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「浮気…?」

「うわびっくりした」


 唐突にぬっと後ろから顔─── 被り物を覗き込んできたミス・ウェンズデーの低い声にびくりと肩を震わせたクオンは、「浮気の定義とは」と解せないと言わんばかりに首を傾け、ぎゅうと腕に抱きついてきたミス・ウェンズデーの頭をゆるく撫でた。
 ミス・ウェンズデーに貸していたハリネズミが肩に飛び乗ってぽすぽすと被り物を叩いてひと鳴きする。もはや見慣れた光景にナミが肩をすくめ、サンジがギリギリと歯を軋ませて燃える目でクオンを睨みつけた。
 抱きついた腕にぶすくれた顔をうずめる主の頭を軽く叩いて、「さあ、忙しくなりますからお手伝いしてくださいね、お嬢様」とクオンは被り物の下で苦笑した。





† 一本目の航路 2 †





「船を旋回!!急いで!!」


 とにかく針路に従い船を戻そうということになり、ナミは慌ただしく船長含めたクルーに指示を出していく。ルフィやウソップはいきなり何だと首を傾げていたが、進路を逆走していることを話すとそりゃ大変だ!と素直に従って動き出した。
 クオンはミス・ウェンズデーが脱いで差し出したジャケットに袖を通し、肩のハリネズミを撫でてナミの後を追う。


「ブレイスヤード右舷から風を受けて!ウソップ三角帆うしろを、サンジ君 舵取って!」

「任せろナミさん!!!」

「それと、クオン!」

「はい」

「私の隣にいて!」

「……いいでしょう」


 ラウンジ前に立つナミにひとつ頷き、何だどうしたと後部甲板の雪掻きをしていたMr.9が顔を出す。船が針路をずれました、とクオンが答えると「なんだ、波に遊ばれたのか」とせせら笑って青筋立てたナミに殴られていた。ついでにあんたも手伝え!!と中央甲板へと蹴り落とされたMr.9をひょいと避けたクオンは「航海士殿に逆らうものではありませんよ」と忠告をひとつ落とす。

 後部甲板へ続く階段へ足を踏み出せばふと風が変わったことを感じ取り、春一番のあたたかい風が吹いて瞬時に雪が溶けていく。クオンはもう必要はないかといまだ眠り続けるゾロの頭に被せていた被り物を外して懐にしまった。
 突然の春一番に、何で!?とショックを受けていたが「冷静に、冷静に」とぶつぶつ言うナミの隣に立ったクオンは、緊急事態だとゾロを起こそうとするウソップを見て、少し離れたところで跳ねたイルカを目にするや否やそちらへ行きたがるルフィに「あんたは黙って!!!」と冷静になりきれなかったナミの肩を励ますように叩いた。


「…………クオンあんた、笑ってないでしょうね?」

「おや、鋭い」


 正解です、と指で丸を作ると被り物を思い切りどつかれたがノーダメージなのである。殴られてぐるんと回る被り物が面白いのか、肩の上できゃっきゃと被り物をさらに回すハリネズミの額を指で押さえてやめさせ、くるり、と回って正面で止まった被り物の黒い目でナミを見据えた。


「冷静に、ね」

「……分かってる」


 こくんと頷いたナミが大きく息を吸って、吐き、海を見ていたウソップに「波が高くなってきた!」と報告を受けて顔を上げる。次いで、サンジから霧が出てきたとの報、いつの間に持ってきていたのか双眼鏡を目に当てていたクオンが「10時の方角に氷山あり。このままではぶつかりますね」と淡々と言ってきてひくりと頬を引き攣らせた。


「何なのよ、この海は…!」


 本当は頭を抱えて叫び出したいだろうに、クオンの言う通り平静を心掛けようと低い唸りだけを絞り出したナミが前を睨み据える。霧に紛れて見えにくいが、確かに前方に大きな氷山が見えた。
 ぐぉん、と船が大きく揺れる。高い波によって海が荒れ始め、振り落とされないように手すりにしがみついたナミが目の前に迫る氷山に青褪めた。
 サンジが全力で舵を切ってくれているが、これは少し間に合わないかもしれない。間に合ったとしても船底を掠めることは間違いなく、水漏れでもしたら塞ぐ手間が発生してしまう。近づく氷山に中央甲板で主含めた数人の悲鳴が上がった。


「「クオン───!!!」」

クオン、何とかできるのこれ!?」


 中央甲板から主とMr.9の声が、隣からナミの叫ぶような声が上がる。それに、クオンは静かに応えた。


「お任せください」


 船は大きく揺れて安定せず、それでもクオンはそれだけ言うと手すりに足をかけ、一足飛びで前方甲板の船首付近の手すりへと跳び移る。一瞬で目の前から消えた真っ白執事に、へっ?とナミが間の抜けた声を上げるが、それを聞いた者は誰もいなかった。


「船長殿!腕を貸していただけますか!」

「分かった!!」


 揺れる船の上で、手すりに真っ直ぐ背を伸ばして立つクオンに応えてルフィが腕を伸ばす。
 氷山はもう目の前。クオンは自分へ向かってきたルフィの腕を右手で掴むと、そのまま氷山へと向かって船の外へ身を投げた。


