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 南西門に近い一画で大きな火柱が天を衝いた。轟音が周囲を震わせ、駆け抜けた衝撃がびりびりと建物を大きく揺らす。
 紅蓮の炎が乾いた砂の空気を燃やしてゆっくりと鎮まっていくのを、そのときばかりは誰もが戦うことも忘れて呆然と見届けた。


クオン……」


 国王軍と共に宮殿への道を駆けていたビビもまたその光景に足を止めて小さく己の執事の名を呼ぶ。火柱の下で戦っている美しい人を思ってぐっと拳を握ると再び駆け出し、目の前に聳える、慣れ親しんだ宮殿へとひたすらに急いだ。





† アルバーナ 5 †





 ぺちちちちちちちち、と頬を叩かれる感触に意識が浮上して、ぼんやりと瞼を押し上げたクオンは自分が気を失っていたことを知った。
 ぺちちち、ゆさゆさ、ぺちちちちち、ゆさゆさ、きゅっきゅぅいはりゃ!小さな両手で頬を叩いて小刻みに体を揺らし耳元で鳴いてクオンを起こしていた己の相棒がまた頬を叩くのを、血で真っ赤に染まった左手を伸ばして止める。ハリー、と掠れた声で名を呼べば、つぶらな瞳を大きく見開いたハリーは涙を浮かべ、しかし雫をこぼさないようにたえるとクオンの首元に縋りつく。燕尾服の袖で血を拭い針をたたんだ小さな背中を撫でた。

 いつも乗せていた右肩は負傷しているため左肩にハリーを乗せ、ゆっくりと体を起こす。立ち上がるだけで全身が軋んで悲鳴を上げたが、まだ麻酔が残っているのか痛みは然程感じなかった。無意識に使った左手も動いたから、完全に潰れてはいないようで安心する。
 触覚は鈍いが確かにあり、耳を澄ませばぱちぱちと炎がくすぶり爆ぜる音と、乾いた空気を震わせる国王軍と反乱軍の怒号が耳朶を打つ。舌で唇を舐めれば血の味がして、すんと鼻で息を吸えば砂が焼けるにおいがした。
 五感を確かめ、鈍色の瞳で正面を見据える。どれだけ気を失っていたのかは分からないが、離れた場所でいまだ炎がくすぶっているからそれほど時間は経っていないのだろう。
 一歩一歩を慎重に歩き、その中心に仰向けに転がる男を視界に収めた。

 爆発の直前、己の全力をもってその場を離れたが、それでも中心部近くにいたクオンは衝撃と熱波をもろに食らって吹き飛ばされた。目の前が炎に染まったのを最後に記憶が途切れている。燕尾服はあちこちが焦げて片方の尾がもがれているが、多少のダメージと火傷を負ったものの肉体に欠損はないので上々だ。重傷の左手と右肩も潰れていないのは幸運だった。

 折れた脚を引きずりながらユダに近づく。クオンの肩の上で警戒するようにハリーが背中の針を逆立てた。
 爆発の中心部は黒く焼け焦げ、炎がくすぶるそこに横たわり微動だにしない男もまた、クオンに劣らずぼろぼろだった。
 全身を貫いた針はほとんどが燃えたか砕けたかしたのだろう、焼けて爛れた褐色の肌に刺さる針はなく、傷痕が焼かれて塞がされたためか僅かに血に濡れている程度。ユダの顔の上半分を覆っていたゴーグルには大きなひびが幾筋も入り、少しの衝撃でレンズが砕けるのが分かる。身にまとった服もあちこちが焦げてぼろ布のようだ。投げ出された四肢はぴくりとも動かず、力なく開かれた左手の傍に赤い柄の槍が転がっている。
 よく見ないと分からないほど浅い呼吸を繰り返す胸元を暫くじっと見ていたクオンがおもむろに北の方角へ顔を向け、重心を僅かに移動させて足を踏み出そうとした、そのとき。


「とどめを刺さないのか」


 熱波に喉を焼かれたか、低くざらつき掠れた声がかかる。クオンは波一つ立たない鈍色の瞳でユダを見下ろした。そのまま無言で答えないクオンへ体を起こすこともできない敗者の男はさらに言い募る。


「仇を討たないのか。お前にはその権利が、ある」

「復讐をしろと?くだらない」


 クオンは鼻を鳴らして一蹴した。ユダがカオナシの一族を滅ぼしたからといって、なぜ復讐などしなければならないのか。
 衝撃の事実を聞かされたときに激昂したクオンの姿はそこにはなく、強い意志に満ちた鈍色の瞳に不穏な翳りもまた、なかった。


