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 ビビの私室を辞したクオンはハリーを右肩に乗せて静かな廊下を歩き、ほど近い場所にある自身に割り当てられた部屋へと一度戻った。
 扉を開いて中に入り、改めて室内を眺める。随分と簡素な部屋だった。あまり広くはなく、そして窓の近くに据えられたベッドと鏡以外に何もない。麦わらの一味と王女が過ごす大部屋には作業机も本棚も大きなソファもあったというのに、愛する執事を納める部屋には眠る場所しかないのだ。

 クオンは閉めた扉に凭れかかり、頭に被った被り物の顎に指を当てて微笑む。外から鍵がかかるようになっているこの部屋は明らかに客室ではなく、元は倉庫か何かだったのだろう。それを、クオンを運び入れる際に慌てて中のものをすべて出してベッドを置きクオンのための部屋とした。できるだけ自分の部屋の近くに置きたくて、同時に麦わらの一味に持って行かれるのが嫌で遠ざけたくて、けれど鍵をかけて閉じ込めることはできずにいるいじらしさをクオンは好ましく思う。彼女の可愛らしいわがままくらい受けとめてやれずにどうする。

 扉から背を離し、開かれた窓から外を眺める。砂漠の国特有の暑い陽射しが燦々と地上を照らしているが、それでも誰もが積極的に壊れた町を修復しようと民は笑顔で働いていた。


「ウズマキ」


 鳥の名を紡ぎ、間を置かずひらりと一羽の鳥が簡素な部屋へと窓から入ってくる。丸く渦巻いた頭頂部の羽毛ごと頭を撫でたクオンは「捜してほしい方がいるのです」と頼み、ウズマキは迷いなくひと鳴きして快諾した。





† 宮殿 6 †





 ウズマキに見つけてもらった捜し人は町の外、乾いた砂に一部を残した遺跡の近くにいた。
 白いマントのフードを深く被り、できるだけ人の目に触れないよう建物の屋上と裏路地を選んで町を抜けその場所へ辿り着いたクオンは、左右に伸ばした両腕に巨石を乗せて目を閉じ意識を集中している男を見ても小さく苦笑しただけで、刀が並べて立てかけられている傍らの瓦礫に腰かけるとフードを外して息をついた。
 見れば、ゾロの体中に巻かれていた包帯はいつの間にか外されている。船医殿が怒りそうですねぇと内心呟き、同意を求めるように鬼徹の鞘を指で撫でる。だが鬼徹からはけらけらとした音なき哄笑が返ってきて、持ち主が怪我を押して鍛錬をしているというのにどうにも機嫌が良さそうだ。


「フ──……」


 細く長く繰り返される呼吸を聞きながらクオンはぼんやりと目の前の男を見つめた。砂漠の熱と集中によりにじんだ汗が精悍な頬を流れる。今は閉ざされた瞼の下にある眼差しは驚くほどに鋭く、そして真摯であるとクオンは知っている。
 思えば、“東の海イーストブルー”で初めて顔を合わせ、勝手に船に乗り込んだクオンを一番に警戒をしていたのはゾロだったはずで、それが波乱に満ちた愉快な旅路を経ておそらく一番近い位置にいるというのは不思議なようで、同時に当然でもあるような気がする。クオンのあらゆることを許してきたこの男を、クオンもまた同じくらいには許してきたのだから。
 妙に感慨深くしみじみと思うが、今更詰めた距離を改めるつもりはない。この男の傍はよく眠れ、居心地も良く、そしてひどく安心できる。かつて世話になった傭兵団のみんなともビビとも少し違うそれに、成程仲間というのはこういうものかとクオンは穏やかな笑みを浮かべた。

 得た仲間を手放すのは惜しい。だが道が別たれたとしても仲間であることは変わらず、心の中心に居座り続けることをクオンは許そうとしている。なぜなら、きっとこれは、ふたつとない至宝だからだ。ビビへの想いを捨てないと決めたときから、仲間と定めた彼らへの想いも抱えていくと決めていた。

