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 祝福するようにアラバスタ全土にひと晩降り続いた雨はすっかり上がり、人々はまことの王を戴き新たな日常へと踏み出した。
 取り返しのつかないことはいくらでもあり、失くしたものは多く、得たものなどない。しかしこれは前進であると王は叫び、この戦争の上に立ってなお生きてみせよと、ひどい怪我を負い赤い血を流した王が民を鼓舞し、そしてはそれに応えていく。

 人知れず奔走した海賊達は宮殿へ迎え入れられた。8つのベッドが並んでも余裕のある大部屋に仲良く詰め込まれ、激戦を制した体を休めている。その中にはビビの姿もあった。宮殿内にはクロコダイルとその部下達を倒してくれたといえど海賊と王女が同じ部屋とは、と物言いたげにした者もいたが、王や護衛隊長をはじめとした面々が是としたのだから紡げる言葉はなく。王女もまた、全員が目を覚ますまで傍にいると言って聞かなかった。

 しかし王女と海賊が共に過ごす大部屋に、真っ白執事の姿はどこにもない。クオンはどこ、と目を覚まして早々仲間のひとりの不在に気づいた航海士の言葉に、王女は少しだけ困ったような顔をして、あまりにひどい怪我だったから別室で治療を受けているわと微笑んだ。まだ目を覚ましていないの、と悲しげに。その顔を見た航海士は執事の居場所を知るための問いを呑み込み、何も言わなかった。

 そうして昇った陽はやがて沈み、船長が目覚めないまま雨の降らない夜がきて。
 明け方の澄んだ匂いが微か、遠くにしたそのときに。宮殿内のとある一室でひとりベッドに横たわっていたクオンの瞼が小さく震えて開き、鈍色の瞳が覗いた。






† 宮殿 1 †





 ─── 朝焼けを、夜明けを、見なければ。


 目を覚ましたクオンにあったのはその衝動だけだった。ここはどこなのか、なぜひとりきりの部屋で寝かされていたのか、ビビは、仲間は、戦争は、国は。気になることは多くあれど、そのすべてが胸の内に湧いた端から己の急かす声に押し潰される。

 体が重い。うまく足が動かない。包帯が隙間なく巻かれた体のあちこちが痛い。それでも時折壁に手をつきながら歩き、暗闇に包まれて静まり返った廊下を進んだ。右肩にあるはずの小さなぬくもりがないことに違和感を覚える余裕もなく、とにかく外を目指す。
 廊下の窓からではダメだ。もっと高いところから、町を─── 国を、見なければ。

 衝動に突き動かされるまま歩くクオンの肩が大きく上下して呼吸が荒くなる。鈍い痛みが意識を霞ませて、足から力が抜けてよろめいたクオンは壁に凭れるとそのまま膝を折った。冷や汗がにじんで頬を滑り、廊下に滴る。きぃんと耳鳴りがして一瞬意識が飛んだ。
 足が動かず立ち上がれないことに苛立ち、能力で無理やりにでも行こうかと包帯が固く巻かれた左手を床についたクオンは、ふと誰かに呼ばれた気がして顔を上げた。だが鈍色の瞳は暗い廊下を映すのみで、誰の姿もない。気のせいか。


「おいクオン、何してやがるこんなところで」


 しかし、背後からかかった声は確かに耳朶を打った。低く潜められた男の声は聞き慣れたもので、のろのろと首をめぐらせれば、すぐ隣で足を止めた男が音もなく身を屈めてクオンを覗き込む。窓から射し込む月明かりに照らされた緑の髪が微かに揺れて、左耳を飾る三連ピアスが光を弾いて煌めいた。訝しげに細められた鋭い眼光が蹲るクオンを映して眉間に深いしわが寄る。


「お前どう見てもまだ怪我治ってねぇだろ、大人しく寝てろ」


 頭と胴と腕に包帯を巻いた男にそう言われて、あなたに言われたくはないですねと薄ぼんやりとした反論が頭によぎったクオンは少しだけ自分を取り戻した。強迫観念にも似た衝動は治まっていないが、なぜ剣士殿がここにいるのでしょうかという疑問が湧く程度には鳴りを潜める。同時にゾロの右肩に乗るハリネズミにも気づいた。
 ハリー、なぜそこに。目を瞬かせてそう思ったクオンの口からは、しかし違う言葉が滑り出る。


