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 明け方の澄んだ気配に自然と意識が浮上し、ゆっくりと瞼を開いたクオンは窓を望む自分の視界にひとつ瞬いた。いつの間にか寝返りを打っていたようで、背中から伝わる男の体温にそっと息をつく。軽く身じろげば頭の下に腕があることに気づいて、ベッドの枕は取られたが代わりにゾロの腕を枕にしていたようだ。
 ベッドを横断して伸びる腕を見やれば、同じく伸ばされた自分の細い腕が視界に入る。眠る前に絡めていた指は寝ている間に外れ今はベッドの上に投げ出された白い手を見知った手が包んでいて、ぼんやりとしたまま上を向いた手の平を反転させて下敷きにしていたそれに合わせ、にぎにぎと絡めた指に力をこめて感触を確かめればやはり大きくて固い、男の手だった。

 ひとしきり感触と熱を堪能したあと指を絡めたまま軽く振り返り眠気を帯びた鈍色の瞳を上に向ける。静かな呼吸を繰り返すゾロは瞼を下ろしたまま開く気配はなく、間近にある精悍な顔をじぃと見つめるが、気配に敏いはずの剣士は身じろぎひとつしない。
 いつの間にか腰にはゾロの腕が乗せられるようにして回っている。ベッド端に寄ったクオンが落ちないように配慮してくれたのかもしれない。粗忽なように見えて気の利く男なのだ。

 ひと晩ほぼ同じ体勢でいたせいだろう、体は固まって少し軋む。伸びをするように肩に力をこめ、ぐっと伸ばした足がゾロの足に触れたが、やはり閉ざされた瞼は開くことはない。
 体勢を戻してふぁ、と大きなあくびをひとつ。常ならば朝焼けを見るために起き出すが、アラバスタの朝焼けは一度見ているし、昨日胸の内でクオンを急かしていた衝動はすっかり鳴りを潜めていて、何よりも全身あたたかなぬるま湯につかったようなぬくもりは手放し難い。
 眦ににじんだ生理的な涙を拭い、腰に回った手に自分のそれを重ね、指を絡めた方を引き寄せて頬に寄せる。もそもそとおさまりのいい場所を求め、クオンは微かにあいた距離を詰めて大事な剣士の腕を枕にしたままぴったりとゾロの胸に己の背をつけた。
 男の肌とシャツを越え、クオンの薄い背中を伝って届く鼓動はドッ、ドッ、ドッ、と少し早いが力強い。絡めた指にきゅっと軽く力を入れて、唇には無意識の甘くやわい微笑みが浮かんだ。

 やっぱりこの男の傍は、よく眠れる。
 つい昨日思ったことを再度認識を強め、クオンは躊躇いなく二度寝を決め込んだ。






† 宮殿 5 †





 クオンが次に目を覚ましたとき、隣には誰もいなかった。両手もからっぽになってベッドに力なく落ち、男がいた場所を撫でれば微かなぬくもりが残っている。どうやらゾロがベッドを抜け出し部屋を出て行ってから然程時間は経っていないようだ。
 もそりと寝返りを打ってぼんやりと天井を見つめる。天井の模様がはっきり判るほど部屋は明るく、陽はとうに昇っていることを知って瞬けば、視界にひょっこりとハリネズミが顔を出した。


「はりーぃ、きゅあ」

「……おはよう、ハリー」


 微笑み、ハリーに手を伸ばして撫でる。つぶらな黒い瞳はクオンの起床を促してはいないが、眠くもないのにいつまでもベッドに横たわるつもりもないクオンは早々に上体を起こして思い切り伸びをした。ぱきぱきと固まった体がほぐれていく。同時に少しばかり傷が痛んだが、すぐに気にならなくなる。
 ベッドの横にやってきたワルサギにも「おはようございます、ウズマキ」と挨拶をしてひと撫でし、名残惜しむ様子もなくベッドから降りたクオンは手早く身支度を整えた。

 いつもの白い燕尾服に身を包み、白手袋をはめて被り物で顔を隠す。
 ハリーとウズマキと戯れているうちに朝食を持ってきてくれたメイドに礼を言って1人と1匹と1羽は食事を済ませ、ハリーを肩に乗せたクオンは宮殿の外から海軍の動きを見るべく部屋から飛び立っていったウズマキを見送った。務めを終えてもクオンへの忠誠を崩さない彼は、ひとたび声をかければすぐさま文字通り飛んでくるだろう。


