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 マシロ、という名前の由来は「真っ白いから」だと、記憶を失くし名前すら分からないと言った女の世話係となった男は低くくぐもった声で言った。


「ちなみにおれの名はマクロだ」

「……ああ」


 成程、と頷いた通り、男は全身を黒い衣服に身を包み、愛嬌があるようで間の抜けた黒い猫の被り物をしていた。たぶんおそらくほぼ確実に偽名だろうことは察せたが口にはしない。

 男は何もかもを失くした女にすべてを与えた。作り手によってクオリティは異なるが有している機能が同じである被り物の作り方、一族の秘伝の薬の調合方法と効能、素手や武器を用いた戦い方、知っておくべき常識や名立たる海賊の顔触れ、世界情勢など生きるための知識の他に、カオナシという通り誰にも素顔を見せない、仲間相手でも滅多に被り物を取ることはない傭兵の一族のことも。
 男に限らずすべての人間が、まるで一族のすべてを託すようにクオンに与え、愛し、そして─── 1年前、真っ白な女ただひとりを残して、カオナシの一族は全滅したのだった。





† レインベース 9 †





 こちらを見据える虚ろな鋼の瞳は、その雪色の髪と同じような、しかし明らかに異なる硬質の輝きをもってその眼窩におさまっている。
 雪色の髪、白皙の美貌、鋼の瞳。すべてが白いその存在を凝視していたゾロは、その瞳に既視感を覚えて眉を寄せた。
 突然瞳の色が変わったことと、立ち上がってはいるが明らかに意識のない様子のクオンに戸惑うルフィ達を無感動に眺めていたクオンの目がぬるりと横に滑ると同時、耳障りな雄叫びを上げて背後から突進してきたバナナワニが大きくあぎとを開いた。
 人間など容易に丸呑みできる大きな口から覗く鋭い歯列がクオンへ迫る。ナミが悲鳴のようにクオンの名を呼んで、しかし当の本人はやはり無表情にバナナワニを見上げ、左手が腰に伸びたのをゾロは見逃さなかった。だがその手は空を切り、ちらと己の左腰を一瞥したクオンは瞬間、音もなく姿を消す。
 獲物が消えて空振ったことで牙が檻に食い込み、バキン!!と音を立てる。しかし海楼石でできた檻はあまりに固く、自慢の牙がいくらか欠けたバナナワニはショックを受けたように大口を開けたまま檻から後退る。
 そこに、突如として頭上から何かが勢いよく降ってきた。


 ドゴォ!!


「何だぁ!?」


 不意打ちの攻撃を食らったバナナワニが床に沈んで白目を剥く。そこにあったのは白い肢体─── つまりはクオンだった。
 白いマントとツバメの尾を翻したクオンはおそらく能力を使ったのだろう、その痩躯に似合わず重い音を立ててバナナワニを這いつくばらせ、再び姿を消したかと思えば床に叩きつけられた反動で僅かに浮いたバナナワニの横面に鋭い蹴りを叩き込み、吹っ飛んでいったバナナワニに顔を向けたまま徐々に嵩を増していく水面に立った・・・


「お、おいクオンが水の上に立ってるぞ!?どういうことだ!?」

「たぶん…クオンの悪魔の実の能力なんだとは思うけど…」


 驚くウソップに困惑しながらもナミが答え、佇む白い背中を見ながらゾロはクオンが初めてメリー号に乗ってきたときのことを思い出す。成程、水の上を自在に移動できるのなら、突如として現れたのも海を駆けて船を追ってきたからなのだと合点がいく。

 部屋の隅に転がるバナナワニが低く呻いたかと思えばギャォオオオン!!!と大きく鳴き、仲間を呼ぶ声を聞きとめたバナナワニがまた1匹、巨体を揺らして部屋に入ってきた。やべぇ増えた!とウソップが叫ぶが、クオンは顔を向けただけでやはり何も言わない。表情すら変わっていないのだろう。今のクオンは、ビビの“命令”に従い遂行するために動くだけの機械と同じだ。

