124





クオン、怪我してるんだろ?ハリーから聞いたぞ!」

「私は」

「後じゃなくて今よ、クオン。トニー君、クオンをお願い」

「まだ」

「何も言わなくても分かるわよ。私を誰だと思っているの?」

「ひめ」

クオン?」

「……はい…」

「ビビに負けるクオン、久しぶりに見たわね」





† アルバーナ 1 †





 ビビのいつにない圧に負けて頷いたクオンはのろのろと腕を動かして被り物を取るとよろめくようにして傍らに座るゾロに凭れた。するとゾロがクオンの肩を掴んだかと思えば体勢を変えて背中を向けられ、広い背中はびくともせずにクオンの痩躯を容易く受けとめて支える。
 クオンは鈍色の瞳をひとつ瞬き、ちらと背後を一瞥するともそもそと鈍く重い体を動かしておさまりのいい位置で動きを止め、全体重に加えて後頭部すらも預けると深く細い息をついて目を閉じた。
 触れ合う背中から伝わる体温があたたかいなぁと思いながら大人しくチョッパーの治療を受ける。右の額から流れた血は多いが傷自体は脳を傷つけるほどではなかったようで、クロコダイルの鉤爪が迫ったときにできるだけ顔を逸らした甲斐があったようだ。

 丁寧に額の傷を診てくれるチョッパーが包帯を巻いてくれる感触をぼんやりと追っていたクオンは、ふいにビビが声をもらしたことで目を開けた。後ろに預けていた頭を僅かに浮かせて見やれば、目を瞠ってレインベースの方角─── ルフィとクロコダイルが戦っているであろう場所を見つめるビビがいて、その視線を追ったクオンは連なる砂丘の向こうで巻き上がる砂嵐を見た。同じように自然にできたはずもない砂嵐を全員が見て表情を険しくさせる。


「…アイツだわ…!」


 呻くようにビビが言い、ルフィ、とナミが不安をにじませた声で名を呼ぶ。クオンは砂嵐を数秒見つめ、ゆっくりと瞼を下ろして再び後頭部をゾロの背中に預けた。
 後ろの気配は砂嵐を見て微かに揺れたが、大きく揺らぐことはなく今は静かだ。─── 否、そうあろうとしているのだ。意識して深く長く呼吸を繰り返すゾロの背中からそれを読み取ったクオンはカニの背に置いたゾロの固く握り締められた手に自分の手を乗せて囁く。


「船長殿は大丈夫でしょう。悪運が妙に強く、諦めが悪いことは、あなたが一番よく知っていると思いますが」


 なにせあの自由奔放で荒唐無稽な船長と一番付き合いが長いのがこの男なのだ。
 アルバーナにルフィが辿り着けるかどうかは分からない。だがあの戦いがどうなろうと、アルバーナで待っていると言ったビビに応とこたえたのだから違えるはずがない。そうクオンでさえ根拠なく思うのだから、ゾロならより船長を疑うようなことはないはずだ。そうでしょうと武骨な手の甲を指で叩けば、小さく鼻で笑う気配がした。
 ゾロの後頭部が後ろに倒れてクオンの頭を軽く小突く。存外にやわらかな緑の髪が雪色と微かに混じって埋もれ、言われなくても分かっている、と言うようで、そうだな、と肯定されたような気もした。
 満足そうに短い息をついたクオンがゾロから手を離す。クオンの密やかな囁きはヒッコシクラブが砂を掻く音に紛れて当人達以外の誰の耳にも入らず、しかし2人で何やら話していたことをハリーだけが知っていた。

 砂嵐が砂丘の向こうに見えなくなって、チョッパーが治療の手を再開させる。クオンの怪我で目立つのは額の傷だが、ひどいなとチョッパーが思わず顔を歪めてこぼしたように実際は体内の損傷が大きかった。
 肋骨が数本折れて肺に刺さり、能力を使って骨を元の位置に戻しはしたが内臓のダメージはどうにもならない。右脚は完全に折れ、左脚は折れていないがひびが入っていそうだ。両腕も感覚が鈍く重い。治ったはずの首も引き攣るように痛んでいた。出血のせいか白い顔は生気を僅かに欠いて青白い。呼吸をするだけで全身が痛み、これは余程無茶をしてしまったのだろうと“命令”を遂行している間の自分に内心でため息をついた。気を失ってからはもちろん、“命令”遂行中のことも記憶にはまったくないが、己の消耗具合から相当暴れたのだろうことは想像に容易い。

