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 暗い暗い、己の手すら分からないほどに漆黒の闇に覆われた地下室だ。射し込む光の一切はなく、自身の呼吸音と心臓の鼓動以外の何も聞こえない無音の空間にクオンはひとり蹲っていた。
 脱出しようとあらゆる手段を使って試した。だが、地下室の扉は海楼石でできている上にとても重く、力が抜けた状態では到底開くことなどできずに爪を立てるだけで、また地面をくりぬいて作られた地下空間を破壊して外に飛び出すだけの力もなかった。
 声の限りに叫んでも、喉が嗄れ果て血を吐いても、手の皮が破れ血が滴るのも構わず扉を引っ掻き殴りつけても、閉ざされた扉は開かない。この向こうに誰かが来る気配もない。


(なんで)


 ひたひたと心の深くを侵す闇に震えながら、クオンはただただ己の無力さに喘ぎながら自問していた。なんで、私を生かそうとする。なんで、私をここに閉じ込める。
 唐突に海の向こうから現れた侵入者に気づき、武器を運ぶ手伝いをしてくれと頼んで戦う彼らから背を向けさせて地下室に連れて行き、そうしてマクロと名乗った男はマシロと呼ぶ女をひとりここに閉じ込めた。
 死ぬのなら、滅びるのなら、共に逝くことはできないけれど、その終わりを看取らせてほしいといつだったか口にした願いは無情にも切り捨てられたのだ。お前だけは生きろと、そう笑って。


ころさないでおいていかないで


 ひとりは寂しい。ひとりは悲しい。ひとりは苦しい。
 記憶ごと何もかもを失くした私にこの感情を植え付けたのはお前達なのに、どうして。

 なぜ彼らが戦わねばならないのだろう。どうして彼らが死ななければならなかったのだろう。マクロの首は、どこにいったのだろう。


 ─── 奴らは、お前を壊すために殺したにすぎない。

 ─── まぁつまりは、お前のせいで死んだわけだ。お前なんぞを拾って、愛したから、おれに皆殺しにされた。


 あのとき振り払った、そう思っていたはずの呪いの言葉が、凍える手の平と化して心臓を握り潰した。





† 宮殿 4 †





 はっ、はっ、と短く荒い呼吸が闇にとける。飛び起きたクオンは鈍色の瞳を限界まで見開き、感覚のない震える手を見下ろした。流れた冷や汗が頬を伝い顎から落ちる。呼吸を落ち着けようと噛み締めた歯がかちかちと小さく鳴った。

 暗い。ここはどこだ。ここはアラバスタ王国、首都アルバーナ、宮殿の一室。決して漆黒の闇が満ちた地下室ではない。
 けれど、ならばどうしてこの目は何も映さないのだろう。揺れる瞳をさまよわせても、焦点の合わない網膜は何の像も結ばない。
 ひどい耳鳴りがする。そうだ、静寂に満ちたあの地下室でも耳鳴りがひどかった。耳の横で心臓が跳ねているのかと思うほどに鼓動は大きく激しいのに、脳が音として認識しない。

 暗い。何の音もしない。闇だ。無音。何も見えない。何も聞こえない。体が震える。ひたひたと忍び寄る闇色の静寂がクオンの全身を搦め取り、喉をふさぎ、心臓を締めつけ、耳の奥で男の呪いがぐるぐると回っていた。怖い。恐い。こわい。


(まずい)


 一片だけ残された理性が、夢によって引きずり出された過去の記憶と直近の呪いに呑まれている自分に気づく。
 どうにかしなければ、そうだ、姫様を、彼らを─── そう思った途端、脳裏に浮かぶ映像があった。

 閉ざされていた扉が外から僅かに開かれ、開けてくれたハリネズミに礼を言う余裕もなく何とか地下室から這い出た地上にあった、無残にも血の海に沈む数多の骸。
 クオンを心から愛してくれた彼らのひとり残らず息絶えた姿がぶれ、共に戦った仲間へとすりかわる。

 ひっ、息を呑んだ。瞳孔が開いて血の気が音を立てて引いていく。見開かれた虚ろな瞳が、刃物の傷を受けて息絶えた仲間の姿を幻視した。

 きれいに磨かれたブレスレット、使い古されたパチンコ、転がるピンクの帽子、火が消えた煙草、叩き折られた刀、真っ赤に染まる麦わら帽子───。

 違う、これは幻だ。過去の記憶をコピーして貼りつけられた妄想。事実を捻じ曲げられて投影された虚構。この手に血に濡れた妖刀が握られているのもクオンの怯えが見せる虚妄。
 本当事実ではない。本当真実ではない。本当未来であるはずがない!


