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 とある日、“偉大なる航路グランドライン”のとある春島に、降り立つ複数の影があった。






† ×××の島 1 †





 天気は快晴、気候は穏やか、気温は高すぎず低すぎず春島らしく過ごしやすい。この島にやって来た目的さえなければ呑気にピクニックをしても許されるような、ひたすらにのんびりとした雰囲気に満ちた島には大きな獣の気配はなく、そして人の気配もまた、どこにもなかった。


「本当にこの島なのかぁ?傭兵達の島って」

親切に・・・お話してくれた海兵さんが言うには、そうらしいけど」


 船を泊めた海岸に佇む男の傍でクルーが言葉を交わす。船体に描かれたマークがにんまりと笑って男達の立場を見る者に教えるが、それを見て驚き、怯え、あるいは商売相手として歓迎するような者はどこにもいない。
 吹く風に帽子をさらわれないように手で押さえた男は目の前に広がる森を少しの間眺め、「行くぞ」と振り返らずに歩き出した。


「アイアイ、キャプテン!」


 元気の良い返事をしたクルーを率い、大太刀を担いだ男は森を歩く。陽の光が遮られた森は涼しく、適度に木漏れ日があるため思ったほど暗くはなかった。小動物が棲んでいるのだろう、時折小さな獣の気配がするが、やはり人の気配はどこにもない。
 あちらこちらに気になる薬草や木々が見えたが、男の足はひたすら真っ直ぐ進み、然程の時間をかけずに森を出た。罠のひとつもない、拍子抜けするほど平和な森だった。


「あ、町…てか、集落だ」


 森を抜けて少し歩けば、クルーのひとりが呟いた通り、なだらかな坂の向こうにいくつかの建物が見えた。整えられた坂をいくたび、土壁と木の屋根でできた簡素な造りの家がはっきりと見えてくる。
 集落の入口に辿り着いた男はしかし、淀みなく動かしていた足をふいにぴたりと止めた。立ち止まった男の後ろから、オレンジ色のツナギを着た白クマが身を乗り出す。


「キャプテン?どうかし……うわっ」


 息を呑んだ白クマは、整えられた道や点在する家のあちこちが黒い何かで汚れている光景に目を見開いた。
 何かしらの液体がおびただしいほどの量で地面を染めている。既に乾ききったそれは雨風にさらされたことで多少薄まっているが、しみこんだ痕からここで凄惨な事件があったことは隠しきれるものではない。
 鋭く目を細めた男が黒い痕に視線を走らせる。乾いて酸化し変色しているが、これらが人間の血であることは間違いない。
 ひとりふたりの量ではない。道の先々まで続くそれに、数十人が同じ末路を迎えたのだろうと悟る。聞いた話が事実なら、全滅したというのも納得はできる。だが。


「死体がねぇな」

「…動物が食べたとか」

「巣に持ってった跡も、骨の欠片も残されてねぇ。数十人分を食い尽くしたんなら、人の味を覚えたやつがおれ達に近づかねぇ道理がねぇだろ」


 淡々と言葉を繋ぎ、やはり肉食獣の気配ひとつない周囲を眺めやった男が確信を口にする。


「生き残りがいたんだ」


 赤い槍を・・・・持つ・・白い男に・・・・滅ぼ・・された・・・、この島に。

 気前よく、海賊に捕まり死の恐怖に怯えた海兵がぺらぺらと話してくれた情報は不完全だが一部は確かだったらしい。
 地面や家についた刃物の傷を視界の端におさめ、一行は乾き酸化した血に染まる道に足を踏み出した。人の気配は当然なく、だが凄惨な道に反して家の中はあまり荒れていない。当時の生活のまま残され、埃と砂に汚れたカップがテーブルの上に鎮座していて、滅びはあまりに唐突だったことが窺えた。
 声かけもなくクルー達が散開する。家のひとつひとつを覗き、中を検め、しかし全員が首を振って戻ってきた。

