで助けてもらえる可能性があるMr.9は、全速力で泳ぎさらに先を行こうとするクオンの後を追う相方に情けない声を上げて追い縋った。

 それを半ば呆然と見送って、ふいに誰ともなしにこぼされた「いったい何だったんだあいつらは」という言葉に、新しい島に冒険心を掻き立てられているルフィ以外の全員が頷いた。










 全力水泳で何とかウイスキーピークへ辿り着いた2人はさすがの疲労から倒れて気絶し、のんびりと岸で待っていたクオンが両肩にひとりずつ抱えて町を歩くと、あちこちから声がかけられた。
 おかえり、お疲れさま、今回は遅かったな、大丈夫だったか。それらひとつひとつに律儀に頷きと短い返事をして歩を進めていれば、ひとりのガタイのいい、腕も足も全身がみっしりとした筋肉に覆われた女がこちらへ駆け寄ってくるのが見える。


クオン、やっと帰ってきたのかい!」

「ミス・マンデー。ただいま戻りました。新しい服、可愛いですね。似合っていますよ」

「ありがとう!でも本当によかったよ、無事で。そうそう、見張りから連絡が来て、海賊達がこの町へ向かってるって」

「ええ、私が少々世話になった方々です」


 クオンが歩みを止めないままそう言えば、横を並んで歩くミス・マンデーがえっと目を見開く。被り物の顔をミス・マンデーへ向け、クオンはさらに言葉を続けた。


「彼らには手を出さず、“記録ログ”がたまったらすぐに出航させることをおすすめします」

「……まさか、あんたともあろう者が、あいつらに情が湧いたのかい?」

「否定はしませんが…まあ単純に、おそらく我々では勝てません」


 顔を前に向け直し、クオンは戦力の差を冷静に考える。
 懸賞金3000万ベリーの船長の強さはまだ目にしていないが、反応の良さと能力の使いこなしようを見れば多少は読み取れた。ただの人間が相手取るには分が悪い。
 そして、剣士のロロノア・ゾロとコックでありながら戦闘にも秀でたサンジ。この2人も簡単にバギーやアルビダの部下を蹴散らしていたから、やはり彼らの首を獲るのは難しいだろう。何ならあの剣士ひとりで全部片付けられそうだとまで思う。

 クオンは町の人間をいたずらに傷つけさせるつもりはない。だから勝てない勝負はさせたくなく、このまま素通りしてもらいたかった。
 主であるミス・ウェンズデーは、クオンの意見を聞けば尚更意地になるだろう。これ以上彼らと接触させたくない、できることならここで亡き者にしておきたいと思っていることは読み取れていた。だからミス・マンデーへあくまで進言という形を取って説得し、この町で一番の実力者であるクオンがそう言うのだからと、他の者へ伝えてほしかった。
 そんなささやかな期待は、しかし眉間に深い皺を刻むミス・マンデーの厳しい顔を見て霧散する。


クオン。あたしは、あたし達は、今回の件で反省したんだ」

「?」


 あまりに真剣な響きが耳朶を打って、クオンは思わず足を止めた。気づけば、隣に立つミス・マンデーと自分の周りに町の人間が集まっている。皆、一様に真剣な眼差しでクオンを見つめていた。


「あたし達は今まで、あんたに頼り過ぎていた。食料も薬も技術も足りなかったこの町を整え、大人達に効率の良い戦い方を教えて、幼い子供達でもできることを教えて、あたしらが危なくなればいつだって先陣切って戦ってくれた、あんたに」

