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 崩れつつある部屋を飛び出し、元来た道をひたすらに駆けながらビビは顔を歪める。


(私が戻るまで、生きていて…!お願いよクオン、死なないで!!)


 ルフィ達は必ず助ける。絶対に見捨てない。けれど、クオンは。ひとり檻の外に残されたクオンを死なせないために切ったカードは、果たして正しいものだったのか、ビビには分からない。だがああしなければクオンは確実にバナナワニの腹の中に収められただろう。それだけは許せなかった。

 ビビの“命令”を受けて立ち上がった白い執事を思い出す。秀麗な顔に表情はなく、虚ろな鋼の双眸に感情の一切はない。
 主が放った“命令”を遂行するためだけの機械じみたそれを、過去に一度だけビビは目にしたことがあった。そしてそのとき、二度とクオンに“命令”などしないと固く誓ったのだ。─── その誓いを、守り通すことはできなかったけれど。
 クオンから絶対の“命令権”を与えられたあの日のことを、ビビは生涯忘れはしない。





† レインベース 8 †





「“命令権”?」


 その話題が2人の間に落とされたのは、1年前、クオンが王女の執事になると決めた日から少し経ってのことだった。
 執事として働くために日々精進し、丁寧とは言い難い素の口調を整えている最中の元傭兵がイガラムに頼んで2人きりの時間を作り、そうしてひとつの薬包紙をビビに渡してクオンは言う。


「カオナシの一族に伝わる秘伝の薬と、お前…んん、あなたの血を使ってこの肉体に刻むものです。少し面倒な手順を踏まねばなりませんが、それは追々。“命令権”を持つ者の“命令”を受けたとき、無意識にかけてあるリミッターを外すため通常の私より数倍強く、たとえ意識がない状態でも立ち上がり与えられた“命令”を遂行します。その権利を、あなたは持つべきだと判断しました」


 素顔を晒し、淡々と無表情に告げるクオンに、ビビは眉を寄せて渡された薬包紙を睨み、すぐにそれを突っ返した。
 いらないわ、そんなの。不機嫌そうに言うビビの手を握り、そっと押し戻してクオンは首を横に振る。


「バロックワークスに潜入している以上、何があるか分かりません。私はあなたを常に護るつもりで動くが、不測の事態というものはいくらでもある。そのときに後悔しては遅い。……の、です」

「素が出ちゃったクオンの困り眉可愛い」

「聞いてるのか?」

「聞いてるわ、私があなたの言葉を一言一句逃すわけがないじゃない」

「……ならいいが。はぁ、それにしても、敬語というのは慣れないな」

「たどたどしいの可愛くて好きよ。でも、もうすぐタメ口が聞けなくなるって考えるとすごくもったいないわよね」

「……」


 呆れた顔と視線を隠さずにそのままぶつけてくるクオンにビビはうっとりと微笑んだ。とろけた眼差しで愛を伝える、どころかドコドコ全力投球でぶん投げてくるビビにツッコむことを諦めたクオンがため息をついてひとつ咳払いする。


「とにかく、あなたには私の“命令権”を持ってもらいます。拒否権はありませんよ」

「私が主なのに」

「この私が膝を折ったのですからそれくらいの気概を見せなさい」


 執事のくせに尊大な態度で言い放つクオンを見上げ、うーん格好良い、としみじみするビビはどんなクオンでもイケる、そういうのっていいよね!と即座に頷く全肯定botを脳内に備えている。もはや本能だ。
 執事としてさまになっていくにつれてこういう態度も鳴りを潜めるようになるのだ、全力で楽しみ慈しみ愛さねば大損である。後々思い返してギャップに悶えるためにも心のシャッターと録音機は常に作動している。物理でも欲しいとイガラムにカメラと映像電伝虫をねだっているが、いまだ手に入る機会がないのが悔しいところだった。


「分かったわ。じゃあクオンと添い寝したいときに使ってもいいのね?」

「そんなことに使うな」

「そうね、命令するより頼んで頷いてもらった方がずっといいもの。クオンには、したくないと思ったことは絶対にさせたくないから」


 なめらかな白い手を取ってにっこりと笑えば、きょとりと鈍色の瞳を瞬いたクオンはやわらかく目を細め、口角をほんの僅かに上げて笑うと添い寝くらいなら問題ないと返した。じゃあ早速今夜、と身を乗り出したビビの額を小突いて「今夜は“命令権”の付与で無理ですね」と一蹴する。


