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雨が降る。さぁさぁ、ざぁざぁ、戦火に包まれた町を癒やす恵みの雨が去った災厄に快哉を叫んでいる。
ユダはゆっくりと瞼を開き、ひびの入ったゴーグル越しに、全身を濡らす雨を降らし続ける雨雲を横たわったまま睨んだ。
耳を澄ませれば王の鼓舞に沸く民の声が雨を伝って聞こえ、生きていたのかと内心呟く。クロコダイルは玉座を奪う前に国王に訊きたいことがあったようだから、用が済めば王の息の根を止めるものだと思っていた。しかし民の前に立っているだろう王に、クロコダイルは麦わらに敗け、アラバスタ王国は滅びずこれからも在り続けることを悟る。真っ白執事の心を折ることもできず、こうして死にかけている自分の完敗だった。
「……くそ」
小さな悪態をこぼし、顔を歪めた
ユダは雨に濡れた砂が指先を汚すのも構わず地面を掻いた。
† アルバーナ 13 †
僅かに体を動かせば焼かれて爛れた皮膚が引き攣り、脳天を貫く痛みに濁った呻きをこぼした
ユダはそれでも肘を立てて何とか体を起こした。傍らに転がった赤い柄の槍を拾い、杖代わりにして立ち上がると足を引きずりながらゆっくりと歩を進めて道の端に寄る。倒れるように建物に凭れかかったところで一瞬意識が飛んだ。いつもなら軽々と振るえる槍が、このときばかりにはいやに重い。
「プルプルプル…プルプルプル…プルプルプル……」
ふいに雨音に紛れて間の抜けた電伝虫の声が耳朶を打つ。
ユダは音がした方を目だけで振り返り、フードを深く被ったひとりの人間が1匹の電伝虫を抱えているのを見た。それに、電伝虫の向こう側にいる者が誰なのかを悟って舌打ちする。
顔の上半分を覆うゴーグル越しに子飼いを睨めば、子飼いは怯えた様子もなく心得たようにそっと電伝虫をその場に置いてすぐに雨に紛れてどこかへと消えていく。
ユダはひたすらに鳴き続ける電伝虫を暫し睨み、ゆっくりと近づいて屈もうとして、ふいに膝が砕けて体勢を崩した。何とか建物の壁に凭れることで無様に倒れ込むのを防ぎ、億劫そうにいまだ鳴き続けている電伝虫の受話器に手を伸ばす。
『出るのがおっそ───い!こちらターミナルS!!やっほー生きてるー?それとも死んでるー?目的はちゃんと果たせたー?』
「うるさい」
『不機嫌MAX!そりゃそうでしょうね~、あの子は壊せなかったし、アラバスタ王国は滅亡どころかまさしく雨降って地固まり健在安定・発展街道爆心確定!ってやつだもの』
ぺらぺらとやかましく軽薄に事実を述べる女は、正確にこちらの事情を知っているのだろう。子飼いがいるのだからそれも当然か。
ユダは返す言葉もなく、代わりにごぼりと血を吐いた。
『わぁお、満身創痍ね~、正直あなたがあの子に敗けるとは思わなかったわ。だって敗ける要素がなかったでしょ?まさか
ユダともあろう男が槍を鈍らせちゃった~?』
「……この肉体がいくら愚鈍にできていても、単純な戦闘力であれに敗ける道理があるはずがない。おれの油断と驕りが敗因だ」
『う~~~ん真面目すぎてつまんない』
女の姿に擬態する電伝虫の顔が言葉通りつまらなさそうに目を細めるが、いつものことなので
ユダは機嫌を悪くすることもない。
屋根のない建物に凭れている
ユダへ容赦なく雨の雫が降り注ぐ。鬱陶しげに髪を掻き上げた
ユダの手に濃い灰色がにじみ、すぐに雨に洗い流されていく。
ユダは雨雲が広がる空を見上げた。時刻は夕方、雲の向こうにある太陽は沈んでおらず、多少薄暗くはあるが視界は明瞭だ。
止むことなく振り続ける雨が黒に近い濃灰色の短い髪を濡らし、髪に塗った染料を溶かして