 ─── 本当に?


 頭の中で、が冷徹さをはらんだ声で言う。自分の正体すら知らないお前が、すべてを失くしたお前が、仲間を手にかけないとなぜ言えるのか。なじるような声がした。私の声だ、と遠い思考で思う。自問している。本当に私は、この幻が決して現実にはならないのだと言えるのだろうか。己自身すら、確たるものなど何一つ持っていないというのに。


「……ッ」


 クオンは両手で耳を強くふさぎ、瞼を固く閉じてこぼれそうになる喘鳴を歯を食いしばることで耐えた。
 ベッドの上で起こした上体を折りたたみ、立てた膝に額を押しつける。

 誰もいない。どうしてここには誰もいないのだろう。どうして私はひとりなのだろう。こわい、ひとりはこわくて、そしてさびしい。

 それはクオンの本質だった。どうしようもなくやわい場所だった。記憶が欠けていることに不安を感じるようなことはないけれど、誰かが傍にいてくれなければ立ち方すらもおぼつかない。ひとりで歩けるふりをして、平然とした顔を取り繕うのは難しくないけれど、それは心が凍っているだけなのだ。

 過去の記憶と幻影に苛まれた感情が悲鳴を上げている。制することのできない思考が深みにはまろうとしている。仲間を斬り殺す自分の未来を、見てしまう。
 嫌だ。そんなもの見たくない。そんなことしたくない。目を開ければそこに何もないと分かるのに、目を開ければ事切れた仲間を幻視する恐怖が瞼を固く閉ざさせていた。

 だから闇は嫌いだった。見たいものが何も見えない。だから無音は嫌いだった。聞きたいものが何も聞こえない。だから無音の闇は、あまりに恐ろしかった。


(まえ、まえ、は、どうして、ました、か……)


 以前蝋の檻に閉じ込められたときも、クオンは無音の闇に呼び起こされたトラウマに苛まれた。けれどそのときはビビやルフィ、ゾロのことを思い出せば思考が逸れてましになったのだ。だから今回もそうすればいい。対処法としてはそれが正しい。胸を灼いた光のことを思い出せれば───


『何度も言わせるなよ、クオン


 耳の奥に、男の低い声が響く。心臓の鼓動が一瞬止まったような気がした。
 そう、そうだ。あのときも確か、この声を思い出した。
 笑う男の顔を思い出す。凶暴な、獣のようなそれ。こちらを見据える眼光は鋭く、その揺るぎのない白刃のような眼が、この心臓を貫かんとして。そしてあのとき、燃え盛る炎を背に、己を閉じ込める檻を斬ってくれたのは。


『おれをよく見とけ』

「……ん、うん」


 クオンは幼い仕草で小さく頷いた。何度もクオンを背負った男のぬくもりも思い出せて、ほぅと息をつくと体の震えがおさまっていく。
 恐る恐る両手を耳から外す。耳鳴りがしていた鼓膜は微かな衣擦れの音を拾い、周囲が無音ではないことに細く長い息を吐いた。
 それでも、瞼が開かない。接着剤で固まったように動かない瞼に緩慢な動作で手を伸ばして触れると、ぴくぴくと軽い痙攣を起こしていた。
 クオンは唇をへの字に歪めた。さて、どうしようか。ようやく理性の欠片が戻ってきた今、無理やりに目を開ける必要もないからこのままもう一度眠るのも悪くはないが。
 おそらくまだ夜半過ぎ。固く瞼を閉じたまま夜明けはまだまだ遠いと空気の匂いで察したクオンは、


「あ?どこだここ」


 唐突に部屋の扉が開かれた驚きに瞼を跳ね開けた。


「……けんし、どの?」


 完全に予想外の深夜の来訪者に、呆然と男を呼ぶクオンの暗く澱んでいた思考が霧散する。
 頭を掻いてきょろきょろと部屋を見渡していたゾロは聞き慣れた呼び名に瞬くと視線を滑らせ、ベッドで上体を起こしているクオンに気づいて目を瞠った。