 丁寧に薬を塗って包帯を巻き、処方した痛み止めを飲んだクオンを前に「ゾロ、クオンを頼むな」とチョッパーが言い置いてビビのもとへと向かった。その小さな医者の背を眺めたクオンは長く息を吐いて体の力を抜き後ろに体重をかけるが痩躯とはいえ人ひとりを支える男の背中はびくともせず、その安定感に目を細める。
 陽が高く昇るにつれ気温は上がり、その中でくっつけば当然熱い。だが触れ合う背中から伝わる穏やかな熱は心地好く、気が抜けると同時にゆるゆると頭の奥から眠気が忍び寄ってきた。


「……少し、眠ります」

「ああ」


 被り物を被り直す気にもなれずに瞼を下ろして呟けば短い返事があり、促されるまま頭を僅かに傾けて眠る体勢に入る。そろそろとクオンの膝にハリーが乗って傍らにワルサギが腰を下ろしクオンに寄り添った。
 そのときクオンの耳に、ふと、何かの“声”が届いた。投げ出された手が“声”の元を辿るように動いて固いものに触れ、カチリと小さく震えたそれに指を這わせて触れた部分から伝わってくるものを読み取る。


「私は何か、鬼徹を怒らせるようなことを、しましたか」


 ピリリと指を痺れさせる波動は怒りに似ている。随分と不機嫌そうだ。今まではクオンが振るっても機嫌が良いばかりだったから、ここまで機嫌を損ねているということはそれなりのことをしでかしたのだろう。おそらくは、というかほぼ間違いなく“命令”を遂行しているときの自分が。
 ビビがゾロ達をどうにかするような“命令”を下すはずはない。クロコダイルを殺すよう命じたのであればクオンかクロコダイルのどちらかが既に事切れている。となれば保守的なもので、部屋の外には確か何らかの大型生物がいたことを考えれば、助けを呼んで戻ってくるまで生きていてほしいとか、そのあたりだろう。そしてスモーカーの言葉も合わせれば、大方の推測はできた。どうやら鬼徹を使って大暴れしたらしい、しかもゾロ達に刀を向けた。だからこそこんなにも機嫌が悪いのだ。


(成程、白猟殿の忠告はそういう……)


 ただ暴れ回るクオンを見てのものというわけではなかったようだ。しかしそれでもルフィは仲間クオンを海軍に渡さないと言い切り、ゾロは俯きそうになるクオンの顔を上げさせた。
 クオンはこぼした質問に無言を返すゾロの優しさに苦笑する。クオンが察した通り鬼徹を怒らせる真似はしたが、あれ・・に意識などなく普段のクオンとは違うものだった。だが確かにクオンでもあって、ゆえに嘘をつくこともできずに黙り込んでいるのだ。
 暫しの間を置きようやく「気にすんな」と低い声が返ってきて、甘やかされている事実が唇をゆるめさせたが、甘んじるつもりはなかった。ぽん、ぽん、と鬼徹の鞘を軽く叩いて優しく撫でる。


「申し訳ありません、鬼徹。けれどありがとう、あなたは私を止めようとしてくれたのですね」

「……お前、やっぱり覚えてんのか」

「いいえ、いいえ。私は何も覚えてはいません。けれど分かります。あなた達はとても分かりやすい」


 ゾロの返しこそがクオンの推測を裏付けている。再び黙り込んだゾロに小さく笑みをこぼした。
 不機嫌さをにじませはするがクオンに向けてはこなかった鬼徹がゆっくりと気を鎮めていく。眠れ、と鬼徹にも言われているようで、鞘に触れたままクオンは己の意識がふわりととけていくのに抗わなかった。