「彼らは傭兵です。寿命で死ぬか、誰かに殺されるか……どうであれ、恨むことなく結果を受け入れたでしょう」


 カオナシの一族は傭兵集団で、別の生き方を模索する選択肢を放棄してそういう生き方をしてきたのだから、どういう死に方でも文句を言うはずがない。クオンの知る彼らはそうだった。クオンを愛した彼らが思うことは、ただのひとつ。


「私に『生きろ』と言ったのです。私だけを確実に生かす道を選んだ。そして心から私を愛してくれた彼らは私の健やかな生を願って死んでいった。ならば私は、そうしなければならない」


 それでもいまだに無音の闇は恐ろしく、記憶ごと何もかもを失くしたクオンに寄り添って愛してくれた彼らがいないことを寂しく思うけれど、だからといつまでもじめじめうじうじとはしていられない。そのうち時間と共に悲痛な記憶の傷が癒えるのを待ちつつ気を逸らしてやり過ごすしかないと割り切った。
 愛してくれた彼らに報いるために。そして今も、あふれんばかりの愛をくれるビビに応えるために、クオンは笑う。クオンを仲間と呼んでくれた麦わらの一味に違わないために、クオンはその針を振るうべき先を間違わない。


「勝負がついたのなら私は先に行きます。あなたは暫く動けないでしょうし、すべてが片付いたあとに海軍に捕まってくださればそれでいい」

「……おれは、お前を壊すことを諦めない。お前のすべてを…奪うまで…」


 呪うように低く呻くユダに目を細め、クオンはやはりきれいに、そして不敵に笑った。


「いいでしょう。何度だって受けて立ちますとも、何度だって返り討ちにしてやります。どちらが先に諦めるか、勝負ですね」


 ユダは転がったままクオンを見上げ、苛立ちもあらわに舌を打つ。


「お前の鋼メンタルは…本当に、厄介、だ…」


 怨嗟じみたぼやきは低くほどけ、意識を落としたユダから視線を外したクオンは焼けた砂を踏みしめながら王宮のある北へと足を踏み出した。折れた脚を引きずり、軋む体を動かして歩を進める。
 暫く歩いて、ユダが斬り落とした首の在処を訊けばよかったなとふと思い、しかしすぐにまぁいいかと歩くことに集中する。


「他のみんなは大丈夫でしょうか……いいえ、いいえ、大丈夫でしょう。彼らは強く、諦めることを知らない。だから大丈夫……」


 意識を保つためにひとりごち、北へ北へと歩く。たとえその歩みが亀のようでも、折れた脚を引きずり軋む肉体が億劫なほど重くとも、クオンは濁った呼吸を繰り返し、時折血を吐きながら進む。クオンの歩いた道筋を辿るように左手からこぼれた血が点々と赤い痕をつけた。
 止血をしなければと、霞みそうになる意識で思う。麻酔も切れないうちに追加しておきたい。
 反乱はまだ止めていない、反乱が治まるまでは倒れるわけにはいかなかった。

 しかし、クオンの肉体は既に限界を迎えていた。元々酷い怪我を負っていたところでの激戦だ。動ける方がどうかしている。
 セーフティである痛覚を麻痺させているから動く意思は残されていたが、力の抜けた体は意に反してがくんとくずおれた。まず膝が地面について、受け身も取れずに右肩から倒れる。投げ出されたハリーが慌てて駆け寄ってくるのが焦点を結べない視界の端に映った気がした。
 全身の骨が抜かれたように力が入らない。まるで穴のあいた風船のように力なく地を這い、そのまま進もうと手を伸ばすが土を掻くことすらできなかった。


「……、……───」


 開いた口からごぼりと血が吐き出される。左手と右肩からあふれた鮮血を地にしみこませながらクオンの意識は歪んでとけ落ち、悲鳴のようなハリネズミの高い鳴き声が響き渡った。










 Mr.1との激闘を制し、血を流しすぎた体をほんの少しだけ休めていたゾロは容赦なくナミに叩き起こされた。
 どうやらナミの方も勝ったようで何よりだが、痛みに呻きながら身を起こしたゾロの背に「よし行くわよ」と言いながら乗ろうとして、だくだくと血をあふれさせるゾロがくわりと牙を剥く。