クオン?何でお前こんなところにいるんだ?」


 何でも何もここが私の部屋だからですけど。あなたこそ何でこの時間にここに?心底不思議そうなゾロに冷静なツッコミと疑問が浮かぶが、まだうまく口が動かなかったために言葉になって飛び出ることはなく。
 トイレに起きて用を済ませたはいいが己の信じる道を行った結果クオンの部屋に迷い込んできたゾロは、無言で自分を凝視するクオンに首を傾げ、暗闇に浮かび上がる青白い顔を認めると眉間にしわを寄せて部屋に入ってきた。


「お前顔色悪いぞ。真っ青じゃねぇか」


 ゾロの背後で扉が閉まる。クオンはずかずかと足を進めてベッド横に立ち顔を覗き込んでくるゾロを見上げた。そうして、右手を上げて間髪いれずに能力を発動する。


「うおっ!?」


 クオンの能力によって強制的に引き寄せられたゾロの体がベッドに倒れ込もうとして、反射で前に突き出された腕を掴んだクオンは身を引くようにベッドの上を滑りながらゾロを引きずり込んだ。
 みしみしと反動を受けて体内が悲鳴を上げるのを無視し、ついでになんだなんだと目を白黒させて身を固くするゾロの心情も無視して能力を使いゾロのブーツをベッドの外に弾き飛ばす。はっ!?と叫ばれたがやっぱり無視をした。


「おまっ、なに…!」


 慌てて身を起こそうとするゾロの体に腕を回す。さすがに腕を潰されては困るので片腕だけを背中に回し、もう片方の手でゾロのシャツをしっかと掴む。布団を能力で引き寄せて被せ、クオンの方を向いて横になったゾロとすぐさま距離を詰めてぴったりと密着すれば、触れ合った箇所から男の高い体温がじんわりとしみ入ってきた。
 胸元に耳を当てるとドッドッドッ、と力強い鼓動が耳朶を打つ。鼓動が早いのは突然の事態に驚いたからだろう。それに申し訳ないと思うよりも幻視した死ではなく確かなうつつの生に安堵が勝り、深く長い息を吐いた。

 いつもと明らかに様子の違うクオンに戸惑いろくに抵抗ができないまま抱き込まれたゾロが僅かに身じろぐ。離れることを許さず能力を強めてさらに引き寄せれば、小さく呻いたゾロが「は──…」と大きくため息をついて強張っていた体から力を抜いた。


クオン、そっち詰めろ。狭ぇんだよ」

「……」

「ったく、仕方ねぇな」


 深夜の時間を考慮してなのか潜められたゾロの声は存外にやわらかく、シャツを握る手は無理やり外されたがそのまま握り込まれ、すっぽりと覆われた自分の手に、やはり男のひとなんですねとぼんやりと思った。
 もそもそと掴まれた手を動かして白く長い指を男の指の間に通す。絡めた指を軽く握ればぴくりと男の手が跳ねて、重なったそれから伝わるあたたかさに目を細めたクオンは、ようやく後ろに下がってベッドの端ぎりぎりの位置に横たわっていたゾロのためのスペースをあけた。
 元々一人用のシングルベッドに男女とはいえ成人2人は狭い。端から落ちないように身を寄せ合い、片手は互いに指を絡め、もう片方の腕を男の背中に回したクオンはふわふわとしたあたたかさに張り詰めていた空気がゆるんでいくのを自覚した。
 澱んでいた意識がやさしくまどろんでいく。幻視したものが虚構だと教えてくれる男の生きた鼓動が嬉しくて頬を押しつけていれば、武骨な指が伸びてきて反対側の頬に軽く触れた。途端、低い声が降ってくる。


「……冷てぇ」


 そうだろうか。私はあたたかいのだけど。とろりととけていく思惟でそんなことを思い、あたためるように頬を包む男の手の平にすり寄った。
 眠い。眠気に満たされてほとんど機能していない脳に届く呪いの言葉は既に遠く、確かに胸を侵していた恐怖も寂しさもどこにもない。このまま眠れば、きっと夢すらもう見ない。
 ゆるゆると瞼を閉ざす。頬を離れた手が顔にかかる髪を払い再び頬へと戻ってきて、それに満足感を覚えたのを最後に、クオンの意識は安穏とした闇の中へと沈んでいった。






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