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 急げ急げと声をかけながらウソップは息を切らすビビを見て、次に時折濁った呼吸をこぼし青白く血の気を引かせた秀麗な顔に苦痛をにじませながら駆けるクオンを見た。
 クオンはもう限界だ。誰がどう見たって満身創痍で、普段なら造作もなく人間2人担いで町一周をものすごいスピードで駆け回れるだろう執事はほんの僅かな時間2人を担いで走っただけで倒れ込んでしまった。今気絶していない方がどうかしているとウソップは思う。だが休んでくれとは言えなかった。あと2分、砲撃を止めるまでは。

 ひた走る傍らで重い爆発音が轟き、服装からして反乱軍のひとりが血を流して倒れ込む。アラバスタ王国の民が傷つき倒れ込むさまを目にしたビビが思わず足がゆるめそうになったのを、ウソップは「バカ、よそ見するな!」とビビの頭を掴んで前を向かせ叱咤した。
 砲撃が止まらなかったら、被害はこんなものではない。広場にいる全員が死んでしまう。祈ったって砲撃は止まらない。おれ達が止めるしかないんだ。苦しげに頷くビビに優しい言葉をかけられない自分がもどかしく、大丈夫だ何とかなるさと励ますこともできなかった。いつもなら率先してビビに「私が何とかします」と微笑むクオンはもう走ることが精一杯で、ハリーはクオンの肩の上で心配そうに相棒を見上げて寄り添っている。
 いつだってウソップは強くて優しいクオンを頼るけれど、今だって自分を護ってほしいし絶望的な状況をどうにかしてほしいと思っているけれど、今この場で、それができない執事がいっとう大事にしている王女を奮い立たせることができるのは自分だけだと分かっていた。


「2分後のおれ達は死体か!!勝者か!!!まだ1分半ある!!!」

「うん!!」

「みんないる!!!」

「うん!!!」


 諦めるな。絶望するな。まだ間に合う。まだ止められる。クロコダイルはルフィが倒す。国は救える。
 顔を上げて真っ直ぐ前を向くビビとウソップの横顔を、クオンは静かな眼差しで眺め、ゆるりと口の端をやわらげて笑みを刷いた。






† アルバーナ 9 †





 クオンはぎりぎりのところで意識を保たせていた。霞む視界、血が足りず鈍い頭痛に侵された思考、耳鳴りはやまず、鼻は呑み下した血の臭いの残滓を追っている。痛み止めは追加せず息をするだけで走る痛みで意識を繋げ、折れた足を無理やり動かしながらただただ駆けていた。
 ここで気を失うわけにはいかない。砲撃を止めて、戦争を止めて、真実を明らかにして─── すべてを奪われかけた王に、国を還さなければ。そして王女を家に、帰すまでは。

 ビビが指定した時計台前、ふいに砂塵を掻き分けて現れたチョッパーに乗ったナミが3人の名を呼ぶ。何か話しているようだがうまく頭に残らず、ビビの声すら通り過ぎていく耳に内心で舌を打った。
 ゆっくりとかぶりを振って呼吸を整え、砲撃手は間違いなくあの時計台の中にいると指差して叫ぶビビの声を拾って小さく息をつく。
 その場にいる全員の視線が聳え立つ時計台の文字盤へと注がれ、クオンもまた地上の様子を意に介さず秒針を刻む時計台を睨んだ。─── 午後4時30分まで、残り1分。

 時計台を見上げて微動だにしないクオンをよそに、ナミは場所は判っても1分じゃあんなところまで登れないとビビに言い、ビビもまたペルさえ来てくれればと一旦別行動となった戦士の姿が見えないことに不安をにじませる。
 ペルがいないのならば階段で行くしかない。入口はとウソップが口にしようとした問いは、ふいに大きく声を上げて注意を集め、嬉しそうにナミとビビの名を呼んだサンジに遮られた。