「……私は、主のためにもなると思ったからやっただけのことです」

「それでも。あたしらはいつの間にか、何があってもあんたが何とか・・・して・・くれる・・・と甘えて胡坐をかいていたんだ」


 あんたがいない間に痛感した、とミス・マンデーは絞り出すような声を出した。
 クオンが町を不在にした11日間、彼らはクオンが普段から言い聞かせた通りに訓練をし、働き、学んで、海賊の寄港に備え、主以外の誰にも素顔を晒したことのない白い執事が帰ってくることを待っていた。
 ある日いきなりミス・ウェンズデーがつれてきた得体の知れない執事だが、その手腕は過ぎるほどに有能で、いつしか町の全員が頼るようになって、そして予定していた1週間が過ぎても帰ってこないことに全員が戦慄した。
 クオンが帰ってこない、どうする、どうしたらいい、と混乱に陥り、それでも不安を抱えながらじりじりと帰りを待ったが10日が過ぎても帰ってこず、そうして初めて、クオンにおんぶにだっこだった自分達に気がついたのだ。


「あんたにそのつもりがないことは分かってる。町が整ったのもあたし達が頑張ったからだと、自分は少しだけ手伝いをしただけだとあんたがいつも言っていたことを疑わない。けど、それでも、あたし達はもうあんたを頼っちゃならない」

「……ミス・マンデー」

「あたし達が勝てないとあんたが言うなら、たぶんそうなんだろうさ。けどだからといってあいつらを見逃がしたら、あたし達はこれから先、一生何も変わらない」


 ミス・マンデーの言葉は真っ直ぐだった。だからこそクオンの胸に痛いほど響いた。真摯であればあるほどクオンには届くと、彼らはもうとっくに知っている。
 自分達の稼業がまともでないことを彼らは理解している。海賊は狩って世界に貢献しているかもしれないが、所属する会社・・は不穏そのものだ。与えられる任務に失敗すれば報いが下される。それでもそれぞれ思惑があって所属しているから恨み言も泣き言も言うつもりはなかった。
 卑劣、姑息、謀略、死─── 心が荒むような現場にいながら、互いに罵り蹴落とし合うような環境に身をひたしていながら、それでもどこか、バカみたいに他者を思う心が捨てられないどころか育まれていくのは、この白い執事が真っ直ぐに伸びる背中を見せてくれて、静かに落とされる、被り物越しの低くくぐもった声音が決して冷徹ではないからだ。
 ああそういえば、この執事が主と戴く女もまた、身内を大事にしようとするとんだお人好しであることをミス・マンデーはぽつりと思い出した。


「あんたは手を出さないで。あたし達が勝てなかったなら、それはもう仕方がない。だから─── 止めないで」


 ミス・マンデーに同意するように、周囲の人間の目に力がこもる。男も女も、大人も子供も関係なく真っ直ぐに見つめられて、少しの沈黙を挟んだクオンは被り物の下で小さなため息をついて肩をすくめた。
 どの道、すぐに主を連れてこの町を出なければならない。ごたごたの隙に逃げられるのであれば願ってもないことだ。何なら、あの海賊船を奪ってもいいだろう。そこまで理性で合理的に考えて、しかしそうしましょうかと内心呟いた言葉には何も中身が伴わなかった。


「……これから町に来る海賊船の船長は麦わら帽子を被った男です。食べ物、特に肉が好きなので肉料理で釣るといいでしょう。ただしものすごく食べます。警戒するべきは三本の刀を腰に差した剣士、警戒心が強いので早々に迂闊な行為はしないように。黒いスーツを着た金髪の男は女好きなので女性に囲ませなさい。オレンジ髪の女は航海士、特に戦闘力はありませんが肝が据わってます、手っ取り早く潰しておくように。鼻の長い男は……狙撃の腕に自信はあるようですが、こちらも純粋な戦闘力はないものと見ていいでしょう」


 淡々と一味の情報を口にし、最後に、と被り物を被った白い執事はぐるりと周囲の人間へ顔ごと視線をめぐらせた。


「毎度のことですが、手に負えないと判断したら即座に撤退してください。無理に追おうとしなければ、彼らは命を取るまでのことはしないでしょう。あとは私が……」


 何とかします、と言いかけて首を横に振る。


「私は私のやりたいように、やります」


 くしゃりと泣きそうに顔を歪めて笑ったミス・マンデーは何も言わず、そしてクオンもそれ以上何も言わなかった。





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