 おもむろにクオンの右腕が転がるバナナワニに向かって持ち上がり右手が下を向く。すると反撃するために立ち上がろうとしていたバナナワニは手足をばたつかせるだけとなり、今度はクオンの左腕が上がって左手が上を向き、音もなくバナナワニの巨体が宙に浮いた。水を滴らせて宙に浮かんだバナナワニが驚愕に目を見開くが、それはルフィ達も同じだった。
 何が起こっているのか分からない一同を気にすることなくクオンは両手を合わせるように近づけ、しかしまるで間に何かが挟まったかのように途中で止まった。それでも手に力をこめて互いの手を近づけようとすれば、連動してバナナワニの顔が苦悶に歪み、ゴ、ガ、と鈍い悲鳴が上がってその巨体が軋む。バキバキと固いものが折れる音が響いて、バナナワニの体内で何かが起こっていると檻の中の人間達が察したそのとき、クオンの両手がパチン!と軽い音を立てて重なった。


 ボギィン!!!


 骨が折れるような大きな音が鳴る。舌を伸ばして意識を飛ばしたバナナワニの巨体がぐるりと回転して水に沈んだ。
 クオンの能力を経験から一番知っているゾロには、バナナワニはクオンに触れられることなく上下に負荷がかかって体中の骨を折られたのだと察することができた。
 普段のクオンならしないだろう、降伏の余地も許さず丁寧に心を折るようなこともなく残酷なほど徹底的にすり潰すその戦い方に、腰に差していた鬼徹がカタリと小さく揺れる。まるで今のクオンを嫌悪するように不穏な気配を漂わせた鬼徹を見下ろして宥めるように鞘に触れるが、それでもゾロの耳には唸る鬼徹の音なき“声”が届いていた。

 クオンの白手袋に覆われた手が解かれ、仲間をやられて激昂したもう1匹のバナナワニを虚ろな目で見やる。水を掻き分けて迫る巨体を無感動に見ていた鋼の瞳が、ふとゾロの方を向いた。正確には、その腰に差した刀に。


「……!」


 はっとしたゾロが刀に手をかけるよりも早く、クオンの右手が刀に向かって伸びた。檻に阻まれ到底届くはずもない刀がひとりでに刀身を滑らせて柵の隙間を抜けクオンの手におさまる。嫌がるようにクオンの手の中でカタカタと小刻みに揺れる鬼徹の柄を握り締め、檻からバナナワニへ振り向きざまに軽く振るうそのさまは、どう見ても手練れのそれだ。


(どういうことだ)


 ゾロは視線を鋭くする。クオンはノコギリ兼やすり代わりに鬼徹を振るったことはあるが、そのときの腕前は到底手慣れた様子ではなかった。あのとき初めて刀に触ったのだと言った言葉は嘘ではないことを裏付けるように握りも構えも振るうさますらもめちゃくちゃだったクオンを、ゾロは確かに己の目で見たのだ。
 だというのに、握った鬼徹を居合のように腰に構えて姿勢を低くし、目にもとまらぬはやさで駆け抜けてバナナワニの首を一閃したクオンはまるで別人のように動きがまったく違う。


「ゴアァアア!!」


 バナナワニの首を斬り飛ばしたかと思ったクオンの太刀筋は、しかしその太い首に刀傷をつけることなく僅かにへこませそれなりのダメージを与えて怒りを煽っただけだった。鬼徹ほどの刀でも斬れなかったのか─── 否、とゾロは目を細める。違う。斬れなかったのではない。鬼徹が、斬らせ・・・なかった・・・・のだ。
 振るわれることを嫌がるようにクオンの手の中で鬼徹が震え続けている。以前貸したときは機嫌良くクオンの手の中におさまり振るわれていたというのに。
 斬れなかったのではなく斬らせなかったということにクオンも気づいたのだろう、色のない瞳が鬼徹を一瞥し、微かに唇が動いて何事かを呟く。だがやはりその表情は変わらない。
 斬れない刀を捨てることもなく、理性を失くした凶暴な目で睨みつけてくるバナナワニを前に姿を消したクオンは次の瞬間には天井に足をつけて狩るべき敵を見下ろし、天井を蹴って弾丸よりも速くバナナワニに飛びかかると鬼徹の切っ先を巨体の脳天へ突き立てた。


 ドォッ!!


