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 ざぁざぁと雨が降りしきる中、ハリーを定位置の右肩に乗せて時計台の入口に佇んでいたクオンは、バンッと勢いよく扉を開けて現れたビビを軽く振り返って目許を和らげた。


クオン…!」


 水分を多く含んで大きく揺れた瞳が秀麗な顔を雨に濡らしたクオンを映す。駆け寄ってきた少女をクオンは両腕を広げて迎え、勢いよく抱きついてきた彼女の背をゆっくりと撫でてやる。肩を震わせ、雨とは違う雫と小さな嗚咽をクオンの胸元にこぼす。すると、呼吸を落ち着かせる間もなくビビははっとして顔を上げた。


「そうだ、みんなは…!?どこに行ったの…?」


 クオンの腕の中で首をめぐらせ辺りを見回してみても求めた姿はどこにもない。クオンは静かに微笑んだままビビを離し、王女を見つめる国王軍の視線に気づかないふりをして「こちらに」と彼らが歩いていった方へと足を向ける。
 先導する方向が先程クロコダイルが飛び出してきた方角だと気づいたのだろう、ゆっくりと歩くクオンに焦れた様子でビビはついてきていたが、すぐにクオンの横を駆け抜けていった。目の前を走るその背を、やはりクオンは微笑んだまま見つめていた。






† アルバーナ 12 †





 麦わらの一味にはすぐに追いついた。手前にビビが、少し遠目に見慣れた彼らの後ろ姿と、少し距離をあけて相対する壮年の男がルフィを背負っているのも見える。あれは確か、ビビの父親でありこのアラバスタ王国の国王、コブラ。なぜルフィと共にいるのかは分からないが、ここまで運んできてくれたようだ。


「みんな!…パパ!?」


 ビビがゾロ達に追いついて呼びかけ、彼らの前にいる父親に気づいて目を瞠る。サンジはビビが目の前の男をパパと呼んだことで目を剥きビビちゃんのお父様!!?と叫んだ。ビビは父親にはあまり似ていないから分からなかったのも仕方がない。あんた国王か、とゾロが軽く目を瞠って呟いた。
 コブラがルフィを道の端に降ろして寝かせ、その寝顔を深い瞳で見つめながら言葉を落とす。


「一度は死ぬと覚悟したが…彼に救われたのだ」


 ようやく追いついたクオンがビビの横に立てば、ビビはルフィを見て頷くようにほのかな笑みを浮かべているのが見えた。
 コブラはルフィがクロコダイルとの戦いで毒を受けたものの、解毒剤を投与したから中和されているはずだと言い、だが怪我の手当てをしなければと続ける。君達もな、とひとりひとり顔を順に見て笑いかける王の目は優しい。姫様と同じ目ですね、とクオンはやわらかな微笑みを貼りつけながらどこか遠い意識で思った。その顔を、周囲に海軍がいないか気配を探っていたゾロが横目で見ていることには気づかずに。


「それよりビビ、早く行けよ」

「え?」

「広場へ戻れ」


 ふいにゾロが口を開いて宮前広場がある方角─── 自分達が歩いてきた方を一瞥する。そりゃそうだ、とウソップもまた腕を組んで頷いた。


「せっかく止まった国の反乱に…王や王女の言葉もなしじゃシマらねぇもんな」

「……ええ。だったらみんなのことも…」

「ビビちゃん、分かってんだろ?おれ達ぁフダツキだよ…国なんてもんに関わる気はねぇ」


 咥えた煙草に火を点けたサンジがにっと笑い、おれはハラがへったとチョッパーが舌を出し、勝手に宮殿へ行ってるわ、へとへとなのとナミが笑いかけて促す。
 この国を戦火で包み民を苦しめてきたのは王下七武海─── 政府公認の海賊だ。それを王女と協力した海賊が助けました、などと口にしてしまえばまた面倒なことになる。彼らの言い分はもっともだった。
 仲間の意を汲んでこくりと頷いたビビがコブラと共に身を翻そうとして、ふと傍らで見守っていた執事を振り返る。当然王女の執事として続こうとしたクオンは静かな瞳に見据えられて動きを止めた。きゅっと引き締まった王女の唇がゆっくりと開く。