「おはようございます、皆様」


 大部屋へ顔を出せば全員が揃っていて和やかに朝の挨拶を交わした。いまだ眠り続けるルフィの容態は、昨日と比べてだいぶ熱が下がったらしい。もしかしたら今日中には目を覚ますかもしれない、と嬉しそうに言ったのはチョッパーだった。
 何気ない仕草でゾロの様子を窺えば、やはり特に変わった様子もなく静かにベッドに腰かけていた。昨晩まともな思考回路をしていなかったせいとはいえ無理やりベッドに引きずり込んで朝を迎えさせたことを謝って礼を言おうかと考えていたのだが、ここでそれを口にすれば確実に仲間の耳にも入る。またあとで隙を見て声をかけよう。


「それじゃ、またお昼に」


 ナミの言葉を合図として昨日同様各自自由行動となり、ゾロを窺えば何やら話しながらウソップと共に部屋を出て行ってしまった。少し考え、どうせゾロのことだからそのうち包帯が取れていないのも構わず鍛錬をするだろうと見込んで昼まで待つことに決めた。

 クオンは午前を図書室で過ごし、昼食時になると大部屋に行って仲間達と昼食をとった。いまだルフィは目覚めず、しかしウソップが昼食に出た肉を顔に近づければぴくりと反応したからチョッパーの言う通り目覚めは近いのかもしれない。

 午後からサンジとウソップは町へ買い出しに出るとのこと。ナミはコブラから個人所有の書物を必要なら譲ると言われていたようで、そちらに顔を出すらしい。ゾロは何も言わなかったが鬱陶しそうに包帯をいじっていたから鍛錬に行くのだろう。ルフィの傍を離れるつもりはないらしいチョッパーは看病の合間に薬の調合をすると言って道具を用意しはじめた。午後から老年だが腕は間違いない宮廷医師がルフィの様子を見に来ると聞いていたから、話が合えばいいのだが。
 麦わらの一味各々の様子を眺め、自分もまた目的を済ませるために大部屋を出たクオンは、


「姫様。貴重なお時間を割いていただけたこと、感謝致します」

「……」


 宮殿内にある王女の私室にて、クオンは王女との2人きりの時間を頼み、叶えてくれたビビと向かい合いながら慇懃な礼をした。
 対するビビは不機嫌な様子でむうと頬を膨らませている。クオンが礼を解くとぷいと顔を逸らした。


「姫さ」

「聞きたくない!」


 クオンの言葉を顔を背けたまま叫ぶようにしてビビが遮る。クオンの顔を見ないように壁を凝視している瞳は潤み、2人きりの対面を叶えてくれたのに話をする気がない王女が駄々をこねる様子に執事の頬が苦笑にゆるむ。
 そうだ、これは彼女のわがまま。クオンがこの国を去らなければならないと分かっているけれどそれを認めたくない少女の精一杯の抵抗。なんと可愛らしいことか。
 クオンの言葉なんて聞いてやるもんか!と肩を怒らせているが、それもクオンが被り物を取って素顔を晒せば瞬時に顔を執事に戻して瞬きひとつしない視線が美しい顔に釘付けになるのだから浮かぶ笑みが消えることはない。
 外した被り物を両手に抱えたまま、クオンはやわらかな笑みをビビに向けた。


「お暇を、いただきに参りました」


 ぐしゃり、ビビの顔が泣き出しそうに歪む。食いしばった歯の隙間から小さな呻きが漏れて、やだ、と少女の本音がこぼれた。スカートを握り締める手が震えている。しかしその手は、王女の傍を離れると決めた執事を引き止めるために伸ばされることはない。

 クオンは瞼を下ろして鈍色の瞳を隠した。脳裏にはビビと出会ってから今までの記憶が走馬灯のように浮かんでは消えていく。
 クオンがビビと築いた関係はたったの1年。だがそれに見合わないほどに深く愛され、クオンもまた同じようにビビを愛した。嬉しかった。楽しかった。目まぐるしく過ぎていく日々につらく悲しいことなど何一つなかった。カオナシの一族を滅ぼされ、ただ生きるまま生きてきた女のひびが入った心は注がれる愛に癒やされたのだ。
 本音を言うのならば離れたくはない。当然だ、なぜ愛しているひとと離れなければならないのか。けれどクオンは王に願われたまま、王女の災厄とならないように国を出るしかない。王が首を横に振ったのだから、自分をこの国に留め置く方法が分からないクオンは王女に別れを告げなければならなかった。