ユダの頬に灰色の筋をいくつも描く。洗い流され元の色を取り戻して鈍く煌めく髪は、光を受ければ一本一本が星を散りばめたように輝く、─── 雪色。
「
ライア」
静かな男の低い声が電伝虫の向こう側にいる女の名を紡ぐ。何やらぺちゃくちゃと話していた電伝虫はその呼びかけにぴたりと口を噤み、じぃと茫洋とした瞳で
ユダを見た。肌に塗り込んだ褐色の染料もまた雨に洗い流されていくさまは女に見えているはずがないのに、日焼けを知らない真っ白な肌を取り戻していく
ユダを見守るような静けさだ。
元の色を少しずつあらわにしていく
ユダに残された時間は少ない。この肉体はもはや限界だ。完全に壊れてしまう前に、女に頼んでおかねばならないことがあった。
建物の壁に頭を預ける。その微かな振動で
ユダの顔を覆うゴーグルの濃いレンズがひびを深くして割れ落ち、隠し続けて誰にも見せることはなかった瞳の色を晒した。水でさらに薄めた薄墨を刷毛でひと塗りしたような、限りなく白に近い硬質の鋼が緩慢に瞬く。髪と同色の睫毛を濡らす雫が音もなく弾けた。
ユダの白い指がゴーグルを外して力なく地面に落とす。誰の目にも明らかになった
ユダの素顔は、しかし誰の目にもとまることはない。
雪色の髪、鋼の瞳、そして男らしい精悍さをもった秀麗な面差しは─── この国の王女に仕える真っ白執事のものと、よく似ていた。
形の良い唇が言葉を落とす。
「槍を回収しておいてくれ。これはここに捨て置くわけにはいかない」
『……ええ、いいわよ。でもちゃんと話を通しておいてね~?いきなりズドンは困るもの』
「お前がいつもおれにケンカを売りに来るからだろう……」
『かわいいじゃれ合いなのにな~~~』
それはそうだが、どうにもあいつらはこの女に神経を尖らせてしまうらしい。しかしそれは女の自業自得でもある。口の端を歪めて苦笑に似たものを浮かべた
ユダの目が徐々に翳り、力なく落ちた白い瞼に覆われて見えなくなる。
『そうそう、言っておかなきゃいけないことがあったんだった!あなたあの子追い詰めすぎたでしょ!ただでさえ切れ込み入ってるところに余計な“ひび”入れないでよね~!あと、面倒なことにあの子が海軍に見つかっちゃったみたいでね~~~……
ユダ?聞いてる?』
「…………」
『あらら…ま、いいか。
また今度ね、
ユダ』
女に擬態した電伝虫は雪色の髪を揺らして微笑み、ガチャリ、と声を上げて通話が切れる。
擬態を解いて沈黙し目を伏せた電伝虫の前には何もない。そこには呼吸を止めた男が座り込んでいたはずだが、溶け落ちた灰色と褐色の染料は雨に流され、血の一滴すらも残さず消えた男が確かにいたことを、地面に転がる赤い柄の槍だけが証明していた。
クルーのバカ笑いが耳朶を打つ。ひとつの円卓テーブルを数人が囲んでポーカーに興じ、その周りに立つ男達は酒が入った樽ジョッキを片手に囃し立て煽り散らかし時にバカにして、実に楽しそうにひとの真剣勝負を酒の肴としていた。
濃いレンズのゴーグルを首にさげた男は静かに瞬く。お前そりゃ降りた方がいい、と誰かが笑って、うっせぇ邪魔すんな!と自分の手札を難しい顔で睨んでいた男がくわりと牙を剥いた。
陽も落ちていない時分から浴びるように酒をかっ食らうクルーを眺め、今日も今日とて何やかやと理由をつけて宴を始めた船長を一瞥する。男の真向かいに座る船長もまたその手にカードを持ち、眉間に深いしわを刻んでうんうん唸っている。体ごと左右に首が揺れ、天井を仰いで唸り、カードを睨んで唇を引き結ぶ。なんとも落ち着きがない。
酒の席で行う内輪でのゲームに細かいルールは不要だ。手札の交換は2回まで。あとは乗るか降りるか、勝つか負けるかの一発限りの真剣勝負。勝負に出た者達が一斉に手札を見せ合って役が高い者が一人勝ちする、実に簡略化された分かりやすいルールだ。