クオン、あなたはここにいて」

「……姫様?」


 その言葉に、クオンは虚ろな微笑みを貼りつけたまま小さく首を傾げた。焦点の合わない鈍色の瞳が引き攣ったようにゆらめく。
 ビビの言葉に驚いたのは他の仲間も同じだった。いつだってクオンが傍にいて、いつだってクオンの傍にいたビビが、いつだってあふれんばかりの愛を注いできた大好きな執事について来るなと言ったのだから。だが目を瞠る面々の中でただ2人─── ゾロとコブラは静かに王女と執事のやり取りを眺めていた。


「みんなと一緒に宮殿に行ってて。ここからは大丈夫よ、パパがいるし、広場にはチャカもペルもいる。クオンがいなくても大丈夫だから」

「姫様」

「あなたには最後までお世話になりっぱなしだったわ。本当に感謝してる。そんなにひどい怪我をしてまで私を助けてくれてありがとう」

「姫様」

「私は王女だもの。あなたが認めてくれた、私に仕えると膝を折ってくれた唯一。だから、……だから私は、あなたなしで立たなきゃ」

「姫様!!!」


 続く言葉を遮るようにクオンが鋭い制止の声を上げた。美しい顔に貼りつけていた微笑みは完全に崩れ落ち、雨に濡れてなお輝きを保つ雪色の髪と同色の柳眉がきつく寄せられ眉間に深いしわが刻まれている。震える鈍色の瞳が睨むようにビビを見下ろしていた。
 ごひゅ、と濁った咳をしたクオンの口元に赤がにじみ、流れる雨が洗い落とす。それを心配そうに見るでもなく、ただただ真っ直ぐにクオンの目をひたと見つめ返すビビの強い意思が宿った揺るぎない瞳に、動揺したのはクオンの方だった。


「なぜ……」


 言いさし、言葉が続かなくてはくりと湿った空気を噛む。
 なぜ、いきなりそんなことを言うのだろう。なぜ、私を置いていこうとするのだろう。なぜ、傍らを願う私を振り払おうとするのだろう。


「私…私を……」


 目を見開き、呆然とクオンは言の葉をたどたどしく紡ごうとする。クオンのすべてを許してきたビビは、今己の傍らだけは許さないと強い眼差しで告げていて、それがひどく、胸を苦しくさせた。傷を負うよりも骨が折れて砕けるよりも、許されないことが何よりクオンの心を痛めつけて引きちぎる。目の前が真っ暗になり、絶望がひたひたと心を食い潰そうとしている。

 最初にクオンを欲したのはビビだった。胸を満たしていた愛を失い壊れかけて渇いた心に新たな愛を注ぎ込んだのはビビだった。傍にあることを望まれて、頷いて、クオンもまた彼女の傍を望んで、そして頷いてくれたのではなかったのか。ビビの愛は確かに真実だった。なのに、どうして。


「私を───、捨てるのですか」


 言葉にすれば絶望がいっそう深くなる。喉の奥が苦しい。目の奥が熱い。呼吸が浅くなって心臓が軋んでひどい痛みを訴え、胸元を強く握り締めた。嫌だ嫌だと騒ぐ心が子供のように駄々をこねて、絞り出した言葉に頷かれることに恐怖する。
 秀麗な顔からは完全に血の気が引き、怯えて震える鈍色の瞳が大きく目を見開くビビを映す。もし、頷かれたら─── 私は、このひとを。
 無意識に腕を上げようとしたクオンは、ぐしゃりと顔をくしゃくしゃにさせたビビに動きを止めた。
 ビビの美しい瞳に涙が浮かび、口元は引き攣って今にも泣き出しそうだ。抑え込んでいた感情を堰を切ったように表に出したビビが腕を伸ばしてクオンの頭を抱え込み、細い肩に押しつけぎゅうぎゅうと抱きしめながら叫ぶ。


