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 ─── ぴしり。


「あ」


 唐突に“ひび”が入った感覚に、女は思わず小さな声を上げた。
 目を眇めて首を傾け、戻し、唇に指を当てて小さく唸る。


「……肉体からだを先に壊されちゃ、本末転倒なんだけどな~」






† アルバーナ 6 †





 ゆらゆら、ゆらゆら。体が揺れる感覚に沈んでいた意識を浮上させたクオンは重い瞼を薄く開いた。
 地面が揺れている。思って、鈍い思考がやんわりと否定を入れた。既に慣れ親しんでしまった体温の持ち主に背負われていることに小さく息をつく。


「……私は、あなたに背負われてばかりですね」

「てめぇがぶっ倒れるまで無茶するからな」

「返す言葉がありません」


 苦い笑みを口の端に浮かべ、目を伏せたクオンが謝罪を口にしようとすればそれを読んだように「謝んなよ」と鋭い声音に制された。


「おれは別に嫌がっちゃいねぇよ、嫌ならそのときに叩き起こしてる。迷惑だとか面倒だとも思ってねぇから変に気負う必要もねぇ」

「…………あなたも随分、私に甘いことで」

「自覚があるなら何よりだ」


 鼻を鳴らして笑うゾロの肩口に額を押しつけ、ゆっくりと息を吸う。麻酔が切れてきたせいか全身を刺し貫くような痛みが苛むが、鼻孔をくすぐる男のにおいに気が紛れた。汗と鉄と血のにおいはお世辞にも良い香りだとは言い難く、しかしレインベースでは淀みなく軽快だった男の足取りがいささか重く鈍いことを併せて考えればゾロもまた死闘を繰り広げてきたことは想像に容易く、その上でクオンを背負い駆ける男に不快感など抱くはずもない。
 ゾロを甘いと評したクオンは、しかしそれに甘えている自覚はあった。甘えを許してくれるのだから仕方がない。


(─── 本当に、あなたはどこまで私を許すのでしょうか)


 ふと、いつだったか、あの酔っ払った夜にゾロに向けて己が口にした言葉を思い出した。
 小さく笑みをこぼして肩から額を離す。倒れた自分をゾロが背負っているということはハリーが呼んできてくれたのだろう。随分と心配をかけさせてしまったのは明らかで、クオンは最近のお気に入りであるゾロの頭に乗っているだろうハリーを見上げるために目線を上げた。


「ハリー、あなたが剣士殿を呼んできてくれたのですか?……ハリー?」


 しかし、そこに思い描いていたハリネズミの姿はなく。当然自分の肩にもいない。目を瞬かせてのろりと辺りに視線をめぐらせ、そういえばナミの姿もないことに気づく。


「剣士殿、ハリーと航海士殿はどちらに?」

「あ?ああ、さっきまで一緒にいたんだが、ちょっと目を離した隙にいなくなりやがった。けどまぁ、宮殿に向かってりゃ合流すんだろ」


 なんてことないように答えるゾロの声音は仕方のねぇ奴らだと言いたげで、だが焦った様子は見られない。どうやらナミの方も無事なようだ。とはいえ、バロックワークスのひとりを相手にしたのだから、ナミの方も無傷というわけにはいかないだろうが。
 それでも、とりあえず安心はしていいらしい。ほっと安堵の息をついて再びゾロの肩に頭を預け、揺れる地面をぼんやりと眺めるクオンはこのとき、気づいてはいなかった。

 ひとつ、ひたすらに駆けるゾロは宮殿のある方角─── 北へ向かっていないこと。
 ふたつ、反乱軍と国王軍が入り乱れているわけでもない通りでふたりとはぐれる道理がないこと。
 みっつ、先程から突如進行方向を直角に曲げたかと思えば次の十字路でまた直角に曲がることを繰り返していること。

 血が足りず意識は霞み、さらに無視できない痛みに苛まれた頭では冷静に状況把握などできるはずもなく。またゾロの体温があたたかく安心できるものだから、元より素直な性格なのもあって信頼する仲間の言葉に疑問を持つこともない。少なくとも宮殿まではこのまま運んでくれそうだからそれに甘えることにしたクオンは休息を求めてすべての思考回路を停止させていて、それゆえにゾロの壊滅的方向音痴には気づかぬまま少しでも体力を回復させるために瞼を落とす。
 眠ります、とは言わなかった。言わずともゾロは背負ったクオンを落とすことはないし、眠りに落ちたことを察して揺れが大きくなりすぎないよう器用に走ってくれる。それを疑わないクオンは、やっぱり甘いですねとゾロを評して、獣が頭をすり寄せるように肩に懐き、ゾロの耳で揺れる三連ピアスが小さく立てた音を聞くと同時に意識を落とした。






 ぜ、と濁った寝息を時折混ぜるクオンを背負い直し、たぶんこっちだろ、とまったく根拠のない自信を元にひた走っていたゾロは、ふいに道の角から飛び出してきた人間に気づいて足を止めた。