 サンジがいる場所は、時計台の土台でもある4階建ての建物の3階部分だ。どうやらウソップが煙の信号の下に残した「時計台」というメッセージを見て登ったらしい。
 サンジを見上げていたクオンは、ふと時計台の足元でもある屋上に人影を見て瞬いた。その正体はゾロで、こちらに気づいたゾロは足を止めて「捜したぞお前ら!」と見下ろしてくる。そしてどうやら彼はメッセージを見てここに来たわけではなく、町で会った海兵に北へ行けと言われてひとまずここに登ったらしい。「北」と「上」は全然違うのだが、合流できたのだから細かいことは気にしないことにしよう。クオンにはもう深く考えるだけの思考能力がなかった。

 とにもかくにも、そこまで辿り着いたのなら一番時計台の文字盤に近いゾロに上へ行ってもらい砲撃手を倒してもらうのが最善か。ウソップも同様のことを口にして、しかし建物の構造に詳しいビビが静かに「ダメ…」と否定する。


「2人の位置からじゃ、時計台の中へは入れない。あそこへ行くには1階の奥にある階段が唯一の到達手段なの」


 クオンは目を見開いた。既にタイムリミットを1分切っている。今から登るのは現実的ではない。ゾロに塔の壁を壊してもらったとして、砲弾が衝撃に耐えられるとも思えなかった。
 やっぱり階段から行くしか、と時計台へと駆け出すナミを、「待ってビビ!!」とナミが止める。いい考えがある、と。


 ─── 砲撃まで、残り30秒。


 そのとき、ふいに時計台の文字盤が動いた。ガコンと重い音を立てて文字盤が外側へと開いていく。そしてあらわになった巨大な砲台と、その前に立つ男女。宮前広場への砲撃を命じられた、バロックワークスのエージェントだ。確かあの奇妙な外見はMr.7とミス・ファーザーズデイ。ビビの顔馴染みだ。
 クオンは目標を視界に入れた。鈍い思考が軋みを立てて回転する。あの2人を排除し、砲撃を止める。可能か否か。答えは出すまでもない。「やる」のだ。この命に代えてでも。
 温度をなくした鈍色の瞳で敵を見据え、針を構えてナミの「いい考え」を待つまでもなく踏み出しかけたクオンはしかし、その足を動かすことができずにつんのめった。はっとして足元を見下ろせば、ハリネズミが1匹、クオンの両足を青白い針で貫いていて。


「……ハリー?」


 信じられない思いで相棒の名を呼ぶ。地中に至るほど深くクオンの足を凍針こごばりで刺し、ぱきぱきと氷の手を広げて地面に縫いとめたハリーは凍ったクオンの足に縋りついた。ふるふると小刻みに小さな首が左右に振られ、行くなと言外に示すハリーをクオンは呆然と見下ろす。

 相棒を裏切るような真似をしてでもクオンを止めたハリーを見て、ナミは彼の意を汲んでクオンをそのまま地上に留め置くことを決めた。すぐさまビビ達に顔を向けて指示を出す。
 地面と平行になるよう体を屈めて両手を広げさせたウソップの上にはチョッパー、その上にビビ。建物にいるサンジとゾロにはそこから動かないようにと言って、計算しながら天候棒クリマ・タクトを握り締めた。意味の分からない体勢を取らされたウソップが訳が分からず声を上げるが即座に切り捨て、やれば分かるからと一発勝負に打って出る。


「サイクロン=テンポ!」


 ナミの鋭い声に、弾かれたように顔を上げたクオンは天候棒の一部が奇妙な体勢を取ったウソップの下─── 正確には股間に潜り込むのを見た。狙いすまされた棒は外れることなくウソップの大切な部分を殴打しカァン!と音が鳴って、思わず正気か!?と言わんばかりの顔をナミに向ければ、鬼畜な所業を躊躇いなく実行した魔女は大変な真顔だった。はりゅぁ……と同情するようなハリーの声が聞こえ、相棒に凍針を刺されて足止めされている現状を一瞬忘れて頷く。
 ウソップの悲劇はそれで終わらず、股間、もとい体の下で風の塊が唐突に弾けて3人が空へと浮き上がった。真っ直ぐサンジのもとに向かうが、さすがに距離が足りない。勢いが完全に落ちる前にナミがチョッパーへサンジのところまでジャンプするよう叫び、クオンはそこでナミの考えを悟った。つまりは、このまま飛んで上まで登れということだ。
 困惑する中、迷う時間もない。やるしかねぇか!と気合いを入れてサンジが窓から身を乗り出し、それを見てチョッパーが土台となったウソップを容赦なく踏んづけて跳ぶ。役目を終えて真っ逆さまに落ちてくるウソップを、クオンはさすがに不憫に思った。