 重い轟音が響く。だがやはりその肉体に刀傷がつくことはない。まるで鈍器で殴られたように目を回したバナナワニが水に沈み、浮かぶ巨体の上でクオンは手の中で震える鬼徹を見下ろしていたが、また1匹新たに現れたバナナワニへと顔を向けて刀を振るった。


「おい、あいつがカオナシのめぐし子ってのァどういうことだ」

「え!?い、いや、おれらだって詳しくは知らねぇよ……ただ、ビビと会う前に世話になってたって、クオンが。てめぇこそ何か知ってんのか?」


 檻の壁に沿って設えられた長イスに座り込んでいたスモーカーに唐突に声をかけられ、びくりと肩を揺らしたウソップが怯えつつも訝しげに眉を寄せ、スモーカーは檻の外でバナナワニ相手に刀を振るうクオンを睨むように見据えたまま葉巻を咥えた口を開く。


「“カオナシ”は素顔を一切晒さない傭兵集団だ。特に排他的で他人と関わりを持つことはなく、拠点の位置は不明、いつどこに現れるかは分からない、その実体すらよく掴めていない、だが圧倒的な強さだけは周知させている奴らは“偉大なる航路グランドライン”各地で活動していると聞く。……いや、していた、と言うべきか」

「して『いた』?」

1年前・・・、カオナシはひとり残らず死に絶えたと聞いた」


 は?とウソップとナミの声が重なる。ゾロもクオンがバナナワニの巨体を斬り上げて天井に叩きつけたのを見ながらスモーカーの話に耳を傾けた。
 スモーカーは剣呑に目を細めて続ける。


「全員殺されたそうだ。……髪も肌も目も白い、ひとりの男の手で」

「それがクオンだっていうの!?バカなこと言わないで!!」

「そ、そーだ!クオンがそんなことするか!!大体、その話にどんだけ信憑性があるんだよ!」

「電伝虫の緊急信号が届いて海軍が駆けつけたときに血に濡れた武器を持っていたって話だ。海兵にも襲いかかってきて応戦している間に逃げられたようだが。記録としても残っていて、多くはないが証人もいる。そして死体に残された傷は、刃物でできたものらしい。……お前ら、あれを見ても違うと言い切れるのか?」


 顎で示した先にいるのは、続々と通路を通って現れるバナナワニに容赦なく猛攻を仕掛けるクオンだ。白い残像すら残さず縦横無尽に駆け抜けその手に持った刀で吹き飛ばしていく。
 あれだけ暴れているのに部屋自体が壊れる様子がないのは、能力を使ってどうにかしているのだろうかとナミはふと思った。意識がないはずなのに、随分と器用なものだ。その配慮が普段のクオンのようにも思えて、けれどあのクオンは普段のクオンではないことが明らかであることに唇を噛む。
 食い入るようにクオンを見つめるナミに振り返らないクオンは虚ろな鋼の瞳で屠るべき敵を見据え、人間らしい感情を消してまた1匹を沈め、その強さに慄いたバナナワニが顔を引き攣らせて後退る。

 クオンは記憶を失くしてからの1年間、とある傭兵団のもとに身を寄せていたとは教えてくれたが、色々あってビビに拾われたとも言っていたから、それなりの事情があるのだろうとわざわざその内容を詳しく訊いたことはなく、そしてクオンが語ることもなかった。
 スモーカーが言うことには筋が通っているように聞こえる。状況証拠だけならカオナシを、己が世話になった一族を滅ぼしたのはクオンなのだろう。それを明確に否定できるだけの材料は誰も持ち得ない。証言を取れるかもしれないクオンはこちらに目を向けることなく刀を振るっている。
 ─── だが。


クオンはそんなことしねぇよ」


 真っ直ぐにクオンを見つめたままはっきりとルフィが断言する。短い言葉を紡いだ声音に揺らぎはなく、状況証拠をいくら揃えられても一片の疑いも入る余地のない絶対の信だった。そんなルフィを見やり、スモーカーが眉を寄せて葉巻をくゆらせる。


「てめぇらの知ってるあれはしねぇかもしれないが……おれの知ってる雪狗なら造作もなくやるぞ」

「雪狗なんてのは知らねぇ。クオンクオンだ。あいつはそんなこと絶対にしねぇ」


 揺さぶりをかけるようなスモーカーの言葉に耳も貸さず静かに言い切るルフィにナミとウソップが深く何度も頷き、ゾロもまた無言で口角を吊り上げて同意を示した。
 記憶を失くす前の雪狗クオンのことは知らない。だが、記憶を失くし麦わらの一味と過ごしてきた執事クオンのことを、彼らはよく知っている。あの鈍色の瞳がどれだけやわらかくあたたかにゆるむのかを、その真摯な心を、時に“浮気”もするクオンの性根を、今更疑うことはない。もしも、仮に、ありえはしない仮定の話として、今のように我を失ったクオンがやったことなのだとしても、やはりそれはクオンが望んでしたことではないのだ。
 何か言おうとして開きかけた口はしかし何の言葉も紡がず、紫煙を吐き出してふんと鼻を鳴らしたスモーカーが壁に凭れ直す。

