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 約束の時間が迫っている。ここで無駄な時間はかけられないと、麦わらの一味を乗せたメリー号はひたすら真っ直ぐに東の港を目指した。
 “黒檻のヒナ”率いる海軍船はすべてボン・クレーが引き受けてくれたため、残るは先程の鉄の槍ではなく、見慣れた砲弾を撃ってくる海軍船だ。となれば、砲弾を悪魔の実の能力で弾き返すことができるルフィと、砲弾の勢いを削いで掌底で叩き返すことのできるクオンに遠距離戦など効くはずもなく。ならばと船を横付けし、白兵戦を仕掛けてくる海兵達の選択は、しかし明らかな悪手だった。海賊なのに白兵戦こそ得意な船長含めた戦闘員達は先程の鬱憤を晴らすように襲いかかってくる海軍達を容赦なく薙ぎ払い、船を沈め、追手を振り払う。

 苦戦、どころか圧倒的不利な状況に、ひとりの将校が叫んだ。相手はたった一隻だぞ!海兵のひとりが答える。しかし強すぎます!!砲弾も効きません!まさしく悲鳴のような報告を叩き伏せるように、「どけお前らァ~~~!!」と船長の怒号が轟いて、クオンもまた、海上から海軍船の船底に叩き込んだ拳でもって文字通り船をひっくり返して沈めた。






† 東の港 4 †





 東の港、タマリスク。ビビとの約束の場所に船をつけた麦わらの一味だったが、そこに求めていた姿はない。
 被り物の下で港を眺めていたクオンは目を伏せた。もう12時を回る。姿は見えず、町の拡声器から聞こえた声は確かにビビのもので。スピーチをしているということは、式典に参加していることだ。つまりは、ここにいるはずもない。

 それでいい、と唇をゆるめたクオンの瞳が微かに揺れる。それでいい、それでこそ王女、そうでなければならない。そう思うのに、違う道を往くと確信したのに、共に海に出る可能性を夢見て、万が一、もしかしたら、王女と執事という関係にはなれずとも、仲間としてこの船に乗って笑い合うことができたのかもしれないと─── そう、一瞬でも考えることはなかったと言えば嘘になる。
 瞼を開き、諦めきれず船べりから身を乗り出して岸を見つめるルフィとチョッパーの背を見る。メインマストに背を預けるクオンの視界の中でゾロとサンジがそれぞれルフィに声をかけた。


「聞こえたろ、今のスピーチ。間違いなくビビの声だ」

「アルバーナの式典の放送だぞ。もう来ねぇと決めたのさ」


 2人の言葉に、それでもルフィはビビの声に似てただけだとすかさず返して頷かない。そうだろクオン、と背後に佇むクオンに訊かないのは、訊いてしまえば肯定されることを分かっているからだ。クオンはビビの声を決して間違わない。
 けれど、ふと、思うのは。確か式典は10時開始のはずで、予定より2時間遅れとなったのはどうしてだろうか。何かトラブルがあったのか。長く不在だった王女の元気な姿をコブラやイガラムも早く国民の前に見せてやりたいはずだから、余程なことがない限り予定通り決行されるはずだが。
 まさか今更バロックワークスの残党が現れたのかと少し懸念を覚えるも、これから国を離れるクオンにできることは何もない。アルバーナにはチャカやペルを筆頭に頼れる戦士が数多くいるから大丈夫だとは思うが。


「……12時を回りましたね」


 手に持っていた懐中時計を見下ろして被り物越しに低く呟き、クオンは振り切るように蓋を閉じた。パチン、と固い音がして、凭れていたメインマストから背を離す。


「来てねぇわけねぇだろ!!降りて捜そう!!いるから!!」


 そう言ってビビを信じるルフィの希望を断ち切るように、「おいまずい!海軍がまた追って来た!」とウソップの報告が飛ぶ。いったい何隻いるんだよとゾロがぼやいてすぐさま「船出すぞ!面舵!!」と号令を飛ばし、懐中時計を懐に仕舞ったクオンは後方からの襲撃に備えて後部甲板へ向かった。
 羊の船首がゆっくりと向きを変える。国に背を向けるメリー号の後部甲板に、最後まで諦めきれないルフィとチョッパーがやって来て岸を見つめた。


「なぁクオン!ビビは、ビビは……来るよな!だっておれ達は、仲間だろ!?」


 ルフィに問われたクオンの目はアラバスタに向けられず、速度を上げて迫りくる海軍の船に据えられている。けれど白手袋に覆われた右手は武器である針を持つでも肩に乗るハリーを撫でるわけでもなく白いジャケットの袖に覆われた左手首に触れ、被り物の下にある秀麗な顔には、困ったような笑みが浮かんでいた。
 クオンは耳を澄ませた。昨夜別れを済ませた愛しいひとの姿はここにはない。だから、彼女の声を決して忘れないように、彼女の声をひとつとして聞き漏らさないように、拡声器から聞こえてくる涼やかな音を待って、そして。


