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 来たか、と男は呟いた。背の高い建物の頂上に立ち、顔の上半分を覆う濃いレンズのゴーグル越しに眼下を眺める。
 西の方角からやってくるカルガモに乗る人間達、その中でフードに隠しきれない被り物をした執事に視線を据える。砂埃に隠れて岩陰に飛び込み隠れるものは気にしない。誰かに伝えるつもりもない。そんなものはどうでもいい。男の目的はただひとりだけだ。


「─── さぁ、絶望を始めよう」


 柄が赤い大きな槍を握り締め、冥い覚悟を秘めた目を煌めかせた男は、音もなくその場から消え失せた。





† アルバーナ 3 †





 結論から言えば、ウソップの奇策はうまく決まった。

 待ち構えていたバロックワークスはマントを深く被った者の中で誰がビビが判らず動揺するも先制攻撃としてボール型爆弾を放ち、数秒の間を置いて爆発したそれを避けたことを皮切りにそれぞれ三方向に別れた。
 フードから覗くクオンの被り物を目にしたのだろう。「執事!」と叫んだ坊主頭の男とボリューミーな癖毛が特徴の女が振り返る。すぐさま追ってくる様子が後ろに見えて、クオンは牽制のために背後へ針を放った。その針は容易く弾かれたが、男に放った針が甲高い音を立てたことで成程能力者、しかも刃物を生むのか肉体の性質を変えるのか、その類だと当たりをつける。
 ざっと見た限りあの中で一番実力がありそうなのがあの男だ。胸に大きく彫られた“壱”を見るに、もしかしたら彼がMr.1なのかもしれない。となればやはり、是非ともこちらを追ってもらいたいものだ。

 クオンの希望通り眼光鋭く追ってくる2人を横目にカルガモは西門から入って階段を駆け上がる。反乱軍を通さないよう配置されていた国王軍が敵かと焦った顔をしたが、それが超カルガモ部隊であることに気づくと素早く道を開けてくれた。よく教育が行き渡っている。流石はあのイガラムの部下達だ。

 それから住民の気配が消えた町を駆け、門からだいぶ離れた辺りでクオンはナミの肩を叩いた。はっとしたナミが手綱を引いて「ストップストップ!」とカルガモに声をかけて足を止めさせ、ゾロを乗せたカルガモもまた傍らで足を止める。


「あなた達運がいいわ。そう!私こそがビビ王女♡証拠はこの執事よ!」

「! 何言ってやが…言ってるの?私が真のビビだわよ!」

「そこノるんですねあなた」


 小芝居を打つナミに一度はツッコみかけたものの、頑張って裏声でビビのふりをするゾロに思わず真顔で振り向いてしまったクオンである。被り物越しに感心を含んだまじまじとした視線を向けられて恥ずかしくなったのかゾロがむぐりと口を噤んだのが被ったフードから垣間見えて、是非ともその顔は見てみたいが、そのような戯れをしている場合ではないかと思い直す。

 さて、ネタばらしといこう。
 元々正体をあまり隠す気はなかったクオンがマントのフードに手をかけ、それを見た2人もまたフードを勢いよく払った。にんまりと口角を吊り上げて意地悪く笑うゾロと、舌を出して小生意気にウインクまでしてみせるナミの素顔があらわになり、3人は声を揃えた。


「「「残念ハズレ」」」

「……ですよ」


 クオンはこてりと首を傾げてご苦労様ですと心にもないことをのたまい、不要になったマントを脱ぎ捨てる。他の2人も同じくマントを脱いでカルガモを降り、ゾロとクオンはMr.1、その相方であるミス・ダブルフィンガーと相対するように前に立った。


「さぁゾロ、クオン!やっておしまい!!」

「てめぇ黙ってろ!!」

「航海士殿、巻き込まれない程度に距離を取りつつ私達から離れすぎないように」

「任せて!!!」

「……参ったぜ」


 わちゃわちゃと賑やかな3人に見事してやられたことを認めてか、Mr.1が小さく唸る。ここがハズレなら他の誰かがビビか、と考えているのだろう。まぁそれも全部ハズレなのだがわざわざ教えてやる必要もない。
 さて、と手をひらめかせて指の間に針を構えたクオンは、─── それを振り向きざまにナミへ向かって投げた。
 正確にはナミの背後に迫る男へ一直線に針が音もなくはしる。ナミの顔の横を通り過ぎ、無防備な女の背に振りかぶられていた槍に当たって甲高い音が響いた。


「え─── ええぇえ!?

