153





 石でできた階段は地下深く続き、かつりかつりと足音を立てながらひたすらに下りること暫く。途中地上から落としていたサイリウムを拾い上げてはまた下へ向かって放り投げ、一見して明らかに怪しいところはないことを確かめながら慎重に足を進めていた3人だったが、その終わりは唐突に訪れた。
 サイリウムを放り投げて四度目。眩い光が闇を散らした先に、それは現れた。


「あれ…扉…?」


 後ろにいたクルーが男の内心を読んだように呟く。
 階段の終点、細かい石の欠片がいくつか落ちている僅かな通路の向こう。人ひとりがようやく通れるだけ階段側に開かれた扉が、サイリウムの光を無機質に反射していた。






† ×××の島 2 †





 転がるサイリウムを開かれたままの扉から中へと蹴り入れ、静かに扉へと近づいた男は中の気配を探る。だが何の気配もない。鼻で息を吸えば地下特有のこもったにおいがして、その中に微かに混じる異質な何かを感じ取ったがそれが何なのかは判然とせず、正体の分からない不快感に眉をひそめる。
 サイリウムの光に照らされて中の様子がおぼろげに暗闇の中から浮かび上がる様子から、どうやらそれなりの広さがありそうだと目算し、ちらと視線を落とせば土が剥き出しの地面が見えた。
 男が扉に手を伸ばす。ドアノブのない扉は一見して重厚な造りをしており、扉の中ほどを掴んで引き開けようとした男は─── 瞬間、全身から力が抜けて膝をついた。


「「キャプテン!!」」


 2人のクルーが突然膝を折った船長に血相を変えて駆け寄る。男は力が抜けた拍子に体勢を崩したものの大太刀を支えにすることで無様に倒れ込むことはなく、呆然と扉を凝視していたかと思えば唇を歪めて唸った。


「この扉、海楼石でできてやがる」

「え?」

「マジ?」


 船長の不機嫌な声に目を瞠ったクルーが扉をまじまじと見つめて手で触れるが、悪魔の実の能力者以外には何の影響も及ぼさない扉は素知らぬ顔でされるがままだ。男は海楼石の扉を睨み、立ち上がり膝についた土を払おうとして、自分の手が黒く汚れていることに気づいた。
 能力者である船長に代わってPENGUINと書かれた帽子を被ったクルーがちょっと重いなこれ、とぼやきながら扉を開く。男は扉に触れた部分、それも内側の方にかけてついた指の汚れに既視感を覚えた。汚れを拭うように親指で擦って、ほのかに赤黒く伸びたそれを見るや頭の中に直感という名の閃光が走る。同時、引き攣ったクルーの声が地下空間に反響した。


「うわっ……!何だよこれ!!」


 はっとして顔を上げれば、大きく開かれた扉の内側がサイリウムの白い光に照らされてそこにあるものをさらしていた。
 それは、おびただしいほどの無数の引っ掻き傷だった。本来ドアノブがあるはずの場所を中心に、開くことのできない扉を削って開けようとしたように傷がついている。そして、明らかに人の手によってつけられた傷に重なって塗り込められた、黒い汚れ。
 そうだ。男はこれを知っていた。この集落に辿り着いたとき、否が応でも視界に入った、あの乾ききった黒。そして鼻孔を掠める異質な何かは、循環することなくこの地下空間に澱んだ空気にとける、血臭だ。


 ─── やだ。この下は怖い。だって泣いてるよ…悲しいもん、怒ってて、苦しいって


 ふいに白クマの声が脳裏をよぎる。今にも泣き出しそうに涙を湛えた顔を歪め、泣かないでよぉ、と白クマだけが感じる悲しみに同調してこぼしたのは慰めではなく自分ではどうすることもできない己の嘆きだった。
 男は無意識に扉の傷に黒く汚れた指を伸ばした。途端、ぱちりと目の奥で白い光が爆ぜる。扉の前に蹲り、必死に爪を立て、その爪がどれだけ欠けても剥がれても血があふれても扉に縋りついて、開けろと喉が潰れることすら構わず叫ぶ白い幻を見た。


