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 仲間達のもとへ戻っていくルフィの背中を見送っていたクオンは、ぼふりと背中に衝撃を受けて被り物の下で目を瞬いた。近づいてくる気配には気づいていたので驚くことはなく、背中に顔をうずめて体重をかけてくる主を首だけで振り返る。


「ダメよ、クオン

「……」

「あなたは、私の、なんだから」


 腰に回した腕に力をこめてさらに強く抱きつき、背中に額をこすりつける主の口が続けて無音で動いたことには気づけず、クオンは目を伏せるとゆっくりと主の腕を撫でた。
 ええ、分かっていますよ。クオンはそう、小さな呟きを落として、光に灼かれた己の胸から目を逸らした。





† 双子岬 7 †





 “記録指針ログポース”の“記録ログ”がたまるまでまだ時間があるらしく、少し失礼しますねとミス・ウェンズデーに言って離れたクオンはクロッカスへと歩み寄った。


「ドクター、申し訳ありませんが、もう鎮静剤の材料をここへ運ぶことはできません」

「……行くのか」

「ええ。短い間でしたが、良い取引をしていただきました」


 少ない言葉でも察してくれることがありがたい。何も事情は話していないし彼も深くは理解していないだろうが、それでもクオンが二度とここへ来るつもりがないことは分かっているようで、少しの沈黙を挟んだクロッカスはそこで少し待っていろと言い残して灯台の裏にある家へと入っていった。すぐに戻ってきた彼は手に持った何枚かの海図をクオンに差し出す。


「流れの商人から買ったものだから真偽は判然としないが……ないよりはマシだろう」


 受け取った海図は、この灯台に留まるクロッカスには必要のないものだ。思わず顔を上げると、クロッカスはいつものように眉間にしわを寄せて眼鏡の奥にある目を細める。


「お前がどこから来て、どこまで行くのかは知らん。興味もない。それを使おうが捨てようが好きにしろ。ただ…私はこの1年、退屈はしなかった」

「……ラブーンが、いたでしょうに」

「それでも、まともに人と話したのはお前くらいだ」


 ほのかに口端をゆるめて笑むクロッカスとの付き合いは、本当に短いものだった。1年、それも不定期での訪問だったから顔を合わせたのは両手の数ほど。
 あるとき、負った怪我を軽く手当てしただけでやってきたクオンを怒鳴りつけて問答無用で治療してから雑談なんかをするようになったことを思い出す。あれは、初めてこの灯台にやってきてから何度目のときだったか。灯台にやってきたゴロツキを初めて海に突き落としたのは何度目のときだったか。鮮明に思い出せはするけれど、思い出話をしたいわけでも名残惜しみたいわけでもない。クオンは礼を言う代わりに手を差し出した。


「息災で。船長殿がここへ一周してくるまでご自愛くださいね、ご老人」

「余計なお世話だ、このクソガキが」


 手を握り返され、吐き捨てるように言われた言葉に喉を鳴らして小さく笑う。


「その船に、お前はいないのか」


 手を離し、クロッカスがルフィを一瞥して唐突にそう問う。クオンは妙に愛嬌のあるようで間の抜けた猫を模した被り物の下で、はっ、と吐き捨てるように微かに笑った。


「私はお嬢様の執事です。お嬢様のもの・・である限り、そんな未来はありえません」


 そして、主の執事を辞める気も、なかった。
 確かにルフィにはどこか惹かれるものがあることは事実。けれどやはりクオンの優先順位は変わらない。あの子の傍にいると決めたあのときから、あの子に執事になってほしいと願われたそのときから、クオンはあの子のものであることを受け入れ、そして今もそうありたいと望んでいる。それを、口に出した以上にクロッカスへ伝えるようなことはしないけれど。

 クロッカスは被り物につけられた2つの目を見つめた。その奥にあるはずの瞳の色を、けれど老人は知らない。瞳の色どころか、この真っ白執事の素顔を見たこともなかった。
 おそらくその顔を知っているのはここにいる人間の中で、執事が主と戴く女だけだ。その女のどこがよくて有能すぎるほどの執事が喜んで仕えているのかは分からないが、それを教える気も、きっとないのだろうことは分かっていた。

 はぁ、とため息ひとつ吐き出したクロッカスはクオンから目を背けて麦わらの一味の航海士であるナミのもとへと歩いていく。
 “記録ログ”がたまったのだろうと悟ったクオンもまた海図を仕舞うとクロッカスに背を向け、Mr.9と並んで待つ主のもとへと足を進めた。


「参りましょう、お嬢様」


 白手袋に包まれた手を差し出すと、嬉しそうにミス・ウェンズデーがその手を握る。
 また乗るとは思わなかったゴーイングメリー号へとエスコートしたクオンは、中央甲板の壁に座り込んで眠る緑髪の剣士に気づいて一瞬目を留め、起きる気配がないのを見て特に声をかけることもなくルフィへと話しかけているクロッカスの方を振り返った。


「いいのか?小僧。クオンはともかくとして、こんな奴らのためにウイスキーピークを選んで。航路を選べるのは始めのこの場所だけなんだぞ」

「気に入らねぇときはもう一周するからいいよ」


 クロッカスの忠告にあっけらかんとして返すルフィへ、そうか、とどこか嬉しそうにクロッカスが笑みを浮かべる。何だかんだ、この老人もルフィを気に入っているのだろう。


「じゃあな花のおっさん」

「“記録指針ログポース”ありがとう!」


 ルフィが声をかけ、ナミが礼を言う。行ってこい、とクロッカスが返すとふいに海面が揺れて波が立ち、くぉお、と優しい鳴き声が聞こえて船の後方に大きなクジラが顔を出した。クオンがそちらに顔を向けると同時にびょんと腕が飛んできて体に巻きつく。…………腕?


