123
麦わらの一味の姿はどこにもなく、部下に指示を出し終えたスモーカーは深く息を吐いた。己の右手に目をやり、檻の中から掴んだ
クオンの細い首の感触を思い出す。否、違う。
この手を掴まれた感触だ。
自然系の能力者に触れることは基本的にできない。事実、
クオンの一度目の斬撃は煙を薙いだだけだった。しかし、血相を変えたルフィと言葉を交わして意識が僅かに逸れたとき、
クオンは己の首を掴むスモーカーの手を、確かに掴んだのだ。白手袋越しに伝わる細い指の感触はまざまざと脳裏に刻み込まれて鮮明に思い出せる。
触れられたことに気づいた瞬間、反射で
クオンを解放したことで迫った白刃を躱すことができたが、半瞬遅れれば間違いなく手首から先が斬り落とされた。そう思うと今更背筋が寒くなる。
(……雪狗)
右手を固く握り締め、スモーカーは脳裏に真っ白執事の美しい顔を描く。強い意志に煌めく鈍色の瞳と、何の意思もないがらんどうの鋼の瞳を。
部下に命じて本部に援軍を頼んだスモーカーは、しかしひとつだけ口を噤んだことがある。大将赤犬が全海兵に下した“雪狗の
クオン”を見つけ次第連れ戻せという命令に従うなら、ここで雪狗と思しき人物を見つけたと報告するのが正しい。
しかし、今は。ひとつの国の存続がかかっているこのときに、王女が涙を流すほどに想う執事を取り上げるのはどうしても気が進まない。
反乱が落ち着くまで。国が墜ちるか、それとも王下七武海の一角が墜ちるか。残された僅かな時間だけスモーカーは固く口を閉ざすことを決め、ゆっくりと紫煙を吐き出した。
† レインベース 12 †
聞き慣れた鳥の鳴号を聞き、ゾロの肩から顔を上げた
クオンは空を見上げた。背の高い建物に切り取られた空に1羽のワルサギが飛んでいる。
「……ウズマキ」
「
クオン!!目を覚ましたのね!」
「ええ。気を失ってからの記憶はありませんが……どうやら無事にあの場から逃げることができたようですね」
クオンの小さな呟きを聞き逃さなかったビビが喜色を浮かべて振り返り、それに続いて全員に振り返られた
クオンはたじろぐことなくゾロに背負われたまま被り物の下でやわらかく微笑んだ。「お前は全然無事じゃねぇからな、あとでビビと一緒にチョッパーに診てもらえよ!」とすかさずウソップの気遣いが飛んできて素直に頷く。
「剣士殿、降ろ」
「すわけねぇだろうが。黙って乗ってろ」
言葉の途中ですげなく却下されて思わず閉口した
クオンはゾロの肩に乗っているハリーにうんうんと頷かれ、小さくため息を被り物の中にとかすと緑色の頭に顎を置いた。走っているため揺れる背中に力を抜いて凭れる。しみこむようなあたたかさに目を細めて、痛みに軋む体を気遣いできるだけ揺れを小さくしてくれているゾロに礼を言った。
そうこうしているうちに一行は町の外れに辿り着き、それと同時に「お───い!!!」とチョッパーの声がして頭部に草を生やした巨大なカニが砂煙を上げてものすごい速さで眼前に滑り込んできた。急ブレーキをかけて目の前で止まったカニに乗ったチョッパーが「乗ってくれよ!」と言い、思わず
クオンは呆気に取られて目を瞬かせる。
ビビ曰くヒッコシクラブという種類の巨大ガニはどうやらラクダの友達だったようで、しかもいつも砂に潜っているためほとんど幻の存在らしい。ラクダはこの町の生まれで、カニ以外にもたくさん友達がいるとのこと。それはすごいと素直に感心してしまった。
にやけ笑いを浮かべたカニは何となくやらしい顔をしているが、まああのラクダの友達なのだし、類は友を呼ぶともいうので気にしないことにする。
「ゴア~!」
「ウズマキも色々手伝ってくれて、空からみんなを捜してくれたから助かったよ」
クロコダイルに追われるチョッパーへ安全に逃げられるルートを教え、はぐれたラクダと合流させ、レインディナーズから逃げ出した仲間を見つけて教えてくれたからみんなのもとに駆けつけることができたとチョッパーが笑う。地面に降りて胸を張るワルサギの頭を
クオンは優しく撫でて褒めた。そこで思い出したようにゾロの肩に乗っているハリーをすくい上げる。
「私としたことが、ハリーを褒めるのを失念していました。よく頑張りましたね、ハリー。流石私の相棒です」