 ─── クオン


 あの子の声が、耳朶を打った気がした。
 はっとして岸を振り返る。間違うはずがない。幻聴なんかではない。この私が、あの子の声を聞き漏らすはずがない。たとえ意識がなかろうとも魂にまで届くその声は、確かな熱と質量をもってクオンの鼓膜を揺らしたのだ。
 被り物の下、鈍色の瞳を動かして視線を走らせたクオンは、岸に佇むひとりの女とカルガモの影を認めて息を呑んだ。


「みんなァ!!!」


 あの子の─── ビビの声が、メリー号へ届いた。
 誰もが目を瞠り、その声の主を振り返る。クオンが手すりに手をついて身を乗り出すと同時、目を見開いたルフィが嬉しそうに彼女の名を呼んで手すりに飛び乗った。傍にいたウソップもビビの姿を認め、そしてビビの隣にいるカルーにも気づいて彼の名をやはり嬉しそうに呼んだ。


「───、……」


 姫様、と口走りそうになってクオンは唇を引き結ぶ。そうは呼ばないと決めた。あの子の友人になりたいと願ったそのときに、執事はもう主をなくしたのだから。しかし彼女の名もいまだ呼ぶことはできないまま、瞬くことも忘れてクオンは大きく腕を振るビビを見つめる。
 ほら来たァ!!とルフィが喜色満面に言い、ビビの声を聞いて後部甲板へやって来た全員が嬉しそうに顔をほころばせる。ゾロでさえ口元に笑みを描いて、船を戻そう!と言い出したウソップに誰も反対はしない。

 海軍はもうすぐそこまで来てる。だが約束通りここに来た仲間を置いてはいけない。ゆえに船首を返すために舵を切ろうとしたクルーを押し留めるように、ビビの声が再びかかった。


「お別れを!!言いに来たの!!」


 海の上を強く吹く風に、しかしその声は、紡がれた言葉は攫われることなく全員に届く。ルフィは言われたことが信じられない様子で目を見開いた。
 クオンはおもむろに被り物を外した。今から彼女が紡ぐ言葉は、この被り物で僅かにでも遮られるわけにはいかない。
 いつも浮かべる優しい笑みのない秀麗な面差しが真っ直ぐにビビを見つめる。クオンの顔を見たビビはそれでも嬉しそうに笑い、カルーに乗せた電伝虫の受話器を取るとルフィへ強く美しい瞳を向けた。


「私…一緒には行けません!!今まで本当にありがとう!!!」


 心からの想いを紡ぐその顔に、偽りなど一片もない。
 決めたのだ。彼女は自分の生きていく道を悩み抜いた末に決めて、そして彼らに別れを告げにここまで来た。


「冒険はまだしたいけど、私はやっぱりこの国を─── 愛してるから!!!!


 だから行けません、と王女は叫ぶ。
 まだまだ庇護されるべき幼い身で巨悪の組織に潜り込み、取り返しのつかない貴重な時間を払って愛する民のために駆けずり回った彼女がどれほどこの国を想っているか、クオンは知っている。その想いの強さを知っている。だからきっと彼女は海には出ないと、知っていた。

 ビビを見るまであんなに駄々をこねていたルフィは、ビビの言葉を聞き、少しの沈黙を挟むと「そうか!」と歯を見せて笑った。ルフィは迷う者の手を引くことはあっても、確固たる意志でもって自身が決めた道を曲げさせることはない。その意志が不動のものであると分かっているからだ。


「私は───」


 言葉を重ねようとしたビビの目から、ひと粒の涙がこぼれ落ちる。ぽろりとこぼれた涙は堰を切ったように次々とあふれ、別れのつらさに顔を歪めた彼女の頬に涙はいくつもの筋を描いた。それを拭ってあげることができない自分が歯痒くて、けれど彼女のこぼれる涙を拭えるようになるために、クオンは海に出ると決めたのだ。