 突進してきたバナナワニを躱し、空中で刀を振るいいとも簡単に薙ぎ払ったクオンを眺め、この分ならビビが戻ってくる前にひとりですべて片付けそうだとゾロが思ったそのとき、床に転がる瓦礫に降り立った白い肢体がふいに力なく傾いだ。


クオン!?」


 はっとしたようにナミがクオンの名を呼ぶ。その場に立ってはいるが胸元を押さえて肩を上下に揺らすクオンの呼吸は浅く乱れ、ぜひゅ、と濁った音を立てる。元々病み上がりだったその身の深度にはダメージが残っているはずで、十分な休息をとる間もなく続いた砂漠の強行軍、レインベースでの追走劇、そしてクロコダイルに負わされた怪我に加え、意識がない状態での全力以上をかけた戦闘となれば、その痩躯にかかる負担は相当なもののはずだ。右の額からあふれる血もいまだ止まらず、雪色の髪と白い肌を赤く汚している。
 肉体は限界に近づいているが、“命令”を遂行することを絶対としている虚ろな精神がそれに構うことはない。それどころか、敵対すべき相手の認識すら曖昧になったクオンは己以外の生命あるものの強い気配を辿ってルフィ達が収められた檻を振り返り、嫌がるように震える刀を手にがらんどうな鋼の瞳を向けた。


クオン…?」


 何の感情もない、あたたかさも冷たさも何もない凪いだ虚ろに見据えられてウソップが呆然と名を呼ぶ。しかし当然クオンは何も応えず、無表情にその場で刀を構えた。
 クオンと檻との距離は数m以上はある。そのまま振るったところで刃は当然届かない。だがクオンには瞬間移動じみた俊足があり、瞬きの間もなく距離を詰められるだろうが、それでもバナナワニの歯を砕いた檻の強度があれば、敵を斬ることができないクオンの斬撃は防ぐことができる。
 それはおそらく、機械的に動く今のクオンにも分かっているはずだ。しかしその肉体は主から下された“命令”に従って生き残るために己以外のすべてを消さんと鋼の瞳が僅かに細められた、その瞬間。

 唐突に、ゾロは既視感の正体に思い至った。
 雪色の髪と同じような、しかし明らかに異なる硬質の輝きは、まさしく刀の刃の色。光を吸って一切の濁りなく煌めく、すべてを斬り捨てる妖しく濡れた鋼そのものだ。

 では、元の瞳の色は何だ。
 濃い灰色をした鈍色にびいろの瞳は。

 そうだ、あれは、─── なまくらの色。


「ッ…!」


 クオンがその場で刀を振るったのを見たゾロは本能的に檻の前面へと飛び出していた。檻の柵に手をかけていたウソップの肩を引いて後ろへ投げるようにして下がらせ、腰に残った二本の刀を抜く。
 同時、右斜めへ斬り上げられた刀から斬撃が飛ぶ・・。返した刀で左斜めへ斬り上げると同時にふたつめの斬撃がさらに飛んできて、誰もが驚く暇もなく檻へ激突したそれが柵にいくらか阻まれるが、柵の隙間から勢いを殺さず飛んできた斬撃をゾロは刀で受けた。
 ガキキィン!!と鋭く高い音が響く。風の塊が砕けたような重さのない衝撃波がぶわりと広がって服を大きく揺らし膝ほどまで上がってきた水に波を立てる。受けた斬撃が思ったより軽く感じたのは、やはり鬼徹が今のクオンに振るわれることを拒絶しているせいだろう。


「……、……」


 ゾロは斬撃をすべて受け流されて動きを止めているクオンを見据え、吊り上がりそうになる口角を意識して下げて滲み出そうになる闘気を抑える。
 放たれたふたつの斬撃。あれが万全の体調で、まともに振るわれたものだったなら─── と背筋が震えたのは、間違いなく武者震いだった。





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