「ぅえ、あ!?」

クオン!ほら見てみろ、あれがさっき言った“戦いの約束”だ!!」


 ぐんと伸びた腕が収縮して前方甲板にいたルフィのもとへ引き寄せられる。慣れない浮遊感と強制的に引き寄せられる感覚に一瞬目を回し、しかしすぐに我を取り戻して床に足をつけたクオンはルフィに示されるがまま海面から顔を出したラブーンを見上げた。
 抉ったような傷だらけの額を埋め尽くすように、麦わら帽子を被ったドクロが描かれている。確かに船に掲げられた海賊旗と同じ……同じ…………まぁモチーフは同じですね、と思ってしまったほどのガタガタに歪んだマークは、ありていに言えばヘタクソのひと言に尽きた。絵心がなさそうだとルフィに抱いた偏見はどうやら当たっていたらしい。


「あれを、船長殿が描いたのですか」

「そうだ!結構うまく描けてるだろ!」


 身長がほとんど変わらないから、すぐ横にあるルフィの顔が自信満々に笑っているのが至近距離で見える。いやヘタだよ、とウソップが視界の端でツッコんだのには内心で頷きつつ、旅立つライバルを見送るクジラをクオンは見つめた。


「……ええ、心がこもっているのが分かります」


 やわらかな声音は、しかし被り物がくぐもらせて抑揚を削ぎ、低くなった声ににじむ感情は聞かせる者の鼓膜を叩く前に褪せていく。
 ルフィに突然引き寄せられながらもクオンの肩に何とかしがみついていたハリネズミがそっと身を寄せてきて、その顎を指で撫でる。
 自分が発して被り物によって変えられた声を耳に入れ、これでは本心なのだと伝わらないだろうなと思ったクオンはしかし、「しししし!」と隣で嬉しそうに笑う声を聞いて、まるで相棒のように自分の感情を的確に拾われている気がしてならなくなった。
 ルフィが人を疑うことを知らない、のも、もちろんあるだろう。けれどそれ以前にただ真っ直ぐに他者を信じるその心根がいいなと思い、ウイスキーピークに立ち寄らせることを躊躇わせる。
 だが針路はもう決定してしまった。主もこの海賊達をカモにするつもりなのは間違いなく、そしてその意にクオンは背かない。

 クジラに手を振るルフィの横顔を見て、どうしましょうかねと口の中で呟いたクオンは、まぁ何とかしましょうかとすぐに答えを出して被り物の下で苦笑した。


「ちょっとあんた!私のクオンに何するのよ!?何なの近いのよ羨ましい!!」

「なんだよ、別にいいじゃねぇかこれくらい!」

「いいわけあるかっ!クオンにちょっと気に入られたからって調子に乗るなって言ったでしょう!クオンは優しいから嫌だって言えないだけなのよ!!」


 突然己の執事を掻っ攫われ、足取り荒く前方甲板へ上がってきたミス・ウェンズデーが目を吊り上げてクオンの腰に巻かれたルフィの腕をほどこうとやっきになる。するとそれに反発するようにルフィの腕に力がこもり、内蔵を圧迫されてぐぇっと声が出そうになったが何とか耐えた。


クオン、別に嫌じゃねぇよな!」

クオン、浮気はしないわよね!」

「何がどう浮気になるんですかね」


 そして何だこの状況。右にルフィ、左に主を引っ付かせながら呆れたクオンは自由な頭を動かして被り物を左右の2人にごすごすとそれぞれぶつけて口を閉ざさせた。ケンカ両成敗である。もっとも、額を押さえたミス・ウェンズデーに対してルフィはまったくのノーダメージでまったく気にしていないが。成程確かにゴム人間。


「さぁ船長殿、号令を。あなたが声を上げなければこの船はどこにも行けやしないでしょう」

「ん、そうだな。よーっし、帆を張れ───!!」


 ルフィの声に応えて帆が張られ、風を受けた船がゆっくりと動き出す。同時にクオンの腰からルフィの腕が離れ、自由になった真っ白執事を庇うようにミス・ウェンズデーがルフィの背中を睨みながらクオンに抱きついてむすりと唇を尖らせる。
 拗ねちゃいましたね、とさすがに戯れが過ぎたことを察してミス・ウェンズデーの頭を撫でる。優しい手つきで髪を梳くと少しだけ目許の険が和らいだ。
 ここに誰もいなければ素顔を見せて甘やかし機嫌を取るのだが、そういえば1週間素顔禁止令を出したばかりなことを思い出して別の方法で機嫌を取ることに決めた。クオンは一度決めたことは実行することに定評のある執事なので。
 かぽ、と少しだけ─── 顎がかろうじて見えるくらいまで被り物を上げて素の声が聞こえるようにしたクオンが僅かに屈み、そっと主の耳元で囁いた。


「さぁ、機嫌を直してください私のお姫様。私にはあなただけと、知っているでしょう?」

「~~~~~~!!!!」


 瞬間、膝から崩れ落ちたミス・ウェンズデーが甲板に突っ伏して音のない呻きを発する。顔を両手で覆い、首まで真っ赤にした彼女がごろごろと甲板の端まで転がっていって戻ってくる。それを3往復繰り返したあとによろよろと上体を起こしたかと思えば縋るようにクオンの足にしがみつき、「いっしょうみみあらわない…」と震える声が聞こえて「洗いなさい」と返した。ミス・ウェンズデーの奇行にナミが呆れてため息をつく。

 腰が砕け、膝が震えて立てないらしい主を面白いなぁと笑ったクオンが発した言葉は一片の偽りもない本心だと、曲解されることなく主に伝わったことは知っていた。



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