「キャプテンが言ってた生き残りが、ここに閉じ込められてた…?」

「てことはそいつは能力者ってことだよな。でなきゃわざわざ海楼石の扉なんて使わないだろ」

「でも、ならどうやって出たんだ?誰かが外から開けてやらなきゃ出れねぇだろ」

「う~ん?いやそりゃ分かんねぇけど」


 お互い顔を見合わせて首を傾げるクルーを一瞥して、その疑問ももっともだと男は目を細める。が、今はそれを考えたところで答えが導き出せるはずもなく、無数の傷がついた扉から顔を背けて扉で塞がれていた地下空間へと身を滑り込ませた。
 扉近くに転がるサイリウムを蹴って部屋の中央へと移動させる。ランプよりも光量が強すぎるそれは縦横無尽に光を走らせ、しかしその光は壁までは届かないほどに広い部屋だった。たったひとりを閉じ込めるには過ぎるほどの広さに訝って眉を寄せ、部屋の端までよく見ようと手に持ったサイリウムを掲げた男は、白い光に照らされた壁に息を呑んだ。同じくサイリウムで照らした壁を見たのだろう、クルー2人の短い悲鳴が部屋にくぐもって反響する。


『愛してる』


 石でできた壁に、ぎっしりと隙間なく文字が書かれていた。


『愛してる』『愛してる』『愛してる』『幸せに』『愛してる』『笑っていて』『私達の愛』『我らの救い』『愛してる』『愛してる』『あなたと会えてよかった』『愛してる』『泣かないで』『幸福を』『愛してる』『どうか』『どうか』『幸せに』『愛してるから』『ありがとう』『愛してる』『愛してる』『愛しい子』『愛してる』『ありがとう』『愛してる』『愛してる』『愛してる』『愛してる』『愛してる』『愛してる』『愛してる』───……


 明かりなくしては決して誰の目にも触れることのない、サイリウムの光がなければ完全な闇に沈むだろう部屋の壁が密やかな愛を囁いている。黒く酸化した、おそらくはこれを書いた者達の血で。ここに閉じ込めた者に向けた、呪いともいうべき愛が四方から部外者を冷たく睥睨していた。
 あまりの異様さに顔を引き攣らせた3人は自然と背中を庇い合うように壁に体の正面を向けて部屋の中央で輪になった。


「何だよ、これ……」


 無意識にこぼれたのだろう小さく震えた声が耳朶を打ち、男は無言のままこめかみに冷や汗をにじませると大太刀を握り締める手に力をこめた。と、ふいにぶるぶる震えていたクルーがキャスケットの上から頭を抱えて叫ぶ。


「イヤァァア重い!あまりに重い!!いやマジで重い!!愛っつーかこれもう呪い!!!重すぎてゲロ吐きそう!!!何なんだよこれェ!!おれもうヤダー!!とっととここ出ようぜキャプテン、ペンギン!!」


 まさしく悲鳴と言っていい渾身の叫びが全身を搦め取っていた奇妙な重苦しさを吹き飛ばす。もはやホラーじゃん!!と続けてゾゾゾと背筋を寒くさせるクルーに、PENGUINと書かれた帽子を被ったクルーが青白さを残した顔で固く頷いた。ちらりと帽子の陰から視線を向けられ、細く息をついてぐるりと壁を見回した男は頷こうとして、何かに気づいた顔をすると扉とは真逆に足を進める。


「キャプテェエエン!?どこ行くの!?戻ろうよー!!」


 クルーの涙混じりの叫びを無視し、サイリウムの光で奥の壁を照らす。そこにも乾いた血文字で愛が綴られ、しかしその中に紛れるように小さな文字が刻まれていた。血文字ではない、明らかに人の手で彫られた文字だ。ゆっくりと近づきながら男はその文字を読む。


『なぁマシロ。言えなかったことがある。おれ達は、おれ達の死がお前の傷になればいいと思っている』


 ここに閉じ込めた人間に伝えるつもりはない、それは誰かの独白だった。
 そろそろと男の後ろについてきたクルー2人が他の血文字と違う文面に気づいて帽子の陰で目をしばたたかせる。「マシロ、て、ここに閉じ込められた奴…?」と推測を口にして2人もまた独白の続きを追った。


『一生塞がることなく癒えることも消えることもない深い傷になればいいと願っている。いつだって傷から血を流していてくれ。おれ達を悼み、想い、やるせなさに苛まれて苦しみ抜いてくれ。お前の嘆く声がおれ達を慰める弔いの唄だ』