「航海士殿、ステイ!」

「はいっ!!」


 何が起こったのかはよく分からないが命の危機が迫っていたことに気づいて叫び慌てて動こうとするナミに鋭く指示し、すぐさま応えて身を竦ませ一歩も動かないナミの横をクオンは瞬時に駆け抜けた。飛んできた針を槍で防ぎ弾いた男に肉迫して左の掌底を叩き込む。


 ドッ!!


 圧縮された空気の大砲を真っ向から食らったようにユダの体が吹っ飛ぶ。瞬く間に通りの向こうへ飛んでいくユダを、クオンは後ろを振り向くことなく地を蹴って追った。
 ナミのためにミス・ダブルフィンガーくらいは相手できればよかったが、ユダが現れてしまったのならば2人の相手はゾロとナミに任せるしかない。大丈夫だ、ゾロもナミも強い。敗けるはずがない。クオンはそう固く信じた。
 クオンの相手はユダだ。この男は恐ろしく強く、ここで倒しておかなければクオンではなくナミを狙ったように他の仲間に手を出される可能性がある。それだけは許してはならなかった。

 宙でくるりと軽やかに回転したユダにダメージを負った様子はない。さすがに体内はノーダメージとはいかないだろうが、それでも常人ならば即座に気を失うほどの威力があったはずだというのに。
 濃いレンズのゴーグル越しに視線が向けられる。黒に近い濃灰色の短い髪を揺らした男は地面に足をつけ、ほぼ同時に身を翻してクオンに背を向け駆けていく。
 誘い込まれているのか、それとも場所を移したいのか。いずれにせよ追う以外の選択肢を持たないクオンは前を駆ける男の後を迷うことなく追った。



 南へ向かって2人は走り、然程時間を置かずに男が足を止める。十分に間合いを取ってクオンもまた足を止めた。
 南西ゲートにほど近いここでは、空気を震わせる騒乱と銃声が聞こえてくる。反乱軍が町に入り込んでしまったようだ。ビビの説得が失敗したか、あるいは反乱軍リーダーとの接触を阻止されたか。おそらくは後者だろう。
 被り物の下で鈍色の瞳を険しくさせるクオンを振り返ったユダがおもむろに口を開く。


「戦争が始まったな。ならばもう、国王軍か反乱軍のどちらかが倒れるか、あるいはどちらも死ななければ止まらない」

「いいえ。姫様が生きているのなら戦争は止められます」

「たかだか小娘ひとりに何ができる」


 吐き捨てるような冷たい声音に、クオンは言葉を返さなかった。説明をしたところでこの男が納得するとは思えないし、無駄に言葉を重ねる必要もない。
 無言で針を構え、ハリネズミが執事の肩から降りるのを無感動に眺めたユダが槍を構える。


「この国は滅ぶ。王の首は斬られ、王女もまたその首を砂に晒して血を絶やす。そして目を砂で潰された愚民どもは自分達を護ろうとした王族の骸を前に喜ぶのさ」

「させません。そのために私は、私達は、ここにいるのです」

「……被り物を取れ、王女の執事。おれを本気で止めたいのなら」


 これ以上の問答は無用だと穂先を被り物に据えられる。この被り物は内側からの視界は多少紗がかかっているが明瞭であり、取らなくとも戦えはするが、確実にユダを倒すためにクオンは被り物を取った。
 さらりと雪色の短い髪が揺れ、固く引き締められた秀麗な顔と剣呑に煌めく鈍色の瞳があらわになる。誰もが見惚れる美貌をもった執事の素顔に何の反応も示さないユダの一挙手一投足を観察しながら被り物を懐に仕舞う。
 針を構え直して、それを合図にぴりりと空気が張り詰める。間合いは十分、しかし互いに俊足。この程度の距離ならば半瞬もかからずに詰められる。ゆえにお互いが微動だにせず動向を探り合い、隙を探して、仕掛けるタイミングを計った。