ぼんやりと船長がどうするのかを眺めていれば、船長は手札をテーブルに伏せてディーラー役の船医にカードを2枚差し出す。船医は心得たようにカードの交換を行い、他にも交換を申し出る者へとカードを配った。その陰で、揃ったカードを見た船長がにんまりと笑みを深めるのを見逃さない。
「勝ったか?」
ふいに隣から声がかかり、目だけを向ければ咥えた煙草を揺らした男が意地悪そうに笑っていた。ゆるく細めた流し目は年相応の色気がにじみ、女が見れば大抵頬を赤く染めるものだが、同性且つ見慣れた副船長のそれはときめきなぞひとつも湧くことはなく心は冷えたまま。硬質な鋼の瞳を眇めれば副船長は肩をすくめて低く笑い、男の口から小さな舌打ちがもれた。
「分かっていて訊くな」
「おいおい、随分とつれねぇな。ここ数日心ここにあらずで、今日はろくに受け答えもしなかったお前に延々まとわりつこうとするお頭を引き剥がしてやったのはいったい誰だ?」
「……それについては、礼を言う。ありがとう」
「どういたしまして。素直なのはお前の美点のひとつだな、
ユダ」
大きな手の平がわしわしと雪色の髪を撫で回すのを好きにさせながら、精悍に整った秀麗な顔ににじんでいた不機嫌さを僅かに消した
ユダは目を細めた。ぽすぽすと軽く叩かれるまでを抵抗することなく受け入れ、敢えて無視していたびしばしと突き刺さる強い視線の元を見やる。じっとりとどこか恨みがましげに半眼で睨むようにして見つめてくる船長と目が合った。
「何だ」
「べっつにぃ」
「そうか」
「そこは!もうちょっと!!深掘れよ!!!気にかけろ!!おれ船長!お前の敬愛すべき船長!顔が良いからって何でも許されるわけじゃねぇんだぞ分かってんのか
ユダ!!」
「なんだ、許さないのか」
「許すが?」
「そうか」
互いに真顔を向け合う船長と
ユダを、あーあーはいはいいつものいつものと周りはドスルーだ。この2人の間に入ると面倒な目に遭うのは経験上誰もが理解していた。
唯一間に入ることがそれなりにある副船長はおかしげに肩を揺らして低く笑い、フォールド、と笑みを含んだ声が宣言してカードを伏せて置く。それに続くように2人がゲームを降りた。船長は降りることなく
ユダを見据え、その強い視線を真っ向から見返した
ユダは、そういえば賭けたものは何だったかと内心首を傾げた。真っ白執事の心を壊すことばかりに気が向いていたから、このテーブルに着くまでが曖昧なのだ。しかし、上等な酒や敵船から奪って分け前にもらった宝、あるいは一人勝ちした者の願いを聞ける範囲で叶えることがいつものルールなので今回もそうだろう。
ディーラー役の船医にカードの交換はと訊かれ、少し考えて1枚だけ交換する。伏せられたカードを手札に加えて見下ろし、小さく頷いた。それを見てフォールドの声がいくつか上がり、気づけばカードを持っているのは自分と船長だけになった。まるで示し合わせたような一騎打ちだが、負け知らずの
ユダが納得したように頷いたのだからさもありなん。
「お前は降りないのか」
「ふっふっふ、今回はおれが勝たせてもらうぞ!そしてここ暫く構ってくれなかった分おれに付き合え!」
「お頭が負ける方に1万ベリー」
「おれ3万」
「ならおれは5万」
「ふむ……10万」
「賭けにならねぇなぁ」
「お前らな!!特にベック、なんだよ10万って!!」
うがぁと吼える船長に副船長は飄々として笑い、「こいつが負ける未来が見えねぇ」とギャンブルに関しては鬼強い
ユダの肩を叩く。だが船長はそれでも勝負を降りるつもりはないようで、イスを蹴って立ち上がると手札をテーブルに叩きつけた。
「エースのフォーカード!どうだ!!」