「いや重ッッッもいわ!!!何なのこいつ!?」


 キャスケット帽子を被ったクルーの鋭いツッコミが迸った。せやな、とPENGUINと書かれた帽子を被ったクルーがすんと表情を消して深く頷き、船長の男もため息をつく。
 あまりに重苦しい、愛というには歪んだ想いを吐き出す誰かは、そしてこの部屋に血文字を書いた者達は─── 白い男に殺され滅びたカオナシの一族は、全員が凄惨に迎えるだろう己の死期を悟り、むしろそれを最初から望みすらして、いつかが来たらここに「マシロ」と呼ぶ人間だけを生かすために閉じ込める算段だったのだろう。愛する「マシロ」に深い傷をつけて、その傷を癒やすことなく背負って生きていけと呪っ愛している。狂ってる、と男は喉の奥で低く唸った。
 だがおそらく、カオナシの一族全員、内心の一切を「マシロ」に伝えるつもりもなく、そして彼らが願った通り伝わっていない。それを無遠慮に暴いたのは自分達の方で、重いだの何だの言う資格がないことは分かっているが、それでもやはり重いものは重いと男は苦い顔を隠せなかった。


「……あ?」


 重い独白文を眺めていた男は、ふとその下にさらに小さな文字で何かが刻まれていることに気づいた。一歩近づいて見てみる。


『我らが滅びの血族のすえにして祖。終わりの始まり。願わくば───』


 は、と別の意味で息を呑んだ男は食い入るように文字を凝視して身を乗り出し、そして。



『 誰 だ お 前 は 』


 その文字を網膜を通って脳が処理したと同時、カチ、と、ひどく嫌な音がした。


 ズンッ……!


「エッ!?何!?なになになになに!!?」

「地面が…揺れてる…!?」

「スッゲーヤッベー予感がしますよペンギンさん!!!」

「同意したくないけどおれもだよシャチさん!!!」


 一度上下に大きく嫌な揺れを起こした部屋で顔を青褪めさせたクルー2人がひっしと抱き合う。男もさすがに顔色を変えて舌打ちした。
 時間を重ねるごとに揺れが大きくなる。びしりと石でできた壁や天井に大きなひびが入り、ぱらぱらと細かい欠片が落ちてきた。

 万が一この島に外から人が訪れ、この地下空間に辿り着き、壁に刻まれた文字を読む者がいたとして。カオナシの一族の秘密を知った者を生かしては帰さぬと、この地下空間を崩壊させる罠を敷いた誰かの絶対的な殺意が3人を取り囲む。
 ゴゴゴゴ……とさらに地下奥深くから腹に響く重い音と震動が這い上がってくる。入ってきた扉を振り返るが既にそこはぴたりと閉ざされていて開く気配はなく、頭の中に響く警鐘を強めた男は咄嗟に刺青が刻まれた左手を下に向けた。


ROOMルーム!!」

「「わ~~~んローさん助けてぇ~~~!!!」」

「くそっ…!地下深くにこの部屋を作ったのは確実に生き埋めにするためか!!」


 己の悪魔の実の能力を行使するために質感のない透明な膜をひたすらに広げる男は帽子の陰で顔を歪めた。扉はおそらく土の下に埋め込んだ罠のスイッチを踏んだ瞬間に閉ざされる仕様になっており、それで能力者はまず逃げ出せないし、階段を上って地上に戻るにしてもその前に天井が落ちてきて潰されるだろう。地上へ飛び出そうにも、階段で下りてきた距離を考えればそれが可能な人物は限られる。残念なことに男に天井をぶち抜くだけの膂力はなかった。だが幸いなのは海楼石が使われているのは扉だけで、この部屋はあくまで石で造られただけのものだということだ。


「ッ、届いた!─── シャンブルズ!!!」


 膜が地上に届いた瞬間、男は能力を発動した。音もなく地上に転がる石と3人が入れ替わり、同時に3人がいた場所に崩れた天井が降り注ぐ。
 瞬く間に崩壊を進める部屋に残されたサイリウムの白い光は、間を置かず瓦礫に埋もれてその光を途切れさせた。






  top