クオン何も・・斬れ・・ねぇ・・は、なまくらか?」

「剣士殿。斬りたく・・・・ない・・ものを・・・斬ら・・ない・・は、『良いもの』というのですよ」






 すぅ、と微かな寝息と共に背中にかかる重みが増して、クオンが眠ったことを悟ったゾロは体勢を変えないまま目の前に広がる砂漠を見つめた。
 鬼徹はすっかり落ち着きを取り戻して大人しい。クオンに「良いもの」と言われたことで気分が晴れたのかもしれない。そのあたりの細かな機微は、ゾロにはまだ分からないが。

 あの檻の中で見たクオンを思い出す。虚ろな鋼の瞳、バナナワニを斬れなかったクオンが斬らせなかった鬼徹を一瞥して呟いた言葉。唇の動きから、それが短い単語なのは分かっていた。だが音は当然届かず、斬れない刀を見下ろしたのだから「なまくら」と言ったのかと思ったが、同時に唇の動きが違うとも思っていた。だが今、答えを聞いてはっきりした。
 そうだ、あのときクオンは、すべてを斬り捨てようとするクオンが何も斬れないように抗う鬼徹を見て、「良いもの」と言ったのだ。


(何でも斬れるが、何も斬れない剣士)


 ゾロの脳裏に故郷の師が浮かぶ。世の中には、何も斬れないが、同じ刀で鉄ですら斬ることができる剣士がいるという。─── それは、クオンのことではないのか。
 檻の中から見たクオンは、抗う鬼徹を抑え込み振るうままにすべて斬ることもできたはずだ。しかし実際には何一つ斬ることはなく、斬れないことをよしとしていた。虚ろな鋼とあたたかな鈍色は共存をしていて、あれは確かにクオンだったのだ。瞳の色が何であろうとも、クオンクオンでしかない。


クオンは剣士だ。それは間違いねぇ)


 研ぎ澄まされた太刀筋はにわかに剣をかじったもののそれではない。おそらく、今の己では敵わないだろうと思うほど。どこか鷹の目を彷彿とさせるような動きは何だったのか。
 だが、鈍色の瞳のクオンは剣の腕はめちゃくちゃだった。触ったことすらあのときが初めてだと言う。その言葉に違わない動きだったことをゾロは己の目で確かに見た。しかし、鋼の瞳のクオンは間違いなく剣士だった。


(こいつは、あまりにいびつだ)


 ゾロは思う。二重人格のようで、まったくの別人のようで、表と裏のようで、けれど鈍色も鋼も同一だ。
 クオンは名を隠し、顔を隠し、声を隠し、性別を隠し、体型を隠し、本来の口調を隠し、本当の得物を隠している。否、「隠されている」と言った方が正しいか。
 クオンがかつて身を寄せ、ひとりの男の手によって滅んだ傭兵の一族は意図してか否かは分からないが記憶を失くしたクオンのすべてを隠し、ひとりになったクオンの手を引いたビビがそれを受け継いで、頭が良いクオンがそういったことを察せないはずはなく、しかし何も言わずに受け入れている。それがクオンのいびつさを浮き彫りにしていて、けれど隠されていることにさえ気づかなければそのいびつさもまた隠される。まったく厄介なことだ。

 なぜクオンがそれほどまでに隠されることを是としているのか、この戦いが終わったときにでも聞いてみるかと内心呟いたゾロは、だからといってクオンに何かを言うつもりはない。

 雪狗という異名を持つ海軍本部准将はひとつの集団を滅ぼすことを躊躇わないという。スモーカーの口振り的に、おそらくは鋼の瞳をしたクオンがまさしく“雪狗”なのだろう。
 だが、鈍色の瞳をしたクオンはころころと表情を変える。気が抜けたように間抜け面を晒して、優しくあたたかに、あるいは嬉しそうに、時に甘くとろけたように、心から。


(……おれ達の前で、ちゃんと笑えてるんだったら、それでいい)


 奇しくもその思いは、燃え盛る炎を有した男が笑って口にした言葉と同じものだった。





  top