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クオン、着いたぞ」


 その声と共に軽く揺さぶられ、思考の海に沈めていた意識を引き上げたクオンはゆるゆると重い瞼を押し上げた。
 頼んだ通り高いところへ運んでくれたのだろう。目の前には視界を遮るものは何もなく、東の空が宵闇を薄めていくさまをクオンは見た。
 身じろげば意図を察したゾロが降ろしてくれる。クオンはふらつく脚を気力で動かし、ゾロの横を通り過ぎて少しでも朝焼けに近づけるよう建物の端の方へ歩いていく。植えられた芝生が素足をくすぐり、ふと力が抜けて座り込む。それでも這うように進んで、クオンは夜明けを迎えようとしている空を見つめた。






† 宮殿 2 †





 ゆっくり、静かに、東の空が白々と夜の色を薄くしていく。砂漠の冷えた空気がまとわりついて肺を満たし、霞んでいた意識をはっきりとさせてくれる。
 クオンは眼下の町並みを眺めた。あちこちが壊れているが、早速修復作業が始まっているのだろう、道の傍らに木材などが積まれているのが見える。どれくらい眠っていたのか。ぽつりとそんなことを思った。

 クオンをここまで運んでくれたゾロは後ろに佇んだまま動こうとしない。静謐さを帯びた男の意識がこちらに向いていることをまざまざと感じる。まるで見守るようにも感じられるその気配に、凍りついていた心が震えた。体の前面に残るぬくもりを拭い去られたくなくて、抱きしめるように己の両肘へ交差した両手を添えて身を縮める。

 瞬きもせず夜明けを待つクオンの目を、黄金にも似た紅い光がちかりと灼く。暴力的な爆発の光ではない、誰にも等しく恩恵と試練を与える陽が顔を出した。
 砂を赤く染める光は色を転じさせ、空を白く染め上げる光が微かに揺らぎながら昇っていく。宵闇が払われ、名残惜しげに残った夜は瞬く間に西の果てへと追いやられた。白い空に青がにじんで、やわらかくあたたかな光がクオンを包み込んだ。

 砂地獄に囚われ戦火に見舞われたアラバスタ王国。戦場となったアルバーナ。戦いの跡はいまだ残り、負った傷が癒えるまでまだ暫くかかるだろう。それでも民は立って往く。それでも国は進んで往く。長くこの地に君臨し続けた王を一度は引きずり下ろそうとした玉座に戻して、万雷の喝采を叫んでいく。赦すべき民こそが国だと言う、王だから。


「姫様じゃない」


 目にしみる太陽の光に鈍色を細め、クオンは呟きを落とした。クオン同様朝焼けを見ていたゾロの視線がこちらを向くのが背中越しにも判る。


「捨てるのは、姫様じゃないんです」


 背中を向けているから、ゾロにはクオンの顔は見えない。見えなくてよかったと思う。眉をきつく寄せ、唇を歪めて鈍色の瞳に水分をにじませて大きく揺らしたこの顔は誰にも見せれられない。目を固く閉じて片手で覆い、俯き背中を丸めて蹲ったクオンは震える唇を引き結んだ。

 あなたなしで立たなきゃ、とクオンの主は─── この国の王女は言った。それは即ち、クオンをもう必要としていないという意味だ。必要としてはならないと、ビビは覚悟を決めていた。
 その覚悟を、縋って撤回させられるのであればいくらでも縋っただろう。言葉を尽くして態度で示し、私にはあなただけなのにと言い募って地に膝をつくことすら躊躇わない。愛しているわと叫んだ彼女に、愛しているのですと返したかった。けれど王女は、愛を叫んだ口でもうダメなのだと紡ぎ首を横に振る。

 何でダメなんだろう。どうして彼女の傍にいられないのだろう。考えたくはなかった。冷静になった聡明な頭はここに来るまでの短い時間で既に答えを導き出していたけれど、認めたくはなかった。
 だってそれは、愛を取り上げられて凍りついた心を粉々に砕くことになるからだ。


「捨てる、のは」


 体を折りたたんで蹲るクオンは自分の体に残るぬくもりごと自分を抱きしめた。
 私はなんて弱い生き物なのだろう。記憶がなくとも平然としていられるのに、愛がなければこうも簡単にくずおれてしまう。それとも、記憶がないからこんなにも無様なのだろうか。愛を知らないままでいたら、ひとりででも立っていられたのだろうか。
 心にひびが入る音を耳の奥に聞きながら、クオンはからからに乾いた喉から血を吐くように言葉を綴る。


「捨てるのは─── 私です」


 あふれんばかりに注がれた愛を、振り払わなければならないのは私だ。渡されたものを跳ねのけて既に得たものを捨てなければならないのは私。記憶ごとすべてを失くした、雪狗という二つ名を冠する、クオンという名の真っ白な海兵だから。