「今夜というか、まぁ3日くらいは無理でしょう。その間、執事もお休みをいただきますね」

「え!?どういうこと!!?クオンがおはようからおやすみまで言ってくれないと一日頑張れないし眠れないんだけど!?死活問題よ!?」

「あなた今までどうやって生きてきたんです?……ああもう!これじゃ話が進まないだろう!」

「いちいちツッコミ入れてくるクオンがあんまり可愛くてつい」

(これからは適度に無視しよう)


 頬を染めて本音をぶちまけるビビの取り扱い心得を胸に刻んだクオンである。


「その薬を飲んで暫くは絶食に入ります。3日後にあなたの血を私が飲めばそれで終わりです。そうしたら、あなたの血を私に飲ませて“命令”をすれば、私はそれに従うようになるでしょう」


 そのときの口上や作法も一応ありますからね、難しくはないのであとで教えますと続けたクオンがビビに手を差し出す。秘伝の薬が包まれた薬包紙をぎゅっと握り締め、僅かの逡巡ののち、ビビはそっとクオンの手の平に薬包紙をのせた。


「ところでクオン、その薬って……」

「ん?毒薬ですが」

「没収!!!!!!!!!」

「させるわけないですよね」


 光の速さで伸びてきた手をさらりと躱し、ビビが届かないよう腕を上げて薬包紙を持ち上げる。クオンに身を寄せぴょんぴょんと跳んで何とか薬を奪おうとするビビを見下ろし、「なに、3日ほどのたうち回るほどの痛みが全身に広がって血液以外を一切受け付けなくなる程度ですよ」と何でもないようにとんでもないことを言うクオン「バカじゃないのカオナシの一族!!!」とビビは顔を歪めて叫んだ。自分が大変世話になった傭兵団を盛大になじられたが、純粋に自分を思っての発言だと判るからクオンは何も言わずに小さな微笑みを浮かべるだけで。
 毒薬を持つ腕にしがみついて体重をかけ必死に手を伸ばしてくるビビに従って腕を下げる。と、ビビが勢い余ってがくんと体勢を崩し、床に尻もちをついて倒れ込んだ隙に毒薬を口の中に流し込んだ。ああっ!!!と嘆く声を無視して毒薬を唾液と混ぜ、躊躇うことなく飲み込む。口内に残った薬もすべて胃の中に押し込んだクオンはゆっくりと腰を屈めてビビと視線を合わせた。膝に肘をのせ、頬杖をついて悪戯げに目を細めべっと舌を出す。


「飲んじゃいました」

「うう……クオンのバカ…おたんこなす…あんぽんたん…そんな顔しても許さ…ゆる……んぐぐぐぐぐ顔が良い好き許すけど許さないぃいいい」

「はははっ」


 床にダンダンと拳を叩きつけて悔しげに唸るビビに思わず破顔したクオンは慰めるようにビビの頭を軽く叩いて撫でる。ビビをそうした張本人による慰めに王女の顔が3割の怒りと7割の歓喜に彩られ、もっとと言うように手の平に頭が押しつけられて望まれるまま撫でてやった。

 しかし、その手がふいに止まる。心臓が痛いほど大きく跳ね、一斉に襲いかかる全身の神経を刺して抉るような痛みに顔を歪め、ぐっと息を詰めたクオンは小さな呻きをこぼして床に倒れた。
 日焼けを知らない白い肌は血の気を引いて青褪め、形の良い唇が青く変色していく。飲んだ毒薬の効果がまざまざと出ているのを自覚したクオンは、痙攣する瞼を押し上げると、血相を変えて顔を覗き込み必死に名を呼んでくるビビに、口の端を笑みの形に引き攣らせて震える手を伸ばした。


「いいです、ね…72時間はこのまま、そのあとに、あなたの……血を…それが、唯一の、解毒剤に…、ぐぅッ」

クオンクオン!痛いの?痛いわよね、ああ、どうしたら……ねぇ、私どうしたらいい?その痛みも必要なものなの?」


 痛みに強張る肩に手を添えて涙目で問うビビにかろうじて頷く。全身を食らい尽くすような痛みのあとの解放が、この肉体に“命令”を受け付ける機能を刻み込む。己の小さな相棒は苦痛に苛まれるクオンを見ていられず痛み止めを打ってしまいかねないから、最初から席を外させていた。
 あまり見たくはない光景だろうから、ビビもここを離れていい。あとは彼女の血さえあればそれで。
 もはや痙攣する唇では何も言葉を紡げず、何とか手を伸ばして示そうとしたクオンの手を、そっとビビの手が包んだ。のろのろと視線をめぐらせて見上げれば、相変わらず涙を湛えた瞳に譲らぬ意志を宿してクオンを見下ろす彼女がやわらかく微笑む。