 「クオン!?」


 ナミの悲鳴じみた声が聞こえたが無視をして、氷山の側面・・両足を・・・つけた・・・クオンは、自分を潰さんとする勢いで迫るゴーイングメリー号へ白手袋に包まれた左手を向ける。まるでメリー号の横っ腹へ掌底を打ち込むように、けれど優しく、クオンはその左手でメリー号へと触れた。

 瞬間、ぐんとメリー号が右へと傾く。進路を無理やり変えられた船の船首が氷山の外側を向き、船体もそれに従って右へと大きくずれた。
 船は二度ほど揺れ、すぐに安定を取り戻して氷山の横を通り過ぎていく。船体のどこも傷ついていないことを確認し、右手に持ったルフィの腕が引き寄せるように力がこもるのを感じたクオンはその力に抗わず氷山から足を離してメリー号へと飛んだ。
 すぐにメリー号の上へと引き戻され、ルフィの腕を離したクオンが空中で首の左側を撫でると同時、足音も立てずナミの隣に降り立つ。
 あまりに軽やかで静かな着地と「ありがとうございました、船長殿」とルフィに礼を言う低く淡々とした声、そしてすらりと伸びた背筋が美しく、現実離れしているように見えてたった数秒の出来事が現実とは思えず呆けたナミが、真っ白執事の肩の上で自慢げにひと鳴きしたハリネズミの声に我に返った。


「ありがとうクオン!!─── 雲の動きが早い!帆をたたんで!!あの風は大きすぎる!!!」


 クオンにはそのひと言だけをかけ、すぐに状況を見て周囲へ視線を走らせ指示を下すナミの隣で、いっそう強くなっていく風をクオンは感じ取る。空に黒々とした雲が広がり、けれどそれは雨雲ではなく雷雲。嵐が、くる。


「みんな食え!!力つけろ!!!」


 キッチンからおにぎりが大盛りにのった皿を手にサンジが出てきて全員に声をかける。確かに、これからもっと荒れるだろうことを考えれば、今がエネルギー摂取ができる最後の機会といっていい。
 ナイスタイミングですね、と内心呟いたクオンは瞬時に山盛りおにぎりに飛びついて掻っ込むルフィが「てめぇ食いすぎだ!!!」とサンジに叩かれているのを横目におにぎりを2つ手にしてナミに声をかけた。


「あなたも食べておくといいでしょう。帆は私がたたみます」


 おにぎりをひとつ差し出し、こくりと頷いたナミのもとを離れてミス・ウェンズデーへと近づきおにぎりを差し出す。ありがとう、と受け取った彼女が小さくほっと息をついた。
 人間、腹さえ満ちれば余裕ができる。しかし時間に余裕はなかった。

 風が強くなってきているため主に声をかける暇もなく、クオンは帆をたたむロープに手をかける。風が強くてたたみにくいが、今ここで終わらせておかなければ帆が破れてしまう。
 きゅっきゅ~い!とひと鳴きしたハリネズミが肩から腕を伝ってロープに短い前足をかけた。どうやら手伝っているつもりらしいそれに小さく笑みをこぼし、ぐっと手に力をこめて帆をたたんだ。

 おにぎりを腹に詰め込んだ男衆がまた動き出す。クオンがウソップに一応船底を確認してほしいと伝えると、ひとつ頷いて船底へと下りていったウソップが「小せぇけど亀裂がある!」と慌てた声を上げた。どうやら海の下に隠れた氷山の出っ張りに引っ掛けてしまっていたようだ。そこの補修はウソップに任せ、クオンはナミへと被り物を被った顔を向ける。


「航海士殿、指針は?」

「あ…またずれてるっ!!」

「では、次の指示を」


 一瞬我を忘れて叫ぼうとしたナミへとクオンの冷静な声が飛ぶ。それに頭を冷やされたナミが力強い瞳で見返すことで応えた。


「今、ここだけでいいから!私の言うことに従ってもらうわよ、クオン!!」


 クオンは、ミス・ウェンズデーの執事である。麦わらの一味では当然ないし、ナミの言葉に従う義理もない。しかし、この船に乗せてもらっている以上、道理はある。当然何があろうと主のことが一番であることに変わりはないが、主を無事にウイスキーピークへ辿り着かせるための最善な方法のために、クオンはナミへ向かって頷いた。


「……浮気ではありませんよ」

「分かっているわ。少しの間、貸すだけだもの」


 それでも不服を前面に出して頬を膨らませる主に苦笑し、ナミのもとへと踵を返そうとしたクオンはふと、主の頬に指をすべらせてするりと撫でた。


「良い子に我慢ができたなら」


 ぶわり、いっそう強い風が吹く。波が高く上がり、しぶきのかけらに濡れた頬を指で拭ったクオンは被り物越しでも分かるほど、優しい声音を落とした。


「4日間寂しい思いをさせたのですから、素顔禁止令は3日に短縮致しましょう」

「私、良い子、我慢する」


 キリッ、と真剣な顔をして片言で宣言した主の欲望に忠実な反応に、真っ白執事の喉が笑みに震えた。





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