「はりゅ……う~!きゅっきゅあはりぃ!!」
優しく頭から背中まで撫でられ、つぶらな瞳を潤ませたハリーは文句を言いながら
クオンの首元に飛びついた。
クオンは撫でられやすいように針を倒した背中に手を添え、首を傾けて被り物を寄せる。それだけの動きで鋭い痛みが全身を貫いたが、しがみつくハリーの気持ちを思えば軽いものだ。
ヒッコシクラブの足は速く、これならアルバーナまでかかる時間を随分と短縮できる。全員が急いでカニに乗り込み、
クオンはゾロが降ろさなかったのでそのまま運ばれ、カニの背に腰を下ろしてようやく解放された。もふりとした短くやわらかい草が気持ちいい。
クオンは改めてゾロに礼を言って座り直そうして、ふいにくらりと視界が揺れ反射的にゾロの肩を掴んだ。
「
クオン、大丈夫か!?」
「構いません、船医殿。急ぎ出してください。今は時間が惜しいのです」
医者としてすぐさま気にかけてくるチョッパーに手を振って促す。被り物の下で頬を伝う血の感触を鬱陶しく思いながらも体勢を整えた。
ぎこちなく固い動作で座り直す
クオンはあとで絶対に診ようと決めたチョッパーは改めてカニの背を見回して全員が乗り込んだことを確認し、言われた通りアルバーナに向けて出発することを優先して号令を上げた。
「よ───し、行くぞ───!!!出発!!」
そう、チョッパーが言い終わるか否か。前を向くゾロの背に凭れるようにして被り物の下で瞬きをして視界の霞を払っていた
クオンは、心配そうに覗き込んでくるビビ越しに、こちらに飛来する鉤爪を認めた瞬間息を呑んだ。
「……ッ!」
「きゃあ!? ───
クオン!!?」
加減もできずに勢いよくビビを押しやるようにして横に突き飛ばす。代わりに眼前に迫った鉤爪に向けて能力を使おうとして、ぎしりと折れた肋骨が肺に食い込み激痛が走って力が抜けた。一瞬意識が飛び、喉をせり上がった血の塊が気道を塞ぐ。くそ、とこぼれた呻きは音にならず、
クオンはなすすべなく鈍く金色に光る鉤爪に体を捕らえられた。
獲物を掴んだ鉤爪に後方へと引っ張られる。足がカニの背から離れ、青褪めたビビが身を乗り出して手を伸ばしてくるが届かない。
「止めろチョッパー!!!」
「
クオン!! ─── あいつだ!!!」
ゾロの緊迫した声と、ルフィの激情がにじむ声が耳朶を鈍く打つ。
いい、いい。私に構わず先に行ってください。大丈夫、クロコダイルが相手でも何とかできる。何とかしてみせる。─── たとえ、この命に代えたとしても。そのためにハリーに頼んだのだから。
何とかして彼らに意図を伝えようとした
クオンはしかし、次の瞬間ぐるりと視界が回った。バチン!と音がして体が飛ぶ。こいつ!と鋭く上がった声は誰のものだったか。一瞬平衡感覚を失くした体はしっかと男の腕に受けとめられ、揺れる視界で鉤爪に腕を引っ掛けるルフィの姿を、
クオンは見た。
「せ、…んちょう、どの…!」
「おい!!ルフィ!!!」
クオンが身を乗り出して右手を翳すが、離れていく体を引き戻す力は今の
クオンにはない。
クオンを受けとめたゾロもすぐさま腰の刀に手を伸ばすも、どうすることもできずに奥歯を噛んだ。
ヒッコシクラブは足を止めず、鉤爪に捕まったルフィと共に冷酷な気配を放つクロコダイルの姿が遠くなっていく。
クロコダイルの隣にある細い影はミス・オールサンデーのものだろう。いくらルフィでも2人を相手にするには分が悪すぎる。しかも片方は
自然系だ。加勢のために
クオンが怪我を構わず飛び出そうとすれば、まるでそれを読んだかのようにルフィの鋭い声が飛んできた。
「お前ら先行け!!!おれひとりでいい!!!ちゃんと送り届けろよ!!ビビを
宮殿までちゃんと!!」
びくりと
クオンの肩が揺れる。被り物の下で限界まで見開かれた鈍色の瞳が、にっと笑うルフィを映した。
この状況で笑ってみせるルフィに、バカが、とこぼしたゾロが冷や汗をにじませて口の端を吊り上げ船長命令を受諾する。
クオンは身じろぎひとつできず、絶句したまま遠くなるルフィを見つめていた。
「このまま進めチョッパー!!アルバーナへ!!!」
「わ!分かった!!」
