13





「行ってくるぞクジラァ!!!!」

「ブオオオオオオオオ!!!」


 己の“ライバル”であるラブーンに向かって声を張り上げたルフィを送り出すように、クジラは鳴く。そこに置いていかれて蹲る悲壮感はなく、仲間を求めて孤独に哭く幼いクジラの姿もなく、ひたすらに対等な者の背を押す力強い声だった。クオンが初めて聞いた、泣かないクジラの鳴き声。
 いびつな、落書きみたいな“戦いの約束”を頭に描いたクジラの鳴き声は、その姿が見えなくなっても暫く耳の奥に余韻を残した。





† 一本目の航路 1 †





 ところで、いつの間にか羊の船首が鉄板で巻かれて直され、そしてなぜかメインマストの根元もまた鉄板で修繕・補強されていることに首を傾げたクオンがちょうど近くにいたウソップに顔を向けると、「ルフィの奴が…」と苦々しく顰められた顔を見て察してしまった。何をやっているのだろうあの船長は。

 クオンはちらりと空に目を向けた。空は快晴。ぽかぽかと暖かい空気が心地良いが、ここは“偉大なる航路グランドライン”、一本目の航路。双子岬が見えなくなって暫くすると、何の前触れもなく急に気温ががくんと落ちた。


「さむ…え、寒い!?」

「ふむ」


 前方甲板の柵に腰を下ろしていたクオンは、今回は冬ですか、と口の中で呟いて隣でぶるりと体を震わせたナミに「冬服の準備を」とだけ声をかける。どういうこと?とクオンを振り返って首を傾げたナミだが、すぐに空から雪がちらついたのを見て目を見開いた。


「ゆ…雪!?何で!?」

「さあ、始まりますよ、航海士殿」

「え?」

「一本目の航路です。死にたくなければ気を引き締めてくださいね」


 クオンの静かな声音に、ぐっと息を呑んだナミはひとつ頷くと言われた通り冬服を取りに中央甲板からラウンジ下の船室へ続くドアへ入っていった。
 突然の雪に騒ぐ船長をはじめとした面々を一瞥し、寒さから震えるミス・ウェンズデーが近くに寄ってきたのを無言で迎える。


クオン、寒くなってきたわ。中に入りましょう」

「そういうわけにもいきません。お嬢様は中へお入りください。見る限りこの船の暖房設備はあまり期待できそうにありませんので、こちらとハリーをどうぞ」


 言いながらミス・ウェンズデーへジャケットを脱いで渡し、少しでも暖を取るためにハリネズミを手の平にのせてやる。暖房役を仰せつかったハリーは任せろとばかりにひと鳴きして短い前足を上げた。
 クオンの体温が残るジャケットを前で合わせて顔を埋めたミス・ウェンズデーが「うふふふへへえへへふふふ」と頬を染めて奇妙な笑い声を上げたがやはり無視し、ラウンジへエスコートすれば中にいたサンジがきょとりと目を瞬いたあとミス・ウェンズデーの手を握る、どころか腕に抱きつかれているクオンを見て羨ましげにぐる眉を吊り上げた。


「コック殿、どうかお嬢様に温かい飲み物を。これからもっと気温が下がります」

「あ゛ァン?……そういや言われてみれば」


 クオンに凄みはしたもののすぐに状況を把握してヤカンに火を点ける。するとラウンジのドアが開き、「寒い、寒い」と言いながらダウンジャケットと手袋、マフラーにイヤーカフとフル装備のナミが駆け込んできた。
 ナミの後ろ、ドアの外を見てクオンが被り物の下で目を瞬く。もう積もるほどに雪が降ってきていた。


「この分では雪掻きしなければ船が沈みそうですね。スコップはどちらに?」

「倉庫の方にあったはずよ」


 震えながらナミが答えると、ひとつ頷いたクオンがナミへと顔を向ける。


「航海士殿、20分後に再び甲板へ。針路の確認をしなければなりません」

「ええ?でも、波は穏やかそのものよ。方角はずっと確認してるし、天候だって雪が降ってるだけで…」

「航海士殿」


 渋るナミへ、クオンはじっと被り物を真正面から向けた。
 妙に愛嬌のあるようで間の抜けた猫を模した被り物につけられた黒い点のような目の奥は見えないのに、そこから強い視線を感じたナミが閉口して頷く。ここは“偉大なる航路グランドライン”。己の知識が不十分であることは、“記録指針ログポース”の存在を知らなかったナミはちゃんと自覚があった。