(長期戦は明らかにこちらの不利)


 内心呟き背中に冷や汗をにじませるクオンは、己の消耗具合を鑑みて短期決戦に持ち込むことを決めた。
 レインベースで重傷を負い、ビビの“命令”を受けて酷使した肉体はアルバーナに至るまでに深く眠ったことで多少は回復している。しかし完治にはほど遠い。戦いが長引くほどに敗北する確率が跳ね上がっていくことは分かっていた。
 ユダを追っている最中に打った麻酔の針で痛みはましになっている。しかしそれは感覚が鈍くなっているということでもあり、レインベースでまったく相手にならなかったユダを相手にそれは致命傷になりかねない。分かっていて、それでも痛みに動きが鈍るよりはと打ったのだ。己の悪魔の実の能力も全力で使わなければ勝機すら掴めない現状ならば尚のこと。

 肺が軋み、濁りそうになる呼吸を意識して抑え込む。立っているだけで一度折れた骨と傷ついた臓器が悲鳴を上げて、生きるために体にかかるブレーキを自身の手で錆びつかせたクオンは、音もなくその場から姿を消し─── 刹那、ユダの懐へと針を突き立てた。


 ガキィン!!


 甲高い音が響く。突き立てた針は赤い柄に防がれ、また白い姿が掻き消える。ユダは焦った様子もなく、そして周りを見渡す様子もなく槍を構えてその場に佇んだ。ゴーグルに覆われた目が視界の端から端を滑り、背後で空気を切る微かな音を聞き逃さず振り向きざまに飛んできた針を薙ぎ払う。次いで別方向からまたいくらかの針が飛んできて、払って、別方向から飛んできて、払って、また飛んできて─── ふいに何かに気づいたように一瞬動きを止めると今度はその場から跳び退り、普通の針に紛れて飛来した火針ひばりを躱した。

 ゴッ!と地面に刺さった炎を閉じ込めた針が爆発して火柱を上げる。砂漠の暑さに加えて灼熱と熱風が肌を焼き、炎の陰に潜んだクオンは火柱を貫くようにユダへ針を放った。
 炎を浴びて赤く燃えた針が宙に浮かぶユダへ迫る。空中ならば逃げ場はない。だがそんな簡単な手で倒せるとも思ってはいない。
 火柱が消えるのとユダが燃える針を叩き落とすのは同時で、左手を前に突き出したクオンの背後に浮かぶ無数の針が、「─── 魚虎ハリセンボン」と冷えた声音を合図にユダへと一斉に襲いかかった。

 しかしそれもまた、ユダには通じなかった。
 地面に足をつけ、宙を駆ける針を前に焦った様子もなく槍を大きく振りかぶったユダはそのまま勢いよく体ごと回転させて竜巻を生むと襲いくる針を迎え撃つ。竜巻に呑み込まれた針はそのままどこかへ弾き飛ばされ、あるいは力なく落下して地面に転がり、または槍に叩き折られて砕けた。
 竜巻がほどかれてクオンを見据えるユダの背後から飛んできた数本の針もまた、それに視線を向けることなく褐色の指に挟まれて止められる。
 ことごとくを軽くいなされ、次の一手が出せず立ち尽くすクオンを前に、己の心臓を貫かんとした針をかちりかちりと手の中でもてあそびながらユダがつまらなさそうに言葉を落とした。


「もう終わりか?」

「………」


 ことりと首を傾けてクオンの攻撃を待つユダに、鈍色の瞳を凍らせたクオンの頬を冷や汗が流れる。
 すべての攻撃が通るとは思っていなかった。だが、ああも容易く対処されてしまえば、どう戦えばいいのかが分からない。どうすればユダを倒せるのかが考えつかない。
 クオンの最大の強みは俊足だ。素でも速いが、能力を使えば目にもとまらぬはやさで駆け抜け、残像すら残さず相手の間合いを詰めて懐に入り込む。しかし、クオンの武器は針だ。接近戦は十分に可能だが、最大限に特性を活かすことを考えれば中距離タイプである。つまりは、そう。
 分かっていたことではある。自覚もしている。悪魔の実の能力は使いようによってはどうとでもなるが、単純な戦闘スタイルとして───

