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 王女と執事、そしてゾロが和やか且つ賑やかにしている一角の外、厳かでなければならないはずの会食はあまりに騒々しく上品とは言い難い。テーブルの端で戯れる3人は何だか見てはならないものを繰り広げているがとにかく、海賊らしい食事の風景に周囲の兵は例外なく不快そうに眉を寄せた。どわっと沸く食卓にビビが大きく開けた口元に手を当てて笑い、王女であるはずの彼女もよく笑っていられるものだと呻いたが─── 彼らの表情は、次第に変化していった。

 宴会芸の引き出しが多いウソップ、ルフィ、そしてノリよく参戦するチョッパーが場を盛り上げ、テーブルをお立ち台として踊り、歌い、芸を披露する彼らに思わず目を見開いた兵達は身を乗り出し、次第に涙が出るほど大口を開けて笑い始めた。
 ひとりが囃し立てれば誰もが乗り、ひとりが手を叩いて音頭を取れば皆が手拍子を重ね、そうしていつしか、誰もが宴会場と化した大食堂にて満面の笑みを花咲かせて大いに沸き立った。






† 宮殿 9 †





 賑やかで楽しい宴も心地好い余韻を残して閉幕し、麦わらの一味は大浴場での風呂を勧められた。コブラ王とイガラムが先導し、着替えはこちらで用意すると言われて食堂から大浴場へと直接向かおうとする一行に、しかしクオンは続かなかった。


「大変魅力的なお誘いではありますが、私は今の状態ではよろしくないでしょう。夜風にでもあたって酔いを醒まして参ります」


 会食という名の宴を終えたときに被った被り物の下はいまだ赤みが差したまま、水分を多くとっていたから言動は落ち着いているが、まとう雰囲気はどこかほわほわとしている。えーっ!と声を上げたルフィとウソップとチョッパーの方に見えない微笑みを向け、少し眠気もありますのでと繋げれば、酔った挙句即寝落ちをキメた過去を思い出した3人は素直に引き下がった。風呂で寝落ちてしまえば大変だ。
 それでも全員が身綺麗にするのに自分だけがしないのはとコブラに伺いを立てる。


「宮殿の兵が使うシャワー室がありますでしょう。私はそちらをお借りしても?」

「ああ、好きに使ってくれ」


 即座に頷くコブラに礼を返し、案内を申し出たイガラムに「彼らに訊きますので大丈夫ですよ」と食堂内に佇む兵の壁を示して断る。心なしかざわめき己こそがと身を乗り出す兵達をクオンは見向きもせず、その傍らに侍るワルサギがじっとりとした目で兵達を睨んだ。
 クオンは隣で無言で見下ろしてくるゾロの背中を軽く叩き、クオンが同行しないことに何の文句もなく佇むビビに被り物の下で微笑むと「それでは、またあとでお会いしましょう」と残してあとで部屋に集合な!と言うルフィに手を振り彼らに背を向ける。

 そうして、適当に声をかけた兵の案内でシャワー室へと向かい、クオンはハリーと共に体の汚れを落とした。ウズマキは鳥なので水に濡れることを遠慮して扉の前で見張りを務め、途中、メイドが持ってきてくれたタオルをそっと中に入れて再び扉の前に立った。まったく気が利く鳥である。

 手早く風呂を終えていつもの燕尾服と被り物を身にまといシャワー室を出たクオンは、ハリーを定位置の右肩に乗せ、ウズマキを伴って宮殿の庭に出た。夜気は火照った体に気持ちよく、空を仰げば欠けた月が視界に映る。皓々と降り注ぐ鮮やかな月光が眩しくて被り物の下で目を細めた。


「ウズマキ、あなた達のことはコブラ王に任せました。私が愛する方が愛するこの国のために、どうか力を貸してください」


 静かに低くくぐもった声を落とすクオンを見上げたウズマキは嘴を数度開閉し、己が主人と戴いた白い人を見つめ、名の由来となった頭頂部のくるりと巻いた羽毛を大きく上下に揺らして「ゴア!」と力強く鳴いた。褒めるように白手袋に覆われた手がウズマキの頭を撫でる。それに心地よさそうに目を細めたウズマキだったが、ぐいぐいと嘴で白手袋を引っ張れば、小さな笑みを被り物にとかしたクオンは意を汲んで白手袋を取り、細く美しい指で優しく撫でた。