 この国に迷惑をかけてはならない。行方知れずとなった雪狗によく似た人間の情報はすぐさま海軍本部へ伝えられ、よく似た赤の他人かどうかを確かめるためにクオンを引き渡すようアラバスタ王家へ要請が下る。
 拒否も反抗も許されず、隠匿などもっての他だ。しかし政府公認の海賊、王下七武海の狼藉に翻弄されたこの国にとって、それが決して快く受け入れられるものではないことくらい分かっていた。
 加えてクオンの顔はアラバスタの民に知られてしまった。宮前広場でほぼすべての人間を跪かせた存在を忘れることなどできはしない。ビビがクオンを手放さないために存在を隠そうとしても、きっとどこからか漏れ出てしまう。そうなればクオンという存在はアラバスタに新たな災厄を招くことになりかねない。
 おそらくビビが誰よりも一番状況をよく理解している。記憶を失くして何も分からないクオンを想ってのあの言葉だった。捨てるのではなく、護るために。愛しているから。

 ─── だから、捨てるのは私の方だ。

 ビビが愛するこの国に災いをもたらさないように。何より彼女の想いを理解してしまったから、彼女の手を掴み続けることもできず、未練がましく彼女のもとに留まらぬようにクオンが捨てなければならない。ビビに抱くこの想いは、きっと彼女を困らせてしまう。そんなことをクオンは望まない。

 鈍色の瞳ににじむ雫をこぼさないように目を瞬かせたクオンは、ゆっくりと息を吸い、深く深く、肺の空気をすべて吐き出すように呼吸した。
 固く瞼を閉ざし、力なく膝に落とした手を音が鳴るほど握り締める。次にこの瞼を開いたときには丸めた背を真っ直ぐにしなければならない。蹲って嘆いたところで誰も助けてなどくれないことは、少ない記憶へ痛烈に刻み込まれている。
 カオナシが滅んだあとも立ち上がることができたのだ、だから次もまた、立ち上がることができる。自ら捨てた愛に、背を向けて。



「捨てるな」



 男の声が届いた。小さくはない、けれど大きくもない、はっきりとした強い声は胸を衝く重みがあった。
 クオンは思わず目を開けた。視界の端に陽の光を受けて煌めく雪色の髪が映る。目の前には自分の影に染められた芝生があって、僅かに折りたたまれた上体を起こせば鮮やかな緑が視界に色を差した。


「お前はそれを失くしたくねぇんだろ。だったら後生大事に持ってろ」


 続いた言葉に丸めていた背を伸ばす。翳が差していた鈍色の瞳を光が灼いた。


「お前が自分にそれを許さねぇってんなら、……おれが許す」

「────」

「捨てるな。お前がいろんな奴にもらったその“愛”ってのだけは、ひとつ残らず抱えて生きろ」


 ひとつたりとも取りこぼすなと男は言う。捨てずに抱えていれば動けなくなってしまうクオンを、それでも歩けと叱咤している。抱えて歩くことを、許してくれる。
 だが、ゾロがクオンに与えるその許し・・は、あまりに優しく、ひどく重く、そして残酷なほどに。


「……厳しい、ですね、剣士殿」

「お前はぐだぐだ余計なことを考えすぎだ。捨てたくねぇんならなりふり構わず握り締めてりゃそれで済む話だろうが」

「脳筋とはまさにこのこと」

「あ゛?」


 つるりと口を滑らせたクオンの背中へすかさず機嫌を損ねた低い声がかかる。半眼になったゾロの睥睨を振り返らないままさらりと流し、クオンは太陽の眩しさに目を細めた。
 自分の考えが間違っているとは思わない。ゾロ曰く確かにぐだぐだ余計なことを考えているが、それでもきっとこの“愛”はここに捨て置いていくのが正しい。けれど正しいばかりが人生ではないことくらいは知っている。結局は自分がどうしたいかだ。……どうしたいかなんて、考えるまでもなく決まっている。


(─── 捨てたくない。私はこの“愛”を抱えて生きていく)


 あなたに許されずとも、最初からそう思えるほど剣士殿のように単純であれば生きやすいのかもしれませんね、と内心で失礼なことを呟く。そんな生き方はまだ自分にはできそうにないが、そういうところが好ましく自分もそうありたいと思ったのならこれからの参考にするのはいいことだ。強張っていた頬が気が抜けたようにゆるんでいく。


(私はきっとこれからも『余計なこと』を考えるでしょう)


 性根はネガティブとはほど遠い位置にあるが、それはもうクオンという人間のさがだった。記憶を失くす前もこういう性格だったのかは分からないが、そのあたりは記憶が戻れば明らかになるだろう。
 そう思って、クオンは深く息を吐き出すと肩の力を抜いた。引き絞られるような胸の痛みはまだ少しあるけれど、ゾロの許しを得て“愛”を抱えたまま生きていくと決めたクオンの瞳に翳りなど微塵もなかった。優しいが厳しくもある男に許されたのだ、ここでそれでも手放してしまうような真似ができるはずもない。そんな無様極まる醜態をこの男の前で晒すくらいなら首を斬られた方がましだと思うほど。