「行かなければ」

「は?」

「朝焼けを、見なければ。夜明けを、この国を、見なければ」

「……」


 脈絡なく口をついて出る衝動は、ゾロにとっては意味が分からないものだろう。だが焦点が定まってはぶれるクオンの瞳をじっと見ていたゾロは微かに目を細め、前を向いて立ち上がろうとするクオンに手を伸ばすと慣れた動きで痩躯を背負った。突然背中に乗せられたクオンの目がぱちりと瞬く。だがクオンもまた慣れた様子でゾロの肩に手を置き、細く息を吐いて体重をかけた。


「外に出りゃいいんだな?」

「できれば高いところ、町が一望できる場所へ……」


 運んでくれるらしいゾロに言い、全身から力を抜いて獣が懐くように肩口に頬をつける。すんと鼻で息を吸えば鉄の匂いがした。触れた背中から伝わる男の体温は服と包帯越しでもひどくあたたかく、意識を刺す痛みを押しのけてじわじわと眠気が忍び寄ってくる。
 このまま眠れたら楽だろう。今だけは後のことを何も考えず、与えられるものを享受することもできる。
 ─── けれどそれは、ダメだ。考えなければならないことがある。心は嫌だと駄々をこねるが、思考を止めて蹲っていてはビビに合わせる顔がない。膝を折った執事の隣に立つに相応しくありたいと真っ直ぐ背筋を伸ばす彼女の隣に値するような、気高い王女に微笑みかけられるに相応しい己でなければならないと怯える己を叱咤した。
 このまま思考に耽っていても、背負うクオンを気遣って揺れを小さくしてくれる男ならきっと望む場所に連れて行ってくれる。それを疑いもしないクオンはゾロの首に腕を回してさらに身を寄せ、ゆっくりと目を閉じた。






 朝がまだ少しだけ遠い時分、静かだが眠っているわけではないクオンの夜気にとける小さな呼吸を聞きながら、ゾロは息を吐いてちらりと右肩に乗るハリーを横目に見て少しだけ記憶を遡る。


 仲間と共に大部屋で眠っていたゾロは、いつの間にか部屋に入ってきていたこのハリネズミに全身で口と鼻をふさがれて強制的に起こされた。
 危うく窒息しそうになったところで飛び起き、跳ねのけられる前にさっと横に躱したハリーは苦しげに呼吸をするゾロの、包帯が巻かれた腕をぺちぺちぺちぺち、途中でべしべしげしげしという勢いで叩き、なんだなんだと疑問符を浮かべるゾロを見上げて部屋の外を指差した。
 行け、あるいは来い。そういう意味を含んだ眼差しでゾロを見上げたハリーがベッドを飛び降りて扉の前に行く。ちらりとこちらを振り返る小さなハリネズミに訝しげな顔をしつつも、クオンに何かあったのかと思えば不審を口にすることなくブーツに足を入れて部屋を出た。
 ハリーの呼び出しがクオンの命に関わる可能性は低いだろう、それならハリーは真っ先にチョッパーを叩き起こしている。だがクオンに何かがなければハリーはクオンの傍を離れない。何よりビビではなく自分を呼んだ意味とは。

 宮殿でゾロが目を覚ましたときには大部屋にクオンの姿はなく、既に起きてどこかへ行っているのかと思えば、そもそもあの部屋にクオンのベッドはないと知ったのは夜になってからだ。ビビも大部屋に用意されたベッドに入り、そうしてクオンの分がないと気づいてビビに目を向けるが、疑問を口にする前に「さぁ寝るわよ」とナミに静かな目で促された。
 訊くな、と言外に言われたのは分かった。同じくクオンの不在を気にしていたウソップとサンジも顔を見合わせ、しかし眉を下げて笑うビビを見ては何も言えなくなったのだろう、おやすみとだけ残してベッドにもぐりこんだのだ。

