118





 ビビがあわやバナナワニの餌食になりかけたところで鳴いた子電伝虫の向こう側にいたのは、Mr.プリンスと名乗る男だった。こちらクソレストラン、と言ったことから麦わらの一味の頭にはこの場にいないひとりの男が思い浮かぶ。
 そこでビビもサンジの存在を思い出した。今まで頭に血が昇っていて気づけなかったが、サンジの他にチョッパーもまだ外にいるはずだ。

 バナナワニはよく躾けられているようで、主人の通話を邪魔しないようにクロコダイルを振り返り様子を窺っている。その間に身を起こしたビビがじっと子電伝虫から伝わるサンジの声に耳を澄ませていれば、唐突に銃声が鳴り響く。次いでバロックワークスの人間らしき男の声がして、希望が潰えたのかとビビは息を呑み目を瞠った。だがすぐにかぶりを振る。


(……いいえ!)


 コック殿は頭脳型ですね、といつだったかクオンは言った。戦闘面はもちろんだが、単純で猪突猛進な船長と剣士を好きに暴れさせた上で状況を見極め、的確なフォローを考えつける知恵とそれを実行してみせる能力があると。それに、たとえ真実撃たれたのだとしても、それで簡単に倒れるような男ではない。そうであっては困るのだ、クオンがああもサンジを高く評価したのだから。

 切れた子電伝虫を前に笑ってカジノの正面ゲートに向かおうと振り返りこの部屋に戻ってくるクロコダイルを背に、目の前のバナナワニが主人を振り返っているのを見たビビは崩れた階段の向こう、檻の前で倒れている執事へと駆け出した。





† レインベース 7 †





「はぁ、は…!クオン!!」


 突然動き出したビビを鋭い目で睨み口を大きく開けたバナナワニの攻撃を何とか躱し、いまだ目を覚まさないクオンに駆け寄ったビビは檻のぎりぎりにまでクオンの体を寄せる。図体が大きなバナナワニだ、クオンを食べようにも口を開けば檻が邪魔で、その短い手足では引き寄せることはできず、尾で薙ぐにしても横たわる痩躯を狙うには己の巨躯が邪魔になっている。
 本当は檻の裏に運んだ方が一番いいが、そこに運ぶまでにバナナワニの口が迫れば避けるすべがない。今はここが一番の安全圏だった。

 思った通り、バナナワニは重なる獲物を前にどうやって食らいつこうか思案している。ビビはできるだけ姿勢を低くし、クオンの秀麗な顔を汚す血を自分の手が汚れることも厭わずに拭った。だが額からあふれる血は止まらず、美しい雪色の髪をまだらに染めている。クオンクオン、と呼びかけても、いつもやわらかい微笑みを返してくれる執事は何の反応もしなかった。


「ビビ、クオンを連れて逃げれるか!?このままじゃクオンが食われちまう!!」


 檻の向こうからルフィが血相を変えて言うが、ビビは首を左右に振った。あのバナナワニから気を失ったクオンを抱えて逃げられると思うほど自分の力を過信していない。途中でクオンが目を覚ますとも思えなかった。
 クオンは連れて行けない。だから置いて行く。そうしなければならない。けれど死なせることも絶対にできない。そのために、ビビはクオンの主としてやらなければならないことがあった。

 血のにおいにあてられたバナナワニがぎょろりと目を動かして獲物の隙を窺っている。低い唸りがすぐ傍でしていることを分かっていながら、ビビはただクオンの顔を見下ろし、大きく顔を歪めて唇を噛んだ。
 ぽたり、クオンの頬に赤い雫が落ちる。ビビの左の額からあふれ、頬を滑る鮮血が白皙の美貌を彩った。


「……」


 ゆっくりと息を吸い、吐いて、額の傷に指を当てたビビは走る痛みに顔を歪めながら傷を押して血をあふれさせ、赤く染まった指をクオンの口元に寄せた。反対の手でクオンの口をうっすらと開かせる。檻の向こうから感じる訝しげな視線を今は黙殺した。
 ぱたりぱたり、滴った血がクオンの唇を通って口内へと滑り落ちる。いくつかこぼれた赤い雫が紅を刷いたように唇に色を乗せた。少しの間を置いて、こく、と小さく白い喉が動いたのをビビは確かに認める。


「ごめん、ごめんなさい、クオン…!」


 己の血を執事に飲ませたビビはクオンの頭を抱えて抱きしめ、しかしすぐに身を離すと呆然とする仲間に説明する暇も惜しいとばかりに何も言わず背を向けて駆け出した。
 死んだように横たわる真っ白い人間と、動き回れる活きのいい人間。どちらを食らうべきか顔を振って悩むバナナワニへ、ビビは瓦礫の欠片を投げつけて気を引いた。