 見つめ合う2人を見て、麗しき航海士をクソ寒い外に連れ出そうとは、とサンジが口の端を歪めたが、航海士がいなければ船は目的地へ辿り着けないし、このどうにもクソ羨まし、いや妬まし、いやいや得体の知れない真っ白執事の言うがまま針路を操られるのは御免なので口に出して反論ができない。代わりに小さく舌打ちをしてすぐに思考を切り替えレディ達に出すドリンクについて頭の中にレシピを組み立てた。


「ナミさん!今からおれが特製ホットドリンクを作るから待っててね~~♡♡♡」

「ありがとうサンジ君」


 もちろんあなたにも、と真摯な声でミス・ウェンズデーへ告げるサンジを一瞥し、3人を置いてクオンはラウンジを出た。
 既に軽く雪が積もっていて、船長と狙撃手は早速雪遊びに夢中だ。それにしても、2人共袖がない服を着ているのに寒くないのだろうか。
 子供は風の子元気の子。そう思いながら中央甲板へ下りればいまだ眠りこけてる剣士がいて苦笑する。


「お!クオン!お前も遊ぶか!?雪だるま作ろうぜ!」

「大変魅力的なお誘いではありますが、この雪を何とかしなければなりません。Mr.9、お手伝いを」

「はァ!?何でおれが!?」

「針二千本ノック、減らして差し上げようかと思いましたがいらぬ気遣いだったみたいですね」

「お手伝いさせてください」


 倉庫へと入りながら言えばすすすとMr.9がついてくる。よろしい、とひとつ頷いてスコップを手渡した。Mr.9もスーツを着ているとはいえ薄着だ、動いていれば多少はマシだろう。
 スコップを受け取ったMr.9が、クオンがウェストコート姿なのを見て眉を寄せる。スーツでも寒いのに、ジャケット1枚なければもっと寒いだろう、とその顔が語っていて思わず被り物の下で笑みを浮かべた。


「大丈夫ですよ。寒さには耐性があります。雪掻きしていればあたたまりますし、何よりこの天候とて長くは続きません」

「そりゃ分かってるが…まぁ、お前がいいならいいんだ」

「お気遣いありがとうございます」

クオンが風邪でもひいたらミス・ウェンズデーがこの世の終わりみたいな顔をして泣くから、それはなぁ、ちょっと」


 そう言うMr.9は相方が使い物にならなくなることへの不満ではなく、クオンの身も相方の精神も心から思いやっていると分かるから、どうにもクオンはこの男を雑に扱っても無下にはできないでいる。
 お人好し、と呟いたのは内心でだ。この男は実質、ミス・ウェンズデーにもクオンにも裏切られているというのに。


「さぁ、口より手を動かしましょうか」


 会話を打ち切って甲板へ出る。雪はさらに量を増していて、雪だるまづくりに夢中な船長と何やら雪像を作っているらしい狙撃手を一瞥して視線を滑らせ、ふと見れば緑が雪に埋もれていた。まだ起きないのか、あの剣士。

 後部甲板をMr.9に任せ、また妖刀に威嚇されるかと思いながら雪から覗く緑へ手を伸ばすも何もなく、伸ばした手はそのままゾロの頭に降り積もる雪を払う。白に映える鮮やかな緑はすぐに顔を出し、さらにぺぺぺぺと下へ雪を払っていけば、ぐーかぐーかとこの雪の中呑気にいびきをかくゾロが出てきた。
 もはや呆れを通り越して笑ってしまう。あなたさっきまでの私への警戒心はどこへやったんですか、と思いながら雪を払い、ふっと小さく息を吐いて胸元からスペアの被り物を取り出したクオンは腰を屈めてそれをゾロに被せた。これで、少なくとも雪が積もって窒息死することはないだろう。

 白い被り物の下に消えた緑の残像を瞬きひとつで払い、屈めていた腰を伸ばして雪掻きをするべくまずは前方甲板へ。中央甲板はルフィとウソップが雪遊びに雪を使っているので後回しでいい。
 ざくざくと雪を踏み鳴らして階段を上り、真新しいスコップを白い絨毯へと突き立てた。






 雪を掻いては海へ捨て、掻いては捨て。その全身に劣らない白い息を吐き出しながら無心で繰り返していると、ナミとミス・ウェンズデーにお茶を出してきたらしいサンジがすぐに合流した。さすがにマフラーを巻いたサンジがウェストコート姿のクオンに眉をひそめ、けれど何も言わずに雪を掻いていく。