赤い髪を払って不敵に笑い、大きく胸を反らす船長に、並ぶ5枚のカードを目にしたクルー達が驚愕にざわめいた。これはもしかするともしかするのでは、という空気が流れ、ドヤドヤドヤァとふんぞり返って渾身のドヤ顔を披露する船長を見上げていた
ユダは表情を変えることなく口を開いた。
「シャンクス、今日お前の部屋おれがもらうからな」
「は?」
「まぁベッドだけ使えればいいから部屋に入ってもいいが床で寝ろ」
およそいち船員が船長に向けるものではない台詞を傲慢に吐くが、それを咎めるどころかツッコミを入れる者すら誰もいない。
それにしても、船長のベッドというものはなんでああも広くてやわらかくて寝心地がいいのだろうか。ここ最近深く眠れていなかったからちょうどいいな。そんなことを思いながら
ユダの白い指が無造作にカードをテーブルに放る。
「ストレートフラッシュ」
「ひょえ」
スペードの9、10、J、Q、Kが並ぶカードを見てシャンクスが奇妙な声を上げて動きを止めた。あーあ、と周囲から声がもれて、同情の眼差しでクルーが本日の敗者であるシャンクスの肩を叩く。残念無念、また次回を乞うご期待。まぁ結果は分かり切っているが。
「床が嫌ならベックマンのベッドにでも行け」
「女ならともかく何でむさ苦しい男を。部屋に入れるのもごめんだ。今日は夜もあたたかいらしいからな、甲板で寝ろ」
「がっつり雨が降ってんだよなぁ、現在進行形で」
「なんならこれからもっと荒れるしたぶん嵐になる」
「海に落ちないようロープで縛るくらいはしてやるぜ」
「よし!おれは今日床で寝よう!
ユダ、久しぶりにしりとりでもしようぜ!」
「ヤソップ、あとで頑丈な猿轡取りに行くから用意しておいてくれ」
「うーんおれを巻き込まないでほしい、心から」
勝敗が決まりテーブル周りがやんややんやと騒がしさを増していく。そのさなかで盛り上がる面々に混ざるわけでもなく、イスに腰掛けた
ユダは近くにあった酒を一気に呷ると頬杖をついて己が出したカードを見下ろし、指先でこつりとKのカードを叩いた。俯いたせいで雪色の髪が秀麗な顔に影を落とす。カードを見下ろす、水でさらに薄めた薄墨を刷毛でひと塗りしたような、限りなく白に近い硬質な鋼の瞳が細められた。
(次があるなら
同じ肉体でも敗けはしないだろう。だが、おそらく心を折ることは難しい)
傭兵集団を滅ぼし、一番世話になった人間の首を斬り落として隠し、そうして一度は確かに粉々に砕いたと思ったのだが、折れて叩かれて愛されてより頑強になってしまった。まるで刀のように、叩けば叩くほど強度が増していくようで、厄介なことこの上ない。
しかも次とは言うが、再び航路を逆走するのも手間だ。確実な一手もない状態では逆効果になりそうだし、何よりもシャンクスをはじめとした赤髪海賊団のクルーは誰ひとり
ユダの行動に許可を出さない。今回のアラバスタ遠征も散々もめてシャンクスとあわや海を割る大喧嘩になりそうなところで互いに妥協した結果のあれで、もう一度を願ったところで全員が首を横に振ると分かっていた。
(……まぁ、あとは
ライアの方に任せるか)
自分にはもう何もないが、あの女は有効な一手を持っている。
心を壊すには至らないかもしれない。それでも揺らがせることはできるだろう。迷えば付け入る隙が生まれる。その隙からやわらかな心に刃を突き立てることができれば。
(殺したいわけじゃない。復讐をする理由など何もない)
ユダはただ、記憶ごとすべてを失くしたあの真っ白い人間を、その心を─── 壊してやりたいだけなのだから。
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