 傍らに腰掛けるクオンには気づいているだろうに、瞼を開くこともせず意識を研ぎ澄ませているのは、それほど信頼を置かれているからだろうか。どう思います、と剣士の得物である鬼徹をつつくがやはりゾロは気配ひとつ揺らさず、鬼徹は変わらず笑っている。クオンは揃えた膝に飛び降りたハリーの背中を撫で、時折喉元をくすぐりながらゾロの横顔を飽きることなく眺めた。






 傾いていた陽が少しだけ西の空へと近づいた頃。
 ふつりとゾロの張り詰めていた空気が切れたことに気づいたクオンは、ゆっくりと瞼を開けて横目にこちらを見るゾロと被り物越しに目を合わせた。だがすぐに視線は逸らされ、巨石を砂の上に落として深く息を吐いたゾロが立ち上がる。
 クオンは持参したタオルをゾロに向かって投げ、それを一瞥することなく受け取ったゾロは汗を拭うとクオンのもとへと歩いてきた。どかりと隣に腰を下ろしたゾロに水筒を渡せば彼は淀みない手つきでフタに中身を注ぎ、一気に呷る。唇の端からこぼれた水を手の甲で拭ったゾロがクオンを見下ろした。


「見てて面白いもんでもねぇだろ」

「いいえ?あなたを存分に観察できる良い機会でしたよ」


 被り物の下で本心から微笑むクオンの表情を察したのだろう、ゾロは肩をすくめてまた水を口に含んだ。水を嚥下するたびに動く喉仏を見ていたクオンが「剣士殿」とおもむろにゾロを呼ぶ。なんだ、と視線だけを返すゾロに、クオンは低くくぐもった声で囁いた。


「鉄を斬れるようになったようで、何よりです」

「……まだ足りねぇよ」


 眉間のしわを深くして唸るゾロは、鉄を斬れるようになったからといって慢心せず高みを見据えている。そのストイックな姿勢は素晴らしいと思いつつ、ふとクオンは首を傾けた。


「剣士殿は、なぜそんなにも強さを必要とするのですか」


 あの月夜の晩に、見張り台で。鉄を斬る糸口を掴もうとしていたゾロが鬼徹の“声”を聞けるよう導いたのはクオンだ。あのときはバロックワークスとの全面対決が近く悠長にしていられないからと思っていたのだが、怪我が完全に癒えないうちに過負荷にも思える鍛錬を己に課すところを見ると、どうにもそれだけではなさそうだ。それゆえこぼれた問いに、ゾロはクオンに視線を向けないまま答えた。


「おれは世界一の大剣豪になる」

「……」

「お前なら分かるだろ、クオン。おれはまだ足りねぇんだ」


 世界最強の剣士、ミホークの刃を直接受けたことのあるクオンは、既に癒えた傷があった首に左手で触れ、ゾロから目を逸らすことなく、また気を遣う様子も見せずに「ええ」と素直に頷いて同意した。

 麦わらの一味が船長、モンキー・D・ルフィが海賊王を目指しているように、ゾロもまた世界最強の剣士を目指している。
 途方もない夢だとクオンは思う。第三者が聞けばこの大海賊時代にそんな御大層な夢とは馬鹿馬鹿しいと笑われるほどだろう。けれどクオンは笑わず、そしていまだ世界最強に至るには実力が足りなさすぎているゾロへそれは無理だと否定することもなかった。そうするくらいなら、そもそもとしてあの嵐の日、始まりと終わりの町で目にしたルフィに胸が灼かれることもなかった。

 なぜ世界一の大剣豪を目指しているのか、その理由までをクオンは問わない。ゾロは抱く野望を己の芯に据え、一度は鷹の目に大敗し、そして生かされた。そんなゾロにかける言葉などひとつだけだ。


「船長が海賊王を目指しているのです、そのクルーならば剣士として世界一の座ひとつ、獲ってもらわねば困りますね」


 被り物の下、どこか不敵さをにじませて笑うクオンを弾かれたようにゾロが振り返り、見えない素顔を見透かすようにまじまじとクオンを見たかと思えば目を細めてくっと喉を鳴らした。