「…私は、ここに残るけど……!!いつかまた会えたら!!!もう一度仲間と呼んでくれますか!!?」


 ビビの涙混じりの叫びが胸を衝く。吹く風に雪色の髪をそよがせたクオンの隣で、ルフィは静かに笑っていた。その顔が、瞳が、当然だと声なく語っている。
 クオンは微笑もうとして、耳朶を掠めた無粋な海兵の声に目を眇めた。海兵がビビの存在に気づいたのだろう、明らかに麦わらの一味へ向かって叫んだ王女に海兵達の間で困惑が広がり、まさか王女が海賊の仲間なのかとざわめいている。
 そんな海兵の様子には気づかず大声で答えようとしたルフィの口を「ばかっ」と慌ててナミがふさぎ、苦笑したクオンがルフィの肩に手を置いて回れ右をさせた。なされるがままのルフィが困惑しきりの顔でナミとクオンを交互に見る。


「返事しちゃダメ!海軍がビビに気づいてる。私達とビビとの関わりを証拠付けたらビビは“罪人”になるわ」


 なにせ今は大海賊時代。海賊と繋がりのある者は相手が王族であろうと政府は容赦をしない。それがたとえ“政府公認の海賊”から国を救ってくれた恩人であろうともそれが公式にされることはなく、今ここにいるのはただの海賊であり、面と向かってアラバスタ王国の王女に応えるのは得策と言えない。
 答えないのがビビのためと言われれば口を開けないルフィは、このまま黙って別れましょうと声を潜めたナミに従ってビビに背を向けた。他のみんなもそれに合わせて背を向け、そうするしかないと分かっているクオンもルフィの肩に手を置いたまま振り返らずに空を仰いで─── 晴れ渡った青空にたなびく、海賊旗を見た。

 黒い生地に描かれたドクロ。船長モンキー・D・ルフィのトレードマークの麦わら帽子を被ったジョリー・ロジャーは海賊の証であり、本来相手への“死”を意味するものであり、そしてドクロの後ろで交差した骨の簡易的な図柄が表す、麦わらの一味にとっての意味は。


クオン


 低い男の声がクオンを呼ぶ。海賊旗からゾロに視線を移したクオンは、言葉なく目で呼び寄せられてルフィの後ろからゾロの隣へと移動した。
 示し合わせたように無言で全員が横一列に並ぶ。身長の足りないチョッパーが手すりに立って、ハリーがクオンの肩からチョッパーの帽子の上に飛び乗った。
 クオンは誰に言われるまでもなく左のジャケットの袖をまくる。かつての主、いつかの友人。そして今の仲間に、「それ」がよく見えるように。

 天に向かって真っ直ぐ突き上げられた腕。王女の目に映る、8つの×。
 岸に残った仲間への声なき答えは、しかしあまりに雄弁だった。


『これから何が起こっても、左腕のこれが─── 仲間の印だ』


 耳の奥にルフィの声が甦る。クオンは結局この印を今まで仲間に示すことも求めることもなかったけれど、こうしてビビに掲げている今、この腕に印を半ば強制的に描かれたことはよかったのだと心から思う。きっと何とも思っていない傍らの剣士に内心で礼を言い、唇を甘くゆるめ、鈍色に強い輝きを宿して前を見つめる。
 見ずとも分かる。ビビもカルーも、同じように左腕を天へ向かって突き上げていることを誰も疑わなかった。

 傍から見ればビビの言葉を拒絶したように見えたかもしれない。振り返ることなく背を向けて声もかけずに去っていく者達が王女の仲間だと誰が思おうか。
 それでいい。自分達さえ分かっていれば、それでいいのだ。これはそのためのものなのだから。


(いってきます、───)


 心の中でさえ、クオンは彼女の名前を紡ぐことはなかった。
 仲間として呼ぶことはできる。けれどクオンが紡ぎたいのは、友としての彼女の名。ひとつだけ据えた椅子に置いた箱に大切に仕舞い込んで、記憶を取り戻したときに初めて彼女の前で開くことができる。彼女の名を呼んで、彼女のための席にエスコートすることができる。
 ─── それはまさしく、願掛けだった。


「出航~~~!!!」


 ルフィの号令が高らかに青空に響き渡る。その船出は海軍に追われ、砲弾が撃ち込まれる音を背景にしたあまりに忙しないものだけれど。

 仲間を残して、船は往く。

 記憶を取り戻す旅を始めようと、主をなくした執事を乗せて海を奔る。

 この旅路の果てに何があるのかはまだ何一つとして分からない。凄惨な過去が待ち受けているかもしれないし、隠されていた事実は心を壊すほどの衝撃をもたらすのかもしれない。
 けれど大丈夫。だって仲間がいるのだ。愛を捨てなくていいと許してくれたひともいる。だから進んでいける。

 今は鈍色に煌めく瞳を海軍に向けて、クオンは感動の別れのシーンに水を差す無粋な輩に鉄槌を下すべく、白いツバメの尾を翻した。





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 第1部 ...... TO BE CONTINUED



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