 けれど、決して捨てはしない。クオンは胸に抱いた想いをどんなことがあっても手放さないと決めた。ビビはもちろん、カオナシの一族にももらったたくさんの愛を捨てなくともいいと、持っていろと許してくれた男がいたから。
 吐息のような笑みをこぼし、クオンは瞼を開いた。俯いて肩を震わせるビビに眦をゆるめる。話をしたいとビビに言ったのは、ただいとまをもらうためだけではない。


「姫様、私はあなたの執事であったことを厭うたことは一度もないのです。あなたに仕えられて誇りに思っています。あなたは私を心から愛してくれた。そして私もまた、秘匿を許し、勝手を許し、気安さを許し、対等を許し、そして従順を嫌ったあなたを心から愛しています」


 ぴくりとビビの肩が揺れる。緩慢に上げられた顔には悲しみと寂しさが浮かび、けれど潤んだ瞳は縋るような色は一切ない。
 ビビは真っ白い人間に「クオン」という名を与えたけれど、執事になると決めたクオンのために体型と性別を偽ることのできる燕尾服を与え、被り物で顔を隠すことを許した。そうして、最初からクオンのことを─── 記憶を失くす前の“雪狗のクオン”を知っていた彼女は、それが世間に明らかにならないよう、必死に隠し続けてきたのだ。
 その行為は記憶を失くしたクオンを自分だけのものにしたがったがゆえのものではないと、与えられた愛が教えてくれる。もちろん傍にいてほしいと思ったのも本音だろうが、何よりもクオンを世間から「隠すこと」は、彼女なりの愛だった。
 海軍に引き渡さないという固い意志がどのように生まれたのかは分からない。だがビビはクオンのことを昔から知っていて、その上で知らないふりをしていることくらいは薄々気づいていた。気づいていて言及したことがないのだからとやかく言うつもりはない。
 そんなふうに愛してくれたビビとの関係にただただ甘えていた。ずっと共にあるのだと疑わなかった。膝を折るクオンに複雑な思いを瞳の奥に隠すビビに気づかないふりをしていれば、執事というには近すぎる距離で傍にいれるのだと無邪気に信じていた。

 ─── けれどそれは、麦わらの一味との邂逅で揺らぐことになる。


「あなたの一番近くにいるのは私です。あなたを護り導き、時に盛大に甘やかすのは私です。つらく悲しいときにあなたを抱きしめて慰めるのは私です。あなたのわがままを聞いて叶えるのは私です。あなたが抱えているものをすべて吐き出させ、あなたが真っ先に助けを求めてくれるのは、私だと思っていたのです」


 クオンは苦く唇を歪めた。ビビの目が見開かれる。
 反乱軍を止めたい、誰も死なせたくないと口にし続けてきたビビの本音が「クロコダイルを倒したい」だとは分かっていた。だがビビはそれを表に出すことはなかったからクオンは執事として口を噤んだのだ。
 しかし、ユバの町を出たとき、ルフィがビビの心を暴いた。王女の虚勢を殴り飛ばしてやわらかな心に土足で踏み込んで荒らし回り、奥深くの底に押し込めていたものを引きずり出した。
 クオンはそれを眺めることしかできなかった。手を差し伸べることもできなかった。泣く彼女に駆け寄ることもできなかった。そして、自分の命を捨てる覚悟を決めていた王女に、巻き込みたくないと思われていた事実がクオンに計り知れないほどの衝撃を与えたのだ。


 ─── なんですか、それ。


 クオンの胸に去来したのはそんな言葉だ。同時に腹立たしいほどの口惜しさが湧き上がった。
 クオンは執事だ。ビビの、アラバスタ王国王女の執事。王女が死ぬのであれば共に逝かねばならないだろう、王女が息絶える前に果てるのは執事でなければならない。そんなこととっくに覚悟していたというのに、王女にそのつもりはなかったのだと言う。
 あの近すぎる距離感は何だったのか。すべてを許してくれていたのではないのか。従順を嫌って対等をよしとした彼女の一番近くですべてを共有していた気になっていた。本当は一番大切なところを許されていなかったのだと知った。それが腹立たしくて、口惜しかった。


「私はもう、あなたの執事ではいられません」


 王女と執事としての線がそこに引かれているのなら、その先に踏み込めないのであれば、クオンは執事などやっていられない。ビビの願いを叶えてはあげられないと、ルフィの前で涙を流すビビを見て湧いた思いは時間を重ねるごとに強く大きくなっていった。
 傍にいたい。優しくして甘やかしたい。優しくされたいし甘やかされたい。あなたの本音を引きずり出したい。私の本音も聞いてほしい。嫌がるあなたの心に土足で踏み込むことを許してほしい。蹲るあなたに手を差し伸べて無理やりにでも立ち上がらせたい。助けてと言ってほしい。あなたのすべてを許すから、私のすべてを許してほしい。私はあなたを、私の唯一にしたい。
 2人の間に打算はなく、偽善もなく、ただただ心のままに動くことを許される関係でありたい。そうした関係性につけられる名前をいくつか知っているけれど、その中のひとつをクオンはビビに差し出して受け取ってほしかった。