 コツコツと廊下にブーツが鳴らす音が響く。大部屋に麦わらの一味が戻っているとメイドに聞いたクオンは、ウズマキを残した庭から寄り道することなく大部屋に向かって歩いていた。

 シャワーを浴びる前に給仕長であり侍女頭としての役目も担うテラコッタへ頼みを言付けていたから、おそらく大浴場を出た途端にメイド達にひとり連れて行かれたビビはそこにはいないはずだ。
 ビビは明日、王族としての式典が控えている。突然行方不明となったために延期となっていた、本来14歳で行うべき立志式。それに向けて入念なマッサージやスキンケアなどを行うように、と。彼らは美しい王女を国民に披露するためにクオンの進言を無碍にすることはない。
 麦わらの一味との残された僅かな時間を気遣って悩んでいるだろう彼らの背中を、他でもない王女の執事だったクオンが押したのだ。それに、何よりもビビを想う自分が混ざれる道理がないことを寂しく思いながら、ビビを一時的にとはいえ大部屋から締め出したクオンは麦わらの一味のもとへと淀みなく足を進めた。

 コツ、と微かにブーツの底を鳴らして大部屋の扉の前で立ち止まる。無意識に緊張していた肩から意識して力を抜き、長く息を吐き出した。
 白手袋に覆われた手を上げてノックをすれば中から軽快な返事があり、クオンは躊躇うことなく扉を開けて顔を出した。クオン、と嬉しそうに名を呼ばれてそれぞれに視線を返す。ナミが「今ビビはいないのよ」と教えてくれて、そうさせた張本人であるクオンは「私がそのように頼みましたから」と返し、それに少しだけ部屋の空気が変わった。執事として、ビビを愛していると公言しているクオンとしてのらしくない行動に誰もが訝しげな顔をし、唯一ルフィだけが不思議そうに首を傾げている。

 クオンは迷うことなくルフィのもとに足を向けた。ベッドの上であぐらをかくルフィの前に立ち、ぱちんと瞬く静かな黒い目を見返す。


「お願いがあります、船長殿」

「いいぞ」

「……船長殿、まずはお話を聞いてください」


 むい、と思わずルフィの頬を引っ張る。めっちゃ伸びたが今更驚くこともない。むいむいと引っ張るまま頬がめちゃくちゃに伸びて面白いが、ルフィで遊びたいわけではないクオンは咳払いをひとつ。
 頬から指を離し、ぱちんと音を立てて元に戻った頬に笑みをこぼしたクオンは、改めていくら仲間と認めた者の頼みといえど、と苦言を呈そうとして、いや仲間だから何の問題もないのでしょうか…と考え直してしまった。
 いえ、そういえば最初からこの麦わらの一味の船長はこうだった、と今は懐かしき双子岬でのやりとりを思い出す。“敵”だったクオンがウイスキーピークまで乗せてほしいと頼みを口にする前に、ルフィはあっさりと頷いたのだ。

 クオンは被り物を外した。雪色の短い髪がさらりと揺れてあたたかな温度をもった鈍色の瞳がルフィに据えられる。日焼けを知らない白皙の美貌はやわらかな笑みで彩られ、形の良い唇が男にしては高めの声で言葉を紡ぐ。


「諸事情ありまして、お暇をいただくことになりました」

「おいとま?」


 形式張ったクオンの言葉の意味が分からず首を傾げるルフィに、クオンはくすりと笑みをこぼすとルフィと同じように首を傾けて事実を語る。


「王女の執事を辞めて国を出ることになりました」

「「「はァ!?」」」


 驚愕の声を上げたのはサンジとウソップとチョッパーの3人だ。ナミは声は上げなかったもののあんぐりと口を開けて目を見開き、元から察していたゾロは腕を組んで静かにクオンを見ている。ルフィも驚いたのか目を瞠り、何でだ?と素直に疑問を口にした。
 あれだけビビに一途だった執事が王女のもとから離れるという、世界がひっくり返ってもありえないと思っていた事態にウソップ達が心なしか身を乗り出す。クオンは真っ直ぐにルフィを見下ろしたまま、やわらかな微笑みすら浮かべて答えた。