「おいクオン。いきなり雪が降ってきやがったが、これが“偉大なる航路グランドライン”なのか?」


 ふいにそんな質問が飛び、ご機嫌に雪遊びに興じるルフィとウソップの声をBGMにクオンはサンジに顔を一瞬だけ向けてすぐに雪へと戻す。


「こんなもの、まだやさしい方ですよ」

「は?」

「あなた方は運が良い。気温は氷点下で雪は降っていますが波は穏やか。今すぐ・・・死ぬ・・危険が・・・ない・・始まりは幸運そのものです」

「……分かるように言ってくれ」

「すぐに思い知りますから説明は不要でしょう」


 言い、ざくりと掬った雪を船の外へと捨てたクオンは被り物越しに白い息を吐いてラウンジを振り返った。同時にラウンジのドアが開き、寒さに身を竦めたナミが震えながらこちらへやってくる。「お、ナミも遊ぶか?」「遊ぶかァ!つーか見てる方が寒いのよあんた達!」なんて会話が聞こえて、ざくざくと雪を鳴らしながら鼻の頭を赤くしたナミがやってきた。ぱっとサンジの顔が輝く。


「ナミさん!!恋の雪掻きいかほどに!?」

「止むまで続けてサンジ君」

「イエッサー♡」


 唯一覗く右目をハートにして雪掻きの速度を上げるサンジをよそに、隣に立ったナミがクオンを見上げてその姿に顔を歪めた。しかしクオンは気にせずについとラウンジへ視線を滑らせる。と、丸窓からひょっこりと水色の髪の少女が心配そうに覗いているのが見えて軽く手を振れば、嬉しそうに手を振り返された。ナミへと顔を戻して口を開く。


「航海士殿、指針の確認は?」

「え?方角ならさっきも確認したから、だいじょう……ええ!?

「やはりずれてますね」


 ナミの左手首にある“記録指針ログポース”の示す指針は、約90度ずれていた。この程度のずれなら許容範囲内だろう。
 目を見開いて驚愕の声を上げたナミに、異様さを感じ取ったサンジがどうしたんだナミさん!と駆け寄ってくる。その間にも少しずつ指針はずれていき、何で!?とさらにナミが悲鳴のような声を上げた。


「波は静かなままなのに…!」

「これが“偉大なる航路グランドライン”です。風も空も波も雲も何一つ信用ならない。天候は急変し、波はうねりを変え、あるいは穏やかなまま船を遊ばせる」


 そう言ったと同時に、突然空に広がる雪雲に黒い雷雲が混じり、激しい光芒を走らせた。“記録指針”から顔を上げたナミが目を丸くしている。


「不変のものは唯一、“記録指針”の指す方向のみ。覚えなさい、航海士殿。その頭に叩き込んで体に刻みなさい。この海は、あなたが相手取ってきた海とは次元が違う」


 決してなめてはならない。一分一秒の差で船が沈むか先へ行くかに別れるのがこの海だ。それを越えられるかどうかは、航海士の腕にかかっている。


「クロッカスさんが言ってた通り、季節も天候もデタラメに巡ってる…」


 呆然と目を見開いたナミは、どんどん指針をずれさせていく“記録指針”を見下ろして唇を引き結んだ。これが、“偉大なる航路グランドライン”。


「航海士殿。今一度、気を引き締めなさい。あなたにこの海が越えられますか?」


 おもむろに発されたクオンの声は、妙に愛嬌のあるようで間の抜けた猫を模した被り物を通して低くくぐもり、声音に乗る感情を削いでナミの耳へ届けられる。それでも、冷淡に聞こえるその声音に宿る真剣さは確かに届いていた。
 この執事は、決して自分をバカにしていない。侮っていない。ただ、足りないなら死ぬ気で身につけろと叱咤している。ほんのいっとき、目的地へ着けば用無しだろう自分へ、その先へ行くための確かな忠告をくれている。
 それが分かったから、ナミもまた真っ直ぐにクオンの顔を見た。被り物に覆われた、けれどその向こうにあるはずの目を睨むように。あるいは、挑むように。


「私は、どんな海だって、越えてみせるわ」


 だから、ちゃんと聞くから、教えて。そう続けたナミの瞳に宿る光に、被り物の下でクオンは目を細めた。
 良い目だ。その目がこの先、折れなければいいのだけれど。


「……今は季節・・が“冬”で安定しています。船の進路を整え、きちんと目的地へ向かうなら、海は荒れるでしょう」

「うん」

「何が起きても慌てず、冷静を心掛けなさい。波を見て、風を感じて、天候を予測し、ひたすらに指針を追うこと。航海士殿、海を越えるためならば船長でさえ使いなさい。それさえきちんと守れれば───」


 言いさして、クオンははくりと唇を閉ざした。
 クオンの言葉ひとつひとつを頷きながら真剣に受け止めるナミを見下ろし、その瞳に宿る輝きを目にして、少しだけ困ったように微笑んだのは、被り物に隠されて誰の目にも映らなかった。


「あとは、私が何とかしましょう・・・・・・・・・・





  top