「私もここにいるわ。いい機会だもの、クオンには私がどれだけあなたが好きか聞いてほしいの」

「……、……ぅ」

「ひと晩でもふた晩でも、いくらでも語ってあげるわ。どれだけ話したって語り尽くせないほどに、私はあなたが好きで、大好きで、愛してるのよ」


 ぜひとも思い知ってちょうだい。出会ったばかりでクオンのことをろくに知らないはずの彼女はそう言って、それから本当に三日三晩、ひたすらにクオンへ愛を説き、─── 3日後、苦痛から解放されたクオンがビビを膝枕で寝かし、甘く穏やかな眼差しと慈しむような手つきで彼女を撫でているところをイガラムは目にしたのだった。



 そうしてクオンへの“命令権”を手にしたビビは、それから3ヶ月後、それを行使する機会が訪れて初めて使い─── 心の底から後悔することになる。



 ウイスキーピークにやってきた、大きな海賊団。いつも通りの手順で罠にかけ一網打尽にする計画は、しかしうまく決まらなかった。
 海賊を歓迎し、酒と食べ物を振る舞い見目の良い女に相手をさせて油断させるところまではうまくいった。海賊はそのことにすっかり気を良くして町を気に入り、そして海賊らしくこう思ったのだ。
 ─── この町を、丸ごともらってやろう。

 誰が引き金だったのか、そのときその場にいなかったビビには分からない。けれど気づいたときには町一番の酒場では海賊達が不作法に暴れ回り、女子供が逃げ惑い、それを護ろうと立ち向かう男達は大なり小なり怪我を負っていた。
 厄介なのは、海賊達がそこそこの強さを有していたことだった。“偉大なる航路グランドライン”に入ったばかり、一本目の航路をようやっと越えてきた海賊にしては腕っぷしが立ち、町の人間達はことごとくいなされていく。
 どうやら“西の海ウエストブルー”で多少の経験を積んできたようだと、海賊の高笑いから察したクオンは酒場の外に移った騒ぎの中心に降り立ち、突然現れた妙な被り物をした真っ白執事に驚いた海賊達のうち数人を先手必勝とばかりに瞬時に薙ぎ倒した。
 常日頃の訓練に従い、クオンが現れた瞬間から町の人間達は統率の取れた動きでクオンを残してその場を離れ、力の差を見せつけたクオンは丁寧に町を出て行ってもらえるよう交渉したものの、圧倒的に数に分がある海賊達はせせら笑って武器を構えた。
 真っ白執事は少しだけ考え、そしてすぐに決断を下す。クオンと共にこの場に残った唯一の人間であるビビを横目に口を開いた。


「姫様、“命令”を」

「え?」

「この数を相手にするとなれば、さすがに町を無傷のまま戦うことは難しいと判断しました」


 ひとたび“命令”を下せば、無意識にかけていたリミッターを解除し普段より数倍強くなって遂行するという。
 クオンは強い。町の人間が全員束になってかかっても負けることはないだろう。しかし海賊もまた強く、数が多い。町の人間を護りながら、且つ建物などへの被害を抑えて掃討することは難しいと執事は言う。だから“命令”を、と。

 ビビは当然迷った。たとえ“命令権”を得ていたとしても、執事へ“命令”を下すつもりは一切なかったのだ。あくまで緊急時の切り札であり、だが今がそのときでもあった。
 海賊達はクオンが何かをするつもりだと察して総員殺気立ち、すぐさま飛びかかってこようとしている。悩む時間がないのはどう見ても明白だった。


「さぁ、姫様。“命令”を。以前教えた口上は必要ありません。意識がはっきりしていますのでね。あなたの血と、“命令”さえいただければそれで」


 クオンが言い終えると同時に飛びかかって来た数人を、クオンが悪魔の実の能力を使って宙に浮かんだ針を飛ばして貫き、仲間が傷つけられたことに激昂した海賊が武器を握り締めて駆け出してくるのを見たビビは、己の人差し指を切って血を出すと急いでクオンに駆け寄り、被り物をずらしてあいた隙間に差し込んで血を与え、そして何と“命令”すべきか一瞬悩み、迫って来る海賊を見てその言葉を紡いだ。