「失くした記憶を取り戻そうと思います。彼女の“友”になるために」


 今まで欠落した記憶を気にする素振りは一切なく、思い出そうとする気配もなかったクオンの心変わりと、クオンの言う「彼女」が誰を指すのか、言葉にされずとも全員が悟った。きっともう二度と、クオンが執事としてビビを「姫様」と呼ぶことがないのだろうことも。
 記憶が欠けた今のままでも、執事としても、クオンならビビと友人になることはきっと許される。けれどそれを、クオン自身が許さない。クオンを「執事」として後ろに隠しながら、それでも対等でありたいと心を砕いてきたビビに誠実でありたいのだ。甘えきってばかりなのは、あまりに格好が悪すぎる。


「お願いがあります。麦わらの一味が船長、モンキー・D・ルフィ」


 表情を引き締め、クオンは真っ直ぐすぎるほどの眼差しでルフィを見つめた。静かな瞳が同じようにクオンを見返す。
 はじめと二度目は手段としての乗船だった。三度目は王女と同じく選択肢のない成り行きの乗船だった。そして四度目は。手段ではなく、成り行きでもなく、単純な想いで願いを口にする。少しばかりの緊張を胸に隠して。


「私が始めるこの旅を、私はあなた達と共にいきたい。叶うのであれば、あなたが海賊王へ至る道を見てみたいのです。どうか、私をあなたの船に乗せてはいただけませんか」


 海賊王を目指すルフィの航海には、クオンが失くした過去が多く散りばめられているだろう。それをひとつひとつ拾い上げて集め、かつての自分を取り戻す。
 海軍に身を寄せる気ははじめからない。だが彼らとの賑やかな航海を知ってしまった今、ひとりでの旅はきっと寂しい。一緒に行きたい。困難は多くあり、クオンを巡る思惑や不安要素は計り知れないけれど、それでも共に行けるなら、それを許される可能性があるのなら、クオンはゾロに宣言した通り、決して逃げたりはしないのだ。彼らを想うがゆえに背を向けることはしない。


「……なぁクオン、話は終わりか?」

「ええ、終わりましたよ」

「ならもういいか?」

「いいですよ」

「うん、いいぞ乗っても。一緒にいこう!」


 どうやら律儀にクオンの「お話を聞いてください」という言葉を守っていたらしいルフィは当然のように口にした結果を変えず、心から嬉しそうな輝く満面の笑みをクオンに見せる。あの双子岬で交わしたものと変わらないようで、けれど過ごした時間が少しばかり変えたやり取りに、クオンは甘く笑みを深めた。


「……私にはどうやら色々とありそうですし、そのことで多々ご迷惑をおかけすることもあるかと思いますが」

「別にいいよ。仲間だろ」


 ルフィはクオンの背景を積極的に知ろうともせずあっけらかんと返し、本当にクオンが何でも構わないと思っていることがはっきりと判る。ルフィならそう言うと分かっていたから、クオンは彼らから逃げるつもりなど微塵もなかった。その代わり、ルフィと同じく頷いてくれるだろう彼らを己の事情に巻き込んでもいいのかと迷っていたのだけれど。今更その懸念を深掘りして口にすることはない。少なくとも荒事は避けたいナミやウソップが嬉しそうな顔をしているから、彼らの喜びに水を差して後ろ向きな自己満足を満たすだけだ。
 クオンは思い浮かんだ余計なことを頭から追いやり、鈍色の瞳をゆるめて心からの笑みを浮かべた。


「ではまた、これからもよろしくお願いしますね、── ルフィ」

「おう!」


 そう、ルフィが元気よく返事をして。
 にこにこと笑うクオンが初めて敬称ではなく名前を呼んだことに他の面々が気づくまで、あと1秒。






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