 クオンの疾さと針は、相性が悪い。

 それでも、己の特性を理解して選んだ武器は針だ。欠点は己の器用さで補えばいい。どうとでもなる、何とかしてみせる。そう、思っていたのだ。


「来ないのならば次はおれの番だ」


 言うが早いか、手の中の針を握り締めて砕き地面を蹴ったユダが瞬きの間もなく眼前に迫った。速い。能力を使わない自分と同じくらいに。否、自分よりも。
 ぞわりと背筋を悪寒が駆け抜ける。内腑を凍りつかせたのは、記憶を失くしてから感じることのなかった、純粋な死への予感だ。
 男の褐色がやけに目につく。反射的に跳び退ったクオンは、次の瞬間それが悪手だったと気づいた。長物であるがゆえに超接近戦には向かない槍の間合いに自ら入った白い執事に、横薙ぎに繰り出された白刃が迫る。
 舌打ちする間もあればこそ。悪魔の実の能力に全力を注いで槍を押し留めるが、それも1秒に満たない時間だけで、あとは何とか刃の速度を僅かにゆるめただけだ。だがその瞬間を逃さずに姿を消して逃れると、クオンの残像を白刃が薙いだ。

 クオンユダから十分に間合いを取ったところで姿を現し、瞬間移動じみた疾さで逃げざるを得なかったことに唇の端を歪める。
 レインベースでもそうだったが、この男の攻撃は完全に防ぎきれない。以前ゾロの豪剣ですら手負いの身で全力を出さずに止めたのに、だ。それほどまでに男が凄まじい力を持っているのか、あるいは何かしらの悪魔の実の能力か。直感だが、悪魔の実の能力ではなさそうだ。ゆえに対策が打ちにくい。
 ぞわぞわと這い上がる悪寒で全身が総毛立つ。悪魔の実の能力は疾さ以外ではユダ相手には役に立たず、彼がクオンを捉えきれずとも攻撃はまったく通じない。クオンユダを確実に倒すためには接近せねばならず、そうするとユダの間合いに入ってしまう。

 ぎしぎしと体が軋む。痛みは感じないが、くっつきかけていた骨はまた折れただろう。内臓が圧迫されている。脚はまだ大丈夫だがそれも時間の問題で、新たに大腿骨辺りにひびが入っている気がする。呼吸が苦しい。長期戦はできない。だが早々に決着をつけるための有効打が思いつかない。喉の奥にせり上がった血を呑み下した。
 満身創痍だろうにそれを表に出さずに濁った呼吸すら取り繕う執事へ、表情を動かすことなくユダはその場から動かず槍を振るった。


「─── 雀色裂すずめいろざき

「!!」


 槍の穂が描いた軌跡の斬撃が飛ぶ・・。縦横無尽に迫りくる無数の斬撃は隙間を埋めるように重なっていて、その中で微かな縫い目を見つけたクオンは罠と分かっていて飛び込んだ。
 腕に頬に脚にいくらかの傷を刻み、果たして、その先ではユダが槍を振りかぶっていた。頭に振り下ろされた刃を針の盾で防ぐ。たったの一撃で頑丈なはずの盾が砕けるほどに重いそれが続けざまに繰り出され、都度針の盾で防ぐが、これでは消耗するだけだ。内心で舌を打ったクオンが半ば無理やり針を飛ばすも僅かに顔を逸らすことで避けられた。

 クオンに生まれた一瞬の隙を、ユダは見逃さない。クオンもまた次の一射を放つ手を止めなかった。左手をひらめかせて針を指に挟む─── が、それを放つよりも早くユダの左手がクオンの首を掴み、地面に叩きつけた。
 したたかに背中を打ちつけて息が詰まる。首を掴む手に力がこもって骨がみしりと軋んだ。だが首の骨を折られそうになっても構わず針を放とうとして─── クオンの針を持つ左手を、槍の刃が深く貫いた。





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