「いた!!!ゾロ、あんたどこ行ってたのよ!!」

「あァ?どっか行ってたのはお前らだろ」


 クオンが着ていた白いマントを抱え、眦を吊り上げて怒鳴るナミに目を眇めて返したゾロを、ナミの頭に乗っているハリーがぽかんと口を開けて呆然と見つめる。
 言っておくが、はぐれたのは間違いなくゾロである。先行していたハリーを追い抜いたかと思えば急に90度折れ曲がって通りから消え、慌てて後を追おうとするも既にその姿はどこにもなく、おろおろと辺りを見回すハリーの後ろでナミはぶるぶると固めた拳を震わせたのち、ハリーを引っ掴んで頭に乗せると鬼の表情でゾロを捜し回ったのだった。
 そうしてようやく見つけたゾロは己がはぐれた自覚は皆無の様子で、嘘だろお前、とハリーはつぶらな瞳に愕然とした色をにじませて雄弁に語っていたが、怒りのままごすごすと天候棒クリマ・タクトでゾロの腹を突くナミにやめろ痛ぇだろうが!と気持ち小声で怒鳴るゾロはハリーの様子に気づかない。


「まったく!ゾロだけならともかく、今はクオンがいるんだからね。何もなかったみたいだからいいけど、はぐれたときにクオンに何かあったら許さなかったわよ!!」

「おれがンなヘマするか。クオンを狙う奴がいても全部ぶった斬りゃいい」

「それは当然そう!でも私も危ないでしょうが!こちとら怪我してるうら若きか弱い乙女なんだからね!?」


 あんたそこんとこちゃんと分かってる!?と今度は指で額をどすどす突いてくるナミの剣幕に押されて何も言えずにのけぞるゾロにナミは深いため息をついてくすぶる怒りをおさめた。いつまでもここで怒鳴り散らしているわけにはいかないのだ。早く宮殿へ行って仲間と合流しなければならない。あとウソップは一発殴る、絶対にだ。
 天候棒を強く握り締めたナミは「行くわよ!」とハリーの応急処置を受けた足を返すと宮殿へ向けて駆け出した。ナミの頭に乗っていたハリーがひょいとゾロの頭に飛び移り、はりぃきゅありと何やら鳴いている。何を言っているのかは分からないが、またはぐれないよう見張ってくれるらしいことは分かった。ならばあとはハリーに任せ、ナミは逸る心を抑えてひたすらに前を駆ける。
 揺れるオレンジ髪をちらと見て、ハリーはゾロに背負われているクオンを見下ろすと小さな鳴き声を落とした。


「はり……」

「大丈夫だ、一度目を覚ました」

「きゅぅ……」

「こいつの強さはお前が一番よく知ってんだろ」

「はりーぃ」

「おっと、こっちか」


 なぜか通訳ことチョッパーなしで会話を成立させながら、寝息を立てるクオンを心配そうに見下ろしていたハリーはまたもや直角に曲がりそうになったゾロの頭を小さな手で挟むとぐるりとナミの方へ戻して進行方向を修正させた。
 特異な能力に加えて普通のハリネズミにあらざる膂力に、流石はクオンの相棒だなとゾロは内心ひとりごちる。クオンが麦わらの一味に心を開き距離を縮めるのに合わせて己の情報を開示していったように、ハリーもまた己の固有能力を少しずつ明らかにしている。
 クオンの右肩が定位置でビビとカルー以外には近寄ることすらしなかったハリーは最近ではルフィをはじめゾロやナミの頭に乗ることもあって、ウソップに人間の指など容易く噛みちぎる牙を剥いて威嚇していた頃と比べれば雲泥の差だ。それはクオンも同様だが。


(随分と懐かれたもんだな)


 奇妙な被り物をして飄々とした態度を崩さず得体の知れなかった真っ白執事は、今素顔を晒し自分の背中で寝息を立てている。先程のナミとのやり取りにも目を覚ます様子はなく、つまりは自分達に完全に気を許しているということだ。
 中でも特に許されている方だと、ゾロは客観的に見ても思う。意外にも一度心を開いたらぐいぐい距離を詰めてくる方であったらしいクオンのやることなすことを許容し一切の拒絶も否定もしなかったためだということは何となく分かる。
 おそらくクオンは自分が許されただけ相手を許す人間であり、無意識かそれを相手にも求めている。そうして生きてきて、そうあることを許されてきた。それを何と言うのかゾロは知っている。ビビが惜しみなく熱く重く深く与え、クオンがひとつたりともこぼすことなく受けとめて同じだけ返すもの。


「ハリー」

「きゅ?」

「てめぇの相棒は、厄介が過ぎる」


 愚痴のような恨み言のような諦めのような、いっそ称賛すらこめたゾロの呟きにハリーは何も返さず、同情するようにぽふぽふと小さな両手でゾロの髪を叩いた。
 背負った人間の体温は低い。額の傷は完全に開き、あちこち怪我をしているから血を流しすぎたのだろう。特に左手と右肩がひどく、ハリーが針で傷を塞いでいるが早くチョッパーに見せた方がいい。それでも人としてのぬくもりは確かにあって、密かに安堵したゾロは、「体温が高い」とクオンが言った己の熱が移って同じになればいいと思いながらクオンの折れた脚に障らないよう支える腕に力をこめた。





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