「……剣士殿」


 座り込んだまま、それでもぴんと背中を伸ばすクオンの呼びかけに、視線で応える気配がする。あの真摯な瞳が違わず自分に向けられているのだと思えば頬がゆるんだ。
 随分情けないところを見せてしまった。だがこの男でよかったと心から思う。懊悩し蹲るクオンにらしくねぇなと言うのではなく、おれが許すと言ってくれた男だから。


「ありがとう。…あなたがいてくれて、よかった」


 距離をあけたまま背後に佇むゾロを振り返り、クオンは鈍色の瞳をやわらかくゆるめて微笑んだ。下がった眦にはがんぜない子供の無邪気さがにじみ、喜色を浮かべた秀麗な顔に浮かぶ笑みは甘くとろけて、礼のあとに噛み締めるようにこぼれた声は微かに湿って震える。
 輝く陽の光に照らされたこの表情が嘘だというなら世界のすべてが信じられなくなる微笑みと共に綴られた言葉をおくられて、ゾロは目を瞠ってクオンを凝視した。少しの沈黙を置いて眩しそうに目を細めたゾロが口角を上げて笑う。


「恐悦至極に存じます、だったか、お前風に言うなら」


 慇懃に口調を真似るゾロに、クオンは小さな笑声をこぼした。「ついでにとてもいい男」と付け加えれば「ついでか」と肩をすくめられ、軽快なやり取りに楽しげな笑みを浮かべたクオンは腰を下ろしたまま体ごとゾロの方に向き直る。


「あなたほどいい男はそうそういないでしょう。大変好ましく思います」

「そうか」

「本心ですよ」

「知ってる」


 まるで当然のことのように頷くゾロに、クオンの笑みは深まるばかりだ。


「ところで剣士殿、そろそろ部屋に戻りたいので運んでいただいても?」

「お前本当そういうところだぞ」

「さて、何のことを仰っているのやら」


 にこにこと屈託なく笑うクオンへため息をついたゾロが歩み寄ってくる。大人しくゾロの肩に乗っていたハリーと目が合って安心させるように微笑みかければ、ハリーはつぶらな瞳を潤ませて小さく鳴いた。ゾロの肩からクオンの頭へと飛び移ったハリーがきゅいきゅい鳴きながらわしわしと雪色の髪を掻き回す。クオンはハリーの気が済むまで好きにさせることにした。


「宮殿の連中に見つかったら面倒くせぇな……」


 夜は明け、徐々に宮殿内にも起き出した人の活気が湧き始めている。廊下を通れば誰かに必ず目撃されるだろう。そうすれば王女の執事が目を覚ましたことに気づかれビビへと伝わり、どうして私より先にMr.ブシドーと会ってるのよクオンの浮気者ォ!!!と絶叫するのは目に見えていた。どうしても何も、偶然出会ってしまったのだからしょうがない、がクオンの論だが、ハリーに強制的に起こされてクオンのもとへ案内されたゾロとしては口を噤むしかない。

 このあとずるいずるいずるいと怨嗟混じりに繰り返されじっとりとした目で睨まれるのを分かっていながら目の前に屈んで背を向けるゾロに嬉しげな笑みを浮かべたクオンが手を伸ばす。男の首に腕を回し、のしかかるように体重をかけてもびくともしない男に安定感抜群安心安全一家に一台……とどこかで思ったような気がする感想を抱いた。
 後ろに回った腕がクオンの脚を支えてゾロはふらつくことなく立ち上がる。背中から伝わる少し高い体温の心地良さに目を細め、獣が懐くように首元に頭を寄せてすりつけたクオンは長く深く息を吐いた。


「おやすみなさい、剣士殿」

「……ああ。おやすみ」


 ぽつりとこぼした言葉も律儀に拾って返すゾロにゆるやかな笑みをこぼして、忍び寄る睡魔に抗うことなく意識をとかしていくクオンは、どこか今更のように思う。


(この男の傍は、よく眠れる)


 警戒する必要はなく、何かあれば即座に反応してくれる。弱っているときにクオンが気を張り続ける必要がまったくない。そして情けないところも見せてしまったから今更無駄に取り繕わなくてもよかった。
 「良いもの」だとは思っていたが、まったく予想以上に「良いもの」過ぎる。「良いもの」といえば、そういえば船長殿は……そう考えたところで、クオンの意識はまどろみにとけていった。

 このあと、クオンを背負い宮殿内を闊歩するゾロの姿は当然多くの者に目撃されてすぐさまビビに通達され、ビビはゾロが想像した通りの恨み節を怒涛の勢いでぶちまけたあとクオンの部屋へと突撃して「クオンの浮気者クオンの浮気者クオンの浮気者クオンの浮気者……」となじることを眠り続けるクオンは知る由もないが、大体想像はできていたので目を覚ましたら滂沱の涙を流すビビにタックルを食らい再び気を失いそうになっても「うふふおやおやきれいなはなばたけが…」と目を虚ろにするくらいで、ビビの重い愛をしっかりと受けとめる一幕が宮殿内で繰り広げられたりしたとかなんとか。





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