ゾロの指示に頷いてヒッコシクラブを走らせるチョッパーに、ルフィを置いていくのかとウソップが慌てる。ビビもまた身を乗り出してひとり残してしまったルフィの名を呼び、その体を「大丈夫よビビ!あいつなら大丈夫!!」とナミが押さえた。
「気の毒なのはあいつらの方!今までルフィに狙われて…無事でいられた奴なんてひとりもいないんだから!!」
しかし、そう口にするナミの顔色は悪い。ビビに言うようでいて、胸に湧く不安を晴らすように自身にも言い聞かせているのだ。
クオンはルフィが浮かべた笑みを脳裏に描き、一度固く目を閉じるとゆっくりと開いた。白手袋に覆われた手を握り締める。
ちゃんと送り届けろとルフィは言った。アルバーナまで、その奥にそびえる宮殿まで。ならばそれを、何としても果たさなければならない。
「いいかビビ。クロコダイルは…あいつが抑える」
静かに覚悟を固める
クオンの隣で砂煙の向こうを睨みつけるゾロが口を開く。
「反乱軍が走り始めた瞬間に、この国の“
制限時間”は決まったんだ。国王軍と反乱軍がぶつかればこの国は消える」
改めて突きつけられる事実にビビの顔から血の気が引く。その様子に構わずゾロは言葉を続けた。
「それを止められる唯一の希望がお前なら…何が何でも生き延びろ……!!この先、ここにいるおれ達の中の……
誰が…!
どうなってもだ……!!!」
たとえ途中で倒れても。たとえ敵に斃されても。それでもビビは、アラバスタ王国の王女は、ただひとりになったとしてもその足を止めてはならない。命を失ってはならない。仲間の屍を越えてでも走り続けなければならない。
16歳の少女が背負うにはあまりに重すぎる重責に、息を呑んだビビが震える声で「……そんな」とこぼす。できるわけがない、と弱音を顔に浮かべるビビだが、それでもその言葉だけは口にしなかった。
クオンは色を失くすビビの横顔を一瞥し、砂の地面に倒れたルフィへ視線を戻す。
「ビビちゃん…こいつは君が仕掛けた戦いだぞ」
絶句するビビにサンジが声をかける。いつだって女性に甘く優しいサンジは、しかし今だけはその甘さをアラバスタ王女に許さなかった。
「数年前にこの国を飛び出して、正体も知れねぇこの組織に
君が戦いを挑んだんだ」
厳しい言葉だ。己が始めた戦いなのだから、たとえ過程がどうなろうとも己が終わらせなければならない。途中でくずおれることなど許されるはずがない。
だが、ただし、とサンジは優しく言葉を継いだ。
「もう、ひとりで戦ってるなんて思うな」
クオンは被り物の下でほのかに笑みを浮かべた。言いたかったこと、言わなければならなかったことをすべてゾロとサンジに言われてしまったから、
クオンからビビに向けて言うことは何もない。怯え、足を震わせ、声も震わせて何とかビビを勇気づけようとするウソップも迷う彼女の背を押してくれるだろう。
それでもこれだけはと、
クオンは低くくぐもった声でビビを呼んだ。一国を背負うにはあまりに細い肩を、それでも潰れないよう足掻いてもがいて立ち続ける王女を
クオンはこの1年、ずっと傍で見てきた。不安に苛まれ、震える夜を抱きしめて過ごしたこともある。時に宥め、時に慰め、時に励まして。この私がいるでしょうと言い聞かせてきたけれど。
「大丈夫ですよ。私だけではなく、心から信頼できる頼もしい仲間がいるのだから」
被り物越しに発された声は低くくぐもり抑揚を削いで淡々としていて、にじむ感情は読み取れない。それでも
クオンがやわらかく微笑み、素の声音は優しく、そして言葉の通り揺るぎない信頼に満ちているものだと、
クオンを知る者は誰も疑わなかった。
ビビは呆然と
クオンを見て、くしゃりと顔を歪ませると「
クオンのうわきもの……」と弱々しくなじる。
クオンは笑った。だってしょうがない、彼らはあまりに魅力的すぎる。ビビだって分かっているだろうに。
すっと息を吸ったビビが砂に転がるルフィを見つめる。
「ルフィさん!!! ─── アルバーナで!!!待ってるから!!!!」
ビビの不安は完全に消えたわけではない。ルフィがクロコダイルに勝てる確証もない。けれど必ず来てくれることを信じていると叫ぶビビに、ルフィは「おォオ!!!」と大きく応えた。
← top →
感想等はこちら↓
拍手・うぇぼ励みになります!