「おれの方がどう見たって重傷だろうが!何乗ろうとしてやがる!!」

「うっさいわね私は足を怪我してんのよ!早く宮殿に行ってみんなと合流しなきゃいけないんだから、ごちゃごちゃ言わないでさっさと立つ!そして走る!!」

「ふざけんな!!!」


 しっかと肩を掴んで真顔で言い募るナミに眉を吊り上げて怒鳴るも、彼女は今更ゾロに怯える様子もなくどこ吹く風だ。苛立たしげに舌打ちするゾロを気にすることなく空を見上げ、先程火柱が上がった方角を振り返り呟く。


クオンも無事だといいんだけど……さっきの爆発と火柱、たぶんクオンよね」


 心配げに眉を寄せるナミにゾロは無言を返す。
 クオンは一度、レインベースで限界を迎えて倒れている。数時間の休息を挟んで多少は回復したようだが全快になるわけもなく、加えて相手は得体の知れない、クロコダイルの部下ではないらしい男だ。ナミの背後に迫った男にゾロは気づかず、それほどの強さを有した男の誘いにクオン自ら乗って戦い、無傷で勝てるとはさすがに思えない。
 だが、敗けるとも思っていない。クオンは強い。ビビのためなら何が何でも討ち取るだろう。ひとつの懸念は、それを己の命と引き換えにしてでもやりかねないところだが。

 とにもかくにも、まずは宮殿へ。そこに仲間も集うはずだ。反乱は既に始まり、事態は刻一刻と深刻化していく。遅れるわけにはいかなかった。
 ひとつため息をついたゾロは一旦降りるようナミに言い、それぞれ刀を回収して腰に差し直した。慣れた重みを感じながら地面に座り込んだナミのもとへ戻ろうとして、ふいにぼこりと地面が盛り上がったのを見て思わず足を止める。


「はり───ぃいいいい!!!!!」

「は!!?」

「なに!!?」


 ドッ!と地面を突き破って地上に飛び上がったのは、ゾロの両手の平におさまるほどに小さなハリネズミだった。見慣れたハリネズミである。そう、クオンの相棒のハリーだと突然目の前に現れたハリネズミに驚いて目を見開いたゾロは気づき、ぎらりと光るつぶらな黒い目と目が合った。


「ハリー!?お前何でここに、クオンはどうした!」

「はりゃりゃりゃりゃりゃりゃりゃりゃ!!!」

「うぉおおおお!!???」



 ゾロの疑問の声などまったく無視し、小さな体が弾丸のように肉迫してゾロの体を回転しながら這う。ハリーの背中の針がぶすぶす刺さって傷口を通りすぎるたびに塞いでいき、成程あの巨人のおっさん達はこんな気持ちだったのかと過去ハリーの治療を強制的に受けさせられた男達を思い出すゾロをよそに、応急処置を迅速に終えたハリーは空中で回転を止めるとぽすりとゾロの頭に着地した。そのままぺしぺしと小さな手で額を叩く。


「はりはりはりゃりゃ!はりーぃきゅあきゃーぉ!!」

「あ!?敵は倒したがクオンが血を吐いて倒れた!!?」

「何で言葉分かるのよあんた」


 何やら緊迫した様子で鳴くハリーに顔色を変えるゾロを見て、思わず真顔でツッコんでしまったナミである。
 しかしどうやら緊急事態らしい。戦いに勝ちはしたが動けなくなったクオンを小さなハリネズミが運べるはずもなく、慌てて近くにいたゾロを呼びに来たようだ。地面の下から現れたのは、建物を迂回する手間を惜しんで一直線にやって来たからだろう。
 さあ行けやれ行け急いで行け今すぐ行けときゅあきゅあはりはり鳴きながらゾロの髪を引っ張って急かしている。分かったから引っ張るのはやめろと身を翻そうとしたゾロがはっとナミを振り返った。


「お前はここで待って」

「るわけないでしょ!クオンはどこ!?ハリー、案内して!!」


 すっくと立ち上がったナミに応え、ゾロの頭から飛び降りたハリーは小さな体に似合わない俊敏さで駆けて行く。


「はりり!はりきゅーい!!」

「そっちね!行くわよゾロ!!!」

「いやてめぇ走れるんじゃねぇか!!!」


 ハリーについて走るナミの背に目を吊り上げたゾロは鋭いツッコミを飛ばし、1人と1匹を見失う前に地を蹴って後を追った。





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