 うららかな午後に、血の痕が残る廃墟をキャプテンと呼ばれた男は歩く。道の先、点々と続く血痕に導かれるように。
 やがて、男は辿り着く。集落の奥、ひらけた地に─── 木で作られた十字架が整然と突き立てられて並んでいたそこは。


「これ───…」

「墓だ」


 ついてきていた白クマの呆然とした呟きを引き継ぎ、男は目算で数十はある十字架と、十字架の頂点にかけられた、それぞれに似たものはあっても同じものはひとつとしてない被り物を眺める。
 多少風化し傷んでいる、種類もクオリティも異なる被り物と十字架は、正しく墓標だ。墓を建てた誰かは、墓標に刻む名の代わりに、そこで眠る個を示すための被り物を残したのだろう。
 “カオナシ”と呼ばれた傭兵達は、誰の目にもその素顔を決してさらすことはなかったという。

 墓を建てたのは海兵ではない。この島に降り立った海兵達はカオナシを滅ぼした白い男に襲われ、振り払うことに必死でそれどころではなく、転がる骸を捨て置いたと言うのだから。
 ゆえに、男が確信を呟いた通り、ひとりひとり丁寧に埋葬した生き残りがいるのは間違いなかった。

 その存在が明らかになったときから隠されていたカオナシの素顔は気になるが、墓を掘り起こすような冒涜を行う気にはならない。安らかに眠っているのならそのままにしてやった方がいいと海賊でありながら医者の男は思う。

 被り物はすべて動物がモチーフになっている。犬や鳥などのメジャーな動物はもちろん、鼻の長さも再現された象や妙にリアルな龍を模したもの、蛇が球体にとぐろを巻いたもの、「あ!キャプテン、これおれだ!」とキャスケットを被ったクルーが指差した先には白黒のシャチの被り物があり、「おれのはない……」とPENGUINと書かれた帽子の男が肩を落として、ちらほらとおれのはあった、おれのはないー、とあちらこちらで声が上がる。白クマのものはなかったがクマのものはあったようで、「あれもおれってことでいいかな」と男の後ろから身を乗り出して訊かれて適当に頷いておいた。
 墓場だというのににわかに騒がしくなり、たしなめるべきかと男は船長として思うが、心地好い澄んだ空気と眩しく降り注ぐあたたかな陽光にそんな気も失せて呆れたように目を眇めるだけだった。

 にぎやかにはしゃぐクルー達だったが、ふとそれら被り物の持ち主はすべて殺されたことを思い出し、誰からともなく手を合わせる。
 生きているうちに会えたら作り方を教えてくれたかな、とクルーのひとりが言い、何かしらの生き物の名を持つ者達が残念そうにため息をつく。謎が多いカオナシの一族がそう簡単に教えてくれるわけはないと分かっている男は、しかし何も言わずに被り物を眺め、ふと建ち並ぶ十字架の最奥にある墓─── 正確には十字架にかけられた黒い被り物に目をとめた。


「キャプテン?」


 墓場に足を踏み入れて奥へと向かう男を白クマが呼ぶが、今はそれを無視して最奥の墓の前に立った。上部には三角形が2つ、頬部分には左右対称に3本の線が、そして白く縁取られた黒い2つの目とωな口元だけを描いた猫を模した黒い被り物をまじまじと眺める。
 クオリティが高いものは他に多くある。シンプルで、猫を模している以外は特徴のないそれがかかった墓は、他の墓の並びからひとつだけ外れた奥に建てられていた。丁重に死したカオナシの一族を弔った誰かは、しかしこの被り物の主を、少しだけ特別に思っていたのだろう。


「キャプテーン!!」


 墓の前に佇む男へふいに声がかかる。男は声の主に顔を向け、先程散開していたクルーのひとりが戻ってくるのを見た。そのクルーは墓に気づくと「うわっ」と声を上げ、仲間の名と同じものを見つけて「あ、シャチの生首」「違ぇよ!いや違わねぇけど違ぇ!」と軽快なやり取りを挟んで男に顔を向けた。