「『海賊をひとり残らず倒しなさい』」



 ─── そしてビビの目の前には、地獄が作り上げられた。



 被り物のない秀麗な顔に表情はなく、その白くなめらかな頬には幾筋もの返り血が這っておぞましいほど映えている。意識のないがらんどうの鋼の双眸は己が作り上げた地獄を前に異様なほどに凪ぎ、感情のにじみひとつ窺えない。真っ白だった燕尾服は自分のものと海賊の血に染まり、ぽたりぽたりと雫を滴らせていた。

 地面に転がる海賊達は、全員息をしていない。中にはいくつか首がないものもあり、真っ赤に染まった白手袋に覆われた手がたった今斬り落とした首を無造作に投げ捨て、怯えて震えることしかできない海賊の悲鳴と断末魔を容赦なく斬り捨てていく。能力と海賊の誰かが持っていた武器を手にひとつひとつ乱雑に物言わぬ骸を積み上げていくクオンの顔には、何の揺らぎもない。たとえその体がどれだけ斬りつけられ銃で撃たれ骨を折られても、苦悶の声ひとつ上げなかった。

 あふれる鮮血、転がる死体、鼻をつく血臭が胃を締め上げて吐き気を催す。
 やめて、と何度叫んだかビビには分からない。やめなさい、と喉が嗄れるほどに叫んでも真っ赤に染まった真っ白執事は止まらなかった。教わった口上と作法を行っても、一度下した“命令”の書き換えは叶わず、完遂するまで止まらないクオンはまるで、美しい機械人形のよう。
 傷を負っても臆することなく立ち向かい命を絶ちにくる執事に恐ろしくなり、慌てて逃げ出した者でも構わず得物を振るった。何とか船に逃げ込み島から離れた者達は、海面を走り追いついた執事に船を割られ全員が海の藻屑になった。
 ウイスキーピークに取り残され生き残った僅かな海賊達も、ひとり残らず執事に狩られている。


 地獄だと思った。


 目の前に広がる凄惨な光景は当然年若い少女の心に大きなショックを与えてはいたが、その光景自体が地獄なのではない。
 死体を積み上げ、血に濡れていく美しい自分の執事に己の声が一切届かず、最後のひとりの命を斬り捨てさせているのが己が下した“命令”のせいであることが、地獄だと思った。

 最近よく笑うようになってくれた。敬語もすっかり慣れて惑うこともなくなり、ビビのあふれんばかりの愛は時にスルーされるがきちんと受けとめられ、やわらかくゆるんだ眼差しはあたたかくなっていたのに。


 なのに─── 何だ、これは。


 私がクオンこれ・・をさせたのか。私が下す“命令”を間違えたから。クオンのことを、よく、理解していなかったから。

 ビビは目の前の凄惨な光景から目を逸らさなかった。自分がこれを執事にさせたのだ。そうするように命じて、ならばそれを見届ける責任があった。
 クオンがここまでするとは思わなかった、そこまでの力があるとは知らなかった、という言い訳をするつもりはない。
 無知は罪だという、その通りだ。それに自分は、知っていたのだ。分かっていたはずだった。クオンここ・・まで・・できる・・・と。

 クオンは最後のひとりの息の根を止めて“命令”を完遂し、そして糸が切れた人形のようにその場に倒れ込んだ。
 ビビは慌ててクオンに駆け寄るとその体を抱き起こした。血に染まった燕尾服から赤い汚れが移るのも気にならないほどに強く強く抱きしめて、あちこちが怪我だらけの、か細い呼吸を繰り返す意識のない執事の頬についた血を拭った。

 心の底から後悔した。こんなことをさせたかったわけではない。もう二度とクオンに“命令”なんかしない。おぞましい地獄を作らせたりはしない。
 そう固く誓ったビビは腕の中の痩躯を掻き抱き、ところどころ血がこびりついて固まった雪色の髪に顔をうずめて嗚咽をこぼし涙を滴らせる。

 暫くのち、様子を見に戻ってきた町の人間達の手によって海賊の骸は片付けられ、サボテン岩に刺さる墓標は一気に数を増やすこととなった。





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