 誰もが寝静まり、僅かな見張りだけを残した宮殿はもちろん、町すべてが安穏とした眠りに包まれて夜の色が薄くなりかけた頃にハリーはビビではなくゾロを起こしにひとりでやってきた。
 いったいクオンに何があったのか。先を行っては立ち止まり、振り向いてついて来ていることを確かめてまた進む。暗闇に紛れて小さな姿が見えなくなりこっちかと廊下を曲がろうとすれば高い鳴き声がゾロを引きとめて正しい道へ引き戻した。

 そうしてどれほど歩いたか。それほど時間はかからなかったような気がする。通り過ぎた部屋の扉が人ひとり分ほど開いているのを横目にさらに歩いて、ぼんやりと蹲る白が遠目に暗闇に浮かび上がるのと同時、ゾロは思わず駆け出すとそれの名を呼んだ。

 緩慢な動作で顔を上げたクオンの名をもう一度呼んで浮かんだ疑問をそのまま口にし、いつもの燕尾服ではなくゆったりとした衣服に身を包んでいるクオンの傍に屈んで見下ろしたゾロは白い素足が微かに砂で汚れていることに気づく。裾から包帯が巻かれた脚が覗いていた。
 顔色はひどく悪い。血の気が失せた秀麗な顔は青白く、冷や汗がにじんでいる。廊下の端に座り込んでいるということは動くこともまだ満足にできていないのだ。傷が癒えて目覚めたのではないと悟りながら様子を窺えば、クオンは朝焼けを、国を見なければと焦点が揺れる鈍色の瞳で譫言のように言い募り、これでは部屋に戻れと言っても通じないだろう。

 成程、クオンがこの状態だからハリーはおれを呼んだのかと合点がいく。今のクオンをハリーは引きとめられないし、かといって凍針こごばりで無理やりに繋ぎとめることもできない。
 もしかしたらハリーは止めてほしくてゾロを呼んだのかもしれないが、ゾロはクオンの意を汲むことを決めた。何がどうして正体をなくしても朝焼けにこだわるのか、ゾロには分からない。けれど譲れないものが確かにあることは分かる。ユバの町で、あの朝に。既にクオンは言っていたのだから。


「……で、外にはどうやって行きゃいいんだ?」


 ゾロの首に腕を回して抱きつくようにしながら、眠るでもなく何やらまたごちゃごちゃと難しいことを考えていそうなクオンを背負って歩き、記憶の淵から戻ってきたゾロは辺りを見渡した。窓の外はバルコニーなどもなく、そこから出たとしても数階分を真っ逆さまだ。クオンは高い場所へと行ったのだからそれではダメだった。
 夜明けまで時間はまだありそうだが、そうのんびりともしていられない。しかし走って行けばクオンに負担がかかるだろう。さらに言うなら道も判らない。まったく宮殿というものは複雑な造りをしている。


「きゅあ、はりきゅーぃ」

「ん、そっちか」


 クオンのやわらかな頬がうまる左肩とは逆の肩に乗ったハリーがおもむろに前を指差し、ひょいと肩から降りて案内するように先を行く。あちこちを適当に探し回るより何やら心当たりがありそうなハリーについて行った方が早いと判断して後に続くゾロは、ハリーがゾロの壊滅的方向音痴に気づいていて先導せざるを得なくなっているとは微塵も考えていなかった。





†   †   †






 宵闇が薄まってきている。じきに夜が明ける。
 アラバスタ東の港付近に泊めた船の上で、雲ひとつない夜空をひとり見上げていた女は目を細めた。
 鍛えられ締まった体を包む黒いスーツの上に重ねた白いコートには正義の二文字が鎮座している。吹く風にコートの裾をはためかせ、かつてはこれと同じものを背負っていたひとを頭に思い描いていた。


(雪狗が、この国に)


 海軍本部大佐“黒檻のヒナ”は、雪狗という二つ名を持った海兵のことを知っていた。
 2年前には現在大佐という地位にいる自分よりもひとつ上の地位を賜っていた将校。若干十代半ばにしてそこまで昇りつめた雪狗はしかし大将赤犬の後見を得ており、彼のひと声であらゆる便宜がはかられ、それを妬んだ者達や敵対する海賊に“犬の仔”と蔑称されることもあった。それを本人に聞かせた者は海賊海兵問わず全員軽くて半殺しの目に遭ったとは聞いたことがあったが、真偽を確かめたことはない。