 おもむろに左手を翳し、落ちてくるウソップが地面に叩きつけられる前に空中で止める。が、それもほんの一瞬で、しかしできるだけ地上に近い地点で止めたためウソップは顔から地面に叩きつけられて「ぶべ!!」と濁った悲鳴を上げたがすぐさま上体を起こしてビビ達を見上げた。「あ…あ゛りがとう……」と弱々しくもしっかりお礼を言われて笑みを返す。

 クオンは短く息を吐くとビビ達を眺めた。サンジがチョッパーの背に乗ったビビをチョッパーごと上へと蹴り上げ、これなら間に合いそうだと肩の力を抜く。真っ直ぐゾロのもとへと飛ばしたサンジを見上げて流石とナミが称賛して、クオンも素晴らしいと拍手をし、あとはゾロに任せればいいかと地上に落ちてくるサンジと砲台までビビ達を飛ばしたあとに落ちてくるだろうゾロを受けとめるために真っ赤に染まる左手を掲げた。

 砲台前に立ったエージェントが大声でカウントダウンを始める。分かりやすくていい。残り10秒。

 二本の刀を抜いたゾロが屋上から飛び出し、峰に乗るようチョッパーに指示を出す。そしてさらに上へと吹き飛ばそうとした、そのとき。


「オホホ!!ミス・ウェ~~~ンズデイ!!」

「ゲロゲロ!!あたし知ってんの!!アイツ我が社の裏切り者よ!!」


 気づかれた。
 妙な髪形に妙な形の眉をした糸目の男と、カエルの被り物をした全体的にカエルっぽい女。仕留めるか。針を構えたクオンだが、ここから確実に貫くには距離があきすぎている。さらに言えばチョッパーを上空へ打ち上げる構えを取ったゾロの体が邪魔だ。
 銃を構える2人は狙撃手ペアだとビビは叫ぶ。空中では身動きができず、放たれた銃弾は過たず命中するだろう。


「チョッパー!!とにかく打ち上げる!!方向を変えるからあとはお前が何とかしろ!!」


 刀を構えたゾロが言い、突然の大役が降ってきたことにチョッパーがうろたえるも、迷う暇などありはしない。チョッパーはすぐに覚悟を決めた眼差しで敵を見据えた。
 あと7秒よ!とナミが言い、ウソップが何とかしやがれぇ~~~!!!と叫ぶ。Mr.7ペアが同時に銃の引き金を引くのと、ゾロがチョッパーを打ち上げるのは同時だった。

 クオンは針を放った。Mr.7ペアの銃弾は互いに衝突し破裂する。ならばゾロに迫る2つの弾は、必ずひとつとなって着弾するのだ。
 放った針はゾロの顔の脇をすり抜けて重なった銃弾を貫き、そして甲高い音を立てて破裂した。チョッパーを打ち上げた体勢のまま、隙だらけな体への着弾を覚悟したゾロが目を見開く。


「「ゾロ!!」」


 下からでは針に防がれたことは判らず、クオンの動きを見ていなかったナミとウソップがゾロが撃たれたと勘違いして叫び、クオンは大丈夫ですよと声をかけようとして、代わりに少しの血を吐いた。
 Mr.7ペアもゾロを撃ち取ったと勘違いしたようで、すぐさまその銃口をチョッパーに向ける。だがそのときにはチョッパーは既にビビを時計台へと向かって思い切り投げていたあとだった。人型に体を大きくしていたチョッパーが、自分へ放たれた銃弾を小さなトナカイへと戻ることで躱す。そんな回避をされるとは思わず驚愕したMr.7ペアの気がトナカイに逸れ、ビビを見失った。