「ルフィと同じことを言いやがる」

「おやおや、流石は船長殿」


 そしてそれでこそルフィだ、とも思う。すぐにクオンから視線を外して水を飲むゾロの横顔をクオンは無言で眺めた。
 自分で認めるほどまだまだ遠い、最強の剣士の背中に己の白刃が届くまでゾロが自身の強さに納得することはないのだろう。
 剣士として腕を上げるほどに己に足りないものが分かってしまうということは、ともすれば心が折れる。届かない、ということも分かってしまうからだ。けれどこの男は決して心を折らず、足りないのであれば足りるようになるだけだと鍛錬を欠かさず、脇目も振らずに一歩一歩を確実に踏みしめていく。その強靭な心が、いいな、とクオンは思うのだ。

 野望を果たすための途中で相対することになったMr.1はさぞ強かったことだろう。彼は察するに全身刃物人間だった。そんな男を倒すには鉄を斬れるだけの実力がなければ傷ひとつ負わせることはできず、けれどゾロは激闘を制して合流した。その背中に一太刀も受けずに。それだけでゾロがまたひとつ強くなったことを悟るには十分すぎる。
 まだまだこれからだ、伸びしろはいくらでもある。何しろゾロはまだ若く、これからも鍛錬を欠かさず肉体を鍛え上げて実力をつければ、いずれ遠い背中に迫る日が来るとクオンは疑わない。その光景を、目にできたらいいなとは思うけれど。


「船長殿が目を覚ませば、私はこの国を出ます」


 コブラ王とそういう約束だからとは口にはせず、クオンはゾロから視線を外すと砂の地平線に顔を向けた。被り物の下で目を細め、閉じ、白手袋に覆われた手をそっと胸に当てる。


「捨てはしません。抱えていくと決めたのです。他でもないあなたが許してくれたから」

「……」

「記憶を取り戻す旅を、始めようと思います。彼女を“友”と呼ぶために」


 名前は出さなかったが、ゾロは察したようだった。そうか、と静かに落とされた声に微笑みを深くして頷く。
 瞼を開けて鈍色の瞳をあらわにしたクオンは顔を上げてゾロを見た。そこには男の横顔があると思ったが、予想に反してゾロもまたクオンを見下ろしていて、被り物越しに目が合った。どうしたのかと首を傾ければ、ゾロは口を開き、しかし何も言わずに閉じ、眉間のしわをさらに深くして怖い顔をする。固く引き結ばれた唇は何も紡ぎはしなかったけれど、クオンは何となく、ゾロの言わんとするところが分かった気がした。
 ふふ、と笑みをこぼして肩を揺らす。被り物を通して小さく削がれ空気を揺らすだけの笑声はそれでもゾロに届いたようで、訝しげな視線が落ちてくる。


「ご安心ください」


 上部には三角形が2つ、頬部分には左右対称に3本の線が、そして黒い2つの目とωな口元だけを描いた猫を模した被り物はクオンの声を低くくぐもらせ抑揚を削いで感情を読み取りにくくさせるが、甘くやわらかな声音は確かにゾロの耳へと届けられた。そして続く、確固たる意志に満ちた声も同様に。


「私は、逃げませんよ」


 ゾロは目を瞠った。愛嬌があるようで間の抜けた被り物のせいでクオンの表情は判らないのに、煌めく鈍色の瞳をたゆませて不敵に笑う美しい顔がそこにあると確信したのだ。

 クオンは被り物の下にある不敵な笑みをすぐにゆるめた。端的な言葉の意味はゾロには通じなかったかもしれない。何をもってして「逃げない」のか、クオンは口にはしない。だがその言葉にこめられた固い意志は通じたのだろう、それ以上詮索することもなく、ゾロはフタに注いだ水をもう一杯、ゆっくりと口にした。


(逃げませんよ。まだ、迷いはあるけれど)


 隣に座るゾロとの距離は人ひとり分にも満たない。触れずとも伝わってくる微かな男の体温を感じながら、クオンは背筋をぴんと真っ直ぐに伸ばしていた。
 迷いがあるということは、望みがあるということだ。許されたい望みがクオンにはある。許されないのかもしれないという恐れが迷いを生んで、けれど、クオンはそれから決して逃げたりはしない。遥か高みを見据えて邁進する男の背を見て、どうして逃げようなどと思えるだろうか。己に関しては尚のこと厳しさを課すこの男に恥じるような真似をするくらいなら、この場で腹を切った方がましなほど。いえ、その場合は愚かしい無様な醜態すら見せたくはないので誰もいない場所でひとり腹を切って海に沈んだ方がいいでしょうか……と物騒なことを考えるクオンに声がかかる。