「捨てるわけないじゃない…!!誰にもあげない!私のよ、私だけのクオンなのに!!」

「───、……」

「好きよ、大好きよ、愛してるわ!ずっと私の傍にいてほしい!!いてくれなきゃ嫌!!でも、でも…!それじゃダメなの、もうダメなのよ……!」


 何がダメなのだろう。どうしてビビの傍にいることは許されないのだろう。クオンがいいと言っているのに、ビビもそれを望んでいるのに、なんでダメなんだろう。
 震える肩に頬を押しつけながら、クオンはぼんやりと幼げに思う。分からない。分かりたくない。もう何も考えたくない。頭が回らない。いたい、つかれた、からだがおもい。

 紗のかかる真っ白な頭で、クオンはただ離れたくない一心で縋るように腕を持ち上げるが、その手がビビの背に触れるより先にビビの手がクオンの両肩を掴んで引き離された。ぬくもりが雨に冷やされていく。いやだ、と思ったけれど、クオンの口は何の音も発することはなかった。


「……ここにいて、クオン。みんなと一緒にいて。私、行かなくちゃ。…今あなたを連れて行ったら…私は、きっとあなたなしじゃ立てなくなる」


 ほのかに笑うビビは、泣いているのだろうか。分からない。雨のせいで泣いているのか分からない。泣いているのならその涙を拭いたいのに、腕がもう持ち上がらない。
 クオンの肩から手を離したビビは背を向け、それきり振り返ることなく父と共に通りの向こうへと消えていった。

 呆然と立ち竦み、ビビを見送ることしかできなかったクオンの体がふいにかくんと沈んだ。膝が砕けて音もなく倒れ込むのを予測していたように後ろから伸びた腕が支え、固く瞼を閉ざした青白い顔を降りしきる雨が叩く。

 完全に気を失ったクオンを抱えたゾロが細く息を吐いて建物の壁に背をつけ、そのままずるりと腰を滑り落とす。腰に差していた三本の刀を抜いて片腕に抱え込んだ。
 ほぼ同時に、ビビの前で張っていた気がゆるんだのだろう、煙草を咥えていたサンジがふらりと体を傾がせて地面に倒れ込み、ナミ、チョッパー、ウソップもまたそれぞれ意識を落として倒れ込んだ。
 ゾロは何とかぎりぎりのところで意識を保ちながら、それでもすぐに自分もまた気を失うだろうと分かって目だけを動かすと刀とは逆の腕に抱えたクオンの肩に乗るハリーを見下ろす。


「ハリー……悪ぃ、海軍が、来たら……」


 先程気配を探ったけれど、こちらに集まって来る様子はなかった。おそらくはクロコダイルの方に向かっていて、しかしそのあとにこっちへ来るかもしれない。なにせ自分達は海賊なので、その存在を知っているはずの海軍が見逃す道理がない。ああ、けれど、海兵が時計台まで道案内をしてくれたのは何でなのか、疑問が一瞬浮かんでは沈んで消える。
 ここで気を失うのは危ういと分かってはいるが、体は既に限界だ。一度気がゆるんでしまったら限界まで酷使した体は容赦なく休息を求め、襲いくる睡魔に抗うことは難しい。

 唯一動けるハリーがしっかりと頷くのを見て、細く息を吐いたゾロはクオンの腰に回した腕に力をこめて引き寄せ、濡れた雪色の髪に己のこめかみを押しつけた。
 海軍は雪狗という二つ名を冠する海兵を捜している。雪色の髪、鋼の瞳、美しい顔を持つ、クオンという名の人間を。レインベースで生かしたスモーカーからクオンの情報は既に上層部へと伝えられているはずで、ならばこれから海軍は目の色を変えてクオンを狙って来るだろう。だがルフィは絶対にクオンを手放さないし、海軍にも渡さない。それはゾロもハリーも他の仲間も同じ気持ちだ。そしてそれは、─── ビビも。


「りーぃ、きゅきゅはりり」


 大丈夫だから気にせず寝てろと言うようなハリーの声が雨音に混じって耳朶を打つ。ハリーはクオンの相棒だ、頼れる仲間であり、だから任せても大丈夫だろう。
 クオンは渡さない。触れようとしたら誰だろうが斬る。薄れゆく意識の中、固く魂に刻んだ想いに応えるように、抱えた一本の妖刀が震えた。





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