 ─── 4秒前。


 しかし腐ってもナンバーエージェント。すぐにビビが上から勢いよく降ってくるのを見つけて再び銃を構えた。
 ビビが空中で両手の小指につけた孔雀一連クジャッキーストリングスラッシャーを構えるのと、手をひらめかせたクオンが針を2本飛ばすのは同時だった。

 ビビのスラッシャーで薙ぎ払う攻撃をMr.7ペアは屈むことで避けた。それに顔色を変えるナミとウソップの横で、クオンは表情を変えることなく能力を発動して落ちてきたサンジを地面に叩きつけられる前に止めた。しかしそれもやはり一瞬、だが落下ダメージを限りなく削がれたことでサンジはすぐに身を起こすと短くクオンに礼を言ってビビを見上げる。

 Mr.7ペアがビビの攻撃を躱し、自分達の間に降り立った王女へ向けて左右から銃口を向け─── その銃は、下から飛来した針に弾かれた。
 突然手の中からすっぽ抜けた銃に驚愕するMr.7ペアを、ビビが手首を返して戻ってきたスラッシャーが薙ぐ。避けることもできずにもろに食らった2人が時計台から落ちてくるのをクオンは無感動に眺めた。


 残り1秒。


 秒針がⅫの文字を指し示す。

 午後4時30分。



 ─── 砲弾は、放たれなかった。



「……止まったのか…!?」


 爆破しない様子を見て呆然とウソップが呟き、クオンは僅かに目を細めて落ちてくるゾロを視界に入れると能力を使おうとして、


「やめろクオン!!!」


 鋭い制止に肩を震わせた。
 ドゴォン!!と重い音を立ててクオンを止めたゾロが背中から地面に落ちた。ウゴ!!と鈍い呻きを上げたが針でふさがれた傷は開くほどではなく、痛そうにしながらげほりと空気の塊を吐く。何だ生きてたのか、とサンジがゾロを見下ろして言い、先程敵の銃弾が当たったはずなのにその様子がないことに目を瞠る。すぐさま上体を起こしたゾロがクオンを睨み上げた。


「てめぇ、能力を使いすぎだ。あいつらの弾も途中で止めやがったな。傷が開いてんだろうが、やめろ」

「……、……」


 クオンが悪魔の実の能力を使えば使うほど反動でダメージを負うという事実をゾロは知るはずがないが、白い燕尾服を汚す赤が範囲を広げていることと、止まっていたはずの額の傷が再び開いて赤い筋を秀麗な顔に描いていることから能力の使用には多少の負担がかかると分かってしまったようだ。
 これくらいじゃどうともなりゃしねぇ、と相当な落下ダメージを食らったはずのゾロに言い切られ、左手からあふれる鮮血で左腕を赤く染めたクオンがゆっくりと腕を下ろす。よし、とゾロが息を吐き、そのまま捕まえてろよとクオンの足に縋るハリーに言葉を落とした。

 と、目の前にMr.7ペアが落ちてきて石畳の地面にめり込んで埋まる。完全に気絶している2人を誰も一瞥することなく時計台を見上げ、ふいにおかしいわねとナミが声を上げた。クオンもまた時計台を見上げて凝らすように目を細める。


「姫様…?」


 無事やり遂げたことに満面の笑みを見せてもいいのに、砲撃を止めたはずのビビが顔を出さない。何かあったのか。
 そこに、塵旋風を掻き分けてチョッパーが戻って来た。なぜか大きなたんこぶをこしらえているがそれ以外に目立った外傷はなく、チョッパーは黙って時計台を見上げる仲間に訝りどうしたんだ?と声をかける。上の様子がおかしいんだと、とゾロが答え、ビビが顔を出さないのとナミが返す。

 ─── 嫌な予感がする。

 いまだ顔を出さないビビを待ちながら、クオンはぱたぱたと赤い雫を滴らせる左手を固く握り締めた。





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