「集落から少し外れた森の近くに、家…てか、倉庫がありました。血の痕はないけど扉が開いたままだったから、気になって覗いたら……地下に続いている階段があって」


 さすがに地下をひとりで探索することはできず、走って戻ってきたクルーの報告に男は目を瞠り、クルーが走ってきた方角を見た。気を張り詰めた船長につられ、ゆるんでいたクルーの身も硬くなる。案内しろ、と短く言葉を落とした船長をすぐさま承知したクルーが先導する。男の後ろに他のクルー達も続いた。

 半ば駆け足のクルーをやや早足で追い、一行が辿り着いた場所は確かに集落から少し外れた森の近くだった。集落に建てられた家と同じ素材で作られたそれは住居用の家というには窓が少なく小ぶりで、外見からして倉庫と言われたことに納得する。
 倉庫の前で足を止めたクルーを通り過ぎ、大きく開かれた扉から中に入った男は辺りを見回した。整然と並べられた木箱や大きな樽、干された薬草、背の低い棚に並べられた調剤用の道具などを順に見て、一番奥でぽっかりと口を大きく開けている地下への入口に目をとめる。覗き込んでみれば、中は明かりがないのだろう、階段の手前側はともかく、奥はとっぷりとした闇に沈んでいた。近づいてみても空気の流れは感じず、目を細めた男はふと、地下への入口のふちが微かに黒く汚れていることに気づく。いくつか集まった小さな点は、まるで人の指のような───。


「キャプテン……おれ、ここ、やだ」

「ベポ?」


 ふいに震える白クマの声が耳朶を打ち、小さな黒い点から背後のクルーへと意識を移した男は胡乱に振り返る。白クマは怯えたように耳を両手で押さえて大きな体躯を縮こまらせ、涙をにじませた目で男を見下ろして無意識か一歩後退った。


「やだ。この下は怖い。だって泣いてるよ…悲しいもん、怒ってて、苦しいって」


 譫言のように並べられた要領を得ない呟きにキャスケットを被ったクルーが首を傾げ、いつになく怯えた様子の白クマの背を軽く叩きながら「落ち着け、大丈夫だから。キャプテンもおれ達もいるだろ」と安心させるように声をかけた。うん、うん、と小さく何度も頷く白クマだが、何を聞いたのか、「泣かないでよぉ……」と自分こそが泣きそうに顔を歪めて背中を丸める。
 窓から吹き込む風は爽やかだ。射し込む陽の光はあたたかくやわらかい。なのに地下への入口は真っ暗な闇を湛えていて、同じ場所にあるのに真逆な、違和感を抱くはずなのにそれがない奇妙な同居を果たしているふたつを男は睨む。
 白クマは協調性が豊かな方だ。そしてミンク族という種族は獣の性質が強い。動物の勘的なものが働いているのだろうと結論付けた男はふたりのクルーの名を呼んだ。


「ペンギン、シャチ」

「アイアイ。ランプはやめといた方がいいよな。明らかに空気循環してなさそう」

「こないだ流れの商人から買ったサイリウムは?」

「光が強すぎる上に一度つけたら効果切れるまで消えないあれか。よし採用」


 長い付き合いゆえに素早く意を汲み、会話を交わしながら手慣れた様子で地下探索に必要な物資を選り分けるPENGUINと書かれた帽子の男から細い20cmほどの棒─── サイリウムライトを受け取った男は軽く力をこめて光を灯した。途端に陽の光の下でも分かるほど明るい光が広がる。男は無言でそれを階段の入口から放り投げ、ライトは鈍く固い音を立てながら下へと転がっていった。闇を白く塗り潰す光が何事もなく奥へと進み、やがて見えなくなる。


「地下にはキャプテンとおれとシャチが行くから、あとは待機!」

「何かあったら自分達の身を最優先にな!おれとペンギンはキャプテンに助けてもらうから大丈夫!」


 まったく他力本願なことをのたまったキャスケット帽子のクルーの言葉を船長である男は否定せず、無言でもう一本新たに受け取ったサイリウムライトの光を灯すと、大太刀を担いだまま地下への階段に足をかけて躊躇うことなく下りていった。






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