「私はあなたの……、─── “友人”に、なりたいのです」


 この世でたったひとり、友に望むのはあなただけでいい。深く重すぎる愛をクオンに与え、同じだけ返されるクオンの愛に応えられるあなただから。

 一抹の不安を鈍色の瞳に浮かべてビビを見つめれば、見開かれていたビビの目が大きく揺れ、はくはくと唇が数度空気を噛んで引き結ばれた。だがそれもすぐに歪み、唸るような響きがこぼれて、そしてビビは耐え切れないように大きく叫んだ。


「私、私だって…!ずっとあなたと友達になりたかった!!」


 きっとそれは、記憶を失くしたクオンと再会する前から抱いていた、ビビの本音だ。
 クオンは安堵の笑みを浮かべた。う゛~と涙混じりに唸るビビを見下ろし、無意識にその頭を撫でようとして思い留まる。姫様、と呼びかければ涙の膜を張った瞳がクオンを見上げた。


「私はこの国を出て記憶を取り戻そうと思います。今の私では、あなたの傍にいれる方法が分からない」


 自身の背景がこの国に災厄をもたらすのだとしたら、それは自分の手で払わなければならない。いつかまた、ユダのような人間が現れないとも限らない。それでなくともユダクオンの心を砕きたがっていて、再びこの国に手を出す可能性もゼロではないのだ。それを防ぐためにも一度この国を離れて失くした記憶を取り戻す必要があった。ユダが執拗にクオンを狙う理由も、もしかしたら判るかもしれない。そうしたら対策を立てることができるだろう。


「すべてを思い出したら、またこの国に来ます。必ずあなたに会いに来ます。どうかそのときまで、待っていてくれませんか」


 クオンは膝をつかなかった。ビビに触れることを躊躇った手を固く握り締め、ぴんと背筋を伸ばして佇み、真っ直ぐに煌めく鈍色の瞳をビビに据えて答えを待つ。
 ビビもまたクオンに応えるように目を逸らさなかった。

 鈍い色をしたその瞳の元の色を、ビビは知っている。冷たい鋼の色を知っている。けれどまだ、あたたかな鋼の瞳は知らなかった。あまりに多彩な感情を宿した鈍色の瞳はいくらでも知っている。しかしあたたかな鈍色も冷たい鋼色も、どちらもクオンなのだとビビは知っていた。どちらも、いつだってこんなふうに真摯に美しく煌めいていた。


「いくらでも待つわ。どれだけ時間がかかってもずっと待ってる。おばあちゃんになっても、ずっとずっと、あなたと友達になれるのなら、いくらでも」


 そう、ビビは泣きそうな顔で笑って断言して、クオンの秀麗な顔が嬉しそうにほころんだ。
 何度見ても飽きることのないクオンの顔に見惚れながら、今の思いを偽りなく話すと決めたビビは「でもね」と付け加える。


「私ね、今迷ってるの。王女としてこの国に残るか、海賊としてみんなと一緒に行くか」


 クオンは軽く目を瞠った。ビビが口にした選択肢はまったく予想だにしていないもので、ビビがこの国に残ると疑いもしなかったのだ。だが確かに、海賊として海に出る選択肢はないわけではない。国の平定と安寧を父王と忠臣に託し、あまりに広い世界を、海を見て回る。それは王女の見聞を遥かに広めるだろう。悪い話ではない。何よりもビビの心を尊重したい。
 けれどクオンは、窓の外に広がる町並みを見つめるビビのやわらかな微笑みを見て確信を抱く。迷っていると言う王女は、あまりにも真っ直ぐな瞳で逞しく立ち上がった民を見つめている。


クオン、あなたも迷っていいのよ。たくさん迷って、悩んで、そして、悔いのない方を選んでほしい」


 慈愛に満ちたビビの瞳がクオンに向く。年下であるはずなのに年齢不相応の貫禄をにじませた姿は、いくつもの苦難を乗り越えた王女の証だ。


「そういうときばかりは、あなたが『浮気』をしたって、私は許すわ」


 いたずらげに美しく微笑むビビに眩しそうに目を細め、気高く優しい王女への敬意を示すために、クオンは深く深く、こうべを垂れた。






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