 実際に会ったことは、数度あった。本部に用があったらしい雪狗の顔をすれ違いざまに見ることもあれば、以前禁句を口にして半殺しにされ近づくことを恐れた海兵に言付けを頼まれて伝えたこともある。
 とはいえあちらがヒナを認識していたかは怪しい。深く被った帽子の陰から覗く冷たい鋼の瞳は無感動に煌めき、噂ほど喧嘩っ早いとは思わなかったが温度を感じない表情と瞳は穏やかでもなかった。会話も最低限で、事務的という言葉がこれほど似合う者もいないだろうと思うくらいに。当然お互いに個人的な話をしたことなどありはしない。

 同期のスモーカーは雪狗の存在は知っていても実際に目にしたことはないという。そうだろう、“東の海イーストブルー”のローグタウンを本拠地としており本部に煙たがられている彼と“偉大なる航路グランドライン”を飛び回り何かと赤犬に呼び出されることが少なくない雪狗の接点は皆無に等しい。
 それでもスモーカーは雪狗の顔を知っている。2年前、唐突に雪狗が姿を消して行方不明となったときに、赤犬の指示によって全海兵へ雪狗の捜索及び捕縛命令が出されると同時に中佐以上の地位を持つ海兵へ写真が渡されたからだ。雪色の髪、幼さを残したあまりに美しい秀麗な顔、そして迫る白刃のような冷たい鋼の瞳。必ず生かして捕らえろと厳命が下った日のことを、ヒナは覚えている。

 ─── その雪狗が、アラバスタにいる。


「……顔のよく似た別人という可能性はある。瞳の・・色が・・違う・・からな」


 スモーカーはどこか苦い顔をして葉巻を揺らして言い残すと、クロコダイル討伐の勲章を受けるために半ば強制的に部下と共に本部へと赴いた。
 海賊の手柄を押しつけられ、いくら否定しても上層部は聞く耳を持たず、命令と変わらない授与を下された彼は最後まで納得できていない顔をしていた。その顔から、何やら含むものを感じ取れたのは同期のよしみだったのだろう。

 雪狗と思しき、アラバスタ王国王女ビビに仕える真っ白な執事。だが人違いという可能性も多分にある、と言いながら、「瞳の色が違う」執事が雪狗だと彼は確信を抱いていた。しかし雪狗の容姿と一部明らかな違いがあり、さらにクロコダイルの一件を揉み消す上層部が気に食わなくて本人の口からヒナ以外に報告はされていない。この場合は後者の比重が大きそうだが。
 ゆえに、海賊麦わらの一味の捕縛と雪狗の真偽確認をヒナが請け負った。元より麦わらの一味は海賊であるからして、スモーカーが本部へ赴いている今それを行うべきは自分だ。雪狗に関しては、実際にこの目で見てみないと何とも言えない。スモーカーの話では雪狗は記憶をすべて失っており、雰囲気も噂で聞いていたものとは違うようだったと言っていたが、果たして。


「……」


 ヒナは東の空を眺めた。微かな波の音と共に、水平線の向こうが徐々に色を薄めていく。
 雪狗がいると聞かされたときから、ヒナの脳裏にはずっと白い姿がある。
 いつだったか、雪狗は一度だけヒナの従える軍艦に乗ったことがあった。なぜそうなったのかは覚えているがそこまで回想する必要はない。
 ただ、雪狗は静かな顔で明るくなっていく東の空を眺めていた。その横顔のあまりの美しさを、真っ直ぐに伸びた背でたなびく正義の二文字を、自分より年下の上官が見つめる朝焼けを忘れることはできずにいる。


「─── 夜が、明けるわね」


 あのとき、あの白いひとは何を思って朝焼けを見ていたのだろう。
 鮮烈な光景に気圧されて言葉を発することができなかったヒナは、あの日からずっと、その疑問を胸に抱えて生きている。





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