クオン

「?」

「それ、取れ。顔見せろ」


 水筒を瓦礫の上に置いたゾロが指差したのはクオンの顔、つまりは被り物だ。突然の要求にきょとんと瞬いたクオンだが、周囲の気配を探って誰もいないことを確認すると何を言うこともなく被り物を外した。
 陽の光を浴びて一本一本が星をちりばめたように煌めく短い雪色の髪が揺れる。やわらかな鈍色の瞳、この世のものとは思えないほどに美しい秀麗な顔、形の良い唇は淡く色づいて、ひとつ瞬いた目を縁取る髪と同色の睫毛は長い。

 ゾロの手が無言で伸びてくる。武骨な男の、剣士の手だ。その手の動きを目で追っていたクオンは、自分より少し高い体温を有した固い手が頬に触れると無意識に顔をすり寄せた。ぴくりと太い男の指が跳ねる。しかしやはりゾロは何も言わず、頬に触れたままクオンの目許に親指を這わせた。白皙の美貌にかつて浮かんでいた青白い隈は既になく、涙袋を撫でるように目の近くに触れてもクオンは無防備に肩の力を抜いている。


「ちゃんと眠れたか」

「……ええ。あなたのお陰であれ以上悪夢を見ずにすみました」


 言って、口が滑ったなと思ったが、まぁ昨夜の様子を見れば察するにあまりある。それにゾロの前で口が滑るのはもう今更だった。
 どうやら心配してくれていたらしいゾロのあたたかな手に頬を押しつけ、甘く目を細めるクオンは獣が気持ちよさそうに喉を鳴らすさまによく似ている。猫のようではあるが、猫の気まぐれさはクオンにはない。己が好むものへ好意を示しながら素直に寄っていく様子は、成程、確かに「イヌ」だ。ゾロは昨夜と違いぬくもりのある頬に呼吸と変わらないため息をついてクオンから手を離した。


「戻るぞ」

「そうですね、そろそろ船長殿も目を覚ましているかもしれません」


 タオルを首にかけ、刀を腰に差して立ち上がるゾロに倣ってクオンも水筒を手に立ち上がる。素早くクオンの膝から定位置の右肩へと駆け上がったハリーをひと撫でして被り物を被った。
 長く話をしていたせいもあって、時刻は既に夕方だ。あまり遅くならないうちに宮殿に戻らなければビビが心配してしまう。


「では、私は先に……」

「きゅあ!はりーぃ、はりゃり」

「ハリー?」


 身を翻そうとしたクオンを慌てた様子でハリーが引き止めるように鳴き、クオンは怪訝そうに首を傾けた。いったいどうしたというのか。とりあえず先に行くのはダメだと言いたいのは何となく判るが、なぜだろう。
 ただでさえ町の中には海賊を捕らえようと海軍が詰めており、加えてクオンは雪狗として捜されている可能性が高い。ゆえに彼らの目に触れることはよろしくなく、ここに来たときのようにさっさと戻るのが最良だと思うのだが、どうやらハリーはそうは思わないらしい。
 一緒に戻れと言いたいことは判るが、理由は判らない。しかしハリーは意味のない進言はしない。となれば、相棒の意思に従った方がいいのだろう。クオンはゾロを振り返ると「あまりひとの目に触れないように戻りましょうか」と促した。

 共に町へ向かって歩き出した2人に、クオンの肩の上でハリーがほっと息をつく。クオンの考えは正しいが、このままゾロをひとり歩かせては宮殿に戻るのがいつになるか分からない。ゾロの無自覚な壊滅的方向音痴をクオンはまだ知らないから不思議そうにしていたが、たぶん宮殿に戻るまでに分かってくれるだろう。この男、ちょっと目を離したらあらぬ方向へ根拠のない確信を元に足を進めるのだからたちが悪い。


(まったく、世話の焼ける)


 ぽつぽつと穏やかな会話を交わしながら歩く相棒と剣士はここ暫くのハリネズミの献身など露知らず、だが別に知られなくても構わないハリーは何も言わずに相棒の肩の上で小さなため息をついた。






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