「こっちよ!」

「グルルルガァ!!」

「ビビ!!!」


 ビビの誘いに乗って突進してくるバナナワニの巨躯と噛み砕かれた階段の隙間を通り過ぎ、瓦礫を駆け上がって跳ぶと残った階段の部分に手を伸ばす。かろうじて掴むことができた手を必死に持ち上げ、首を振って口に入った瓦礫を吐き出すバナナワニに気づかれないようよじ登った。


「何する気だビビ!!」

「この部屋に水があふれるまでまだ時間がある!!外に助けを呼びに行くわ!!」

「そうだ…サンジが今のでくたばったとも思えねぇ!ビビがサンジを解放できれば…!」

「そうだわ、外にはチョッパーもいるんだもん、どうにかなるかも」

「けどよビビ、クオンは…!」

クオンは、……クオンは大丈夫…!」


 檻の外、すぐ傍で身じろぎひとつしないクオンを指すルフィに、泣きそうに顔を歪めてビビが頷く。
 外に向かうためにバナナワニに食いちぎられた階段を急いで駆け上がろうとした、その瞬間。


「おい!!危ねぇ!!!」


 背後から飛来するものに気づくことができなかったビビは、投げられた警告に反応することもできないまま、首をクロコダイルの鉤爪に引っ掛けられると勢いよく後ろへと引き戻された。


「ビビ!!!」

「ああっ!!」

「くだらねぇ真似するんじゃねぇ!!!」


 部屋の床に転がる瓦礫の山に叩きつけられ、口元から血をこぼしながらぐったりと倒れ込むビビを鉤爪を戻したクロコダイルが冷ややかに見下ろす。
 ビビは薄れそうになる意識の中、目を覚ませ、ワニが来るぞと叫ぶルフィとウソップの声を確かに聞いた。のしのしと巨躯を揺らして近づいてくる気配もする。
 崩れた階段を難なく乗り越え、せせら笑うクロコダイルの声が遠く、聞こえて。何かを言ったのだろう男に激昂するルフィの叫びが鼓膜を大きく震わせた。


(ここで、私が死んだら、みんなは、クオンは)


 霞みそうになる意識を必死に繋ぎとめる。
 死なせない─── その思いだけで目を開いた。
 今までずっと助けてもらったのだから、彼らを見殺してたまるものか。


「ウゥ……ウわああァ!!!


 気力を振り絞るように雄叫びを上げて立ち上がり、大きく口を開いて迫るバナナワニから間一髪逃れる。バゴン!!と瓦礫を噛み砕く轟音がしたが、今は気にしていられなかった。
 積み重なる瓦礫とバナナワニの背を跳び越えて再び階段へと上がると振り返ることなく急いで階段を駆け上がる。獲物に逃げられ不機嫌に唸ったバナナワニは僅かに身を引き、次の瞬間突進して残った階段を噛み砕いた。思わず悲鳴を上げ、大きく揺れて崩れていく階段を構わずのぼったビビは、水圧に負け部屋のガラスが次々と割れて水が入ってくるのを見て息を呑んだ。
 これでは20分もしないうちに部屋が沈んでしまう。それでも「ビビは無事かぁ!?」とこちらの安否を案じてくれる仲間に、ビビは崩れた階段の端から身を乗り出して叫ぶ。


「みんな!!もう少しだけ我慢してて!!必ず助けを呼んで来るから…!!私は絶対にみんなを見捨てたりしない!!!」

「……!!おう!!頼んだぞビビ!!!」


 仲間の応えを受け、その場に立ち上がったビビは静かな目で檻のすぐ傍に横たわるクオンを見下ろした。
 執事はいまだ目覚める気配がない。バナナワニは獲物をひとつ逃し、もうひとつにすぐさま牙を向けようとするだろう。そうなれば、クオンは。


「……ッ」


 できれば使いたくない手段だった。ビビはこれを絶対の禁じ手としていて、けれど、躊躇う時間すら今のビビにはない。だから行使するしか、ないのだ。
 階段に立ち竦むビビにルフィ達が顔を見合わせる。訝しげな視線が注がれているのが判って、そのすべてを意識の外に追いやったビビは鋭く息を吸って両手を打ちつけた。パァン!!と甲高い音が鳴る。空気を含ませて痛みをあまり感じずに大きな音を出す方法は、クオンから教わった。たとえ意識がなくとも、その体に届くようにと。


「─── アラバスタ王国王女、ネフェルタリ・ビビの名において、“カオナシ”のめぐし子、マシロ=クオンに命じます」


 いつになく固く低いビビの声がクオンのもうひとつの名を紡ぐ。
 この肉体に与えられた名は、きっと魂まで届くからと教わった。


「『生きなさい』。……私が戻るまで、絶対に、死なないで」


 短く簡潔な“命令”を下し、けれど縋るように付け加えた言葉は、紛れもない懇願だった。


 ――― 命令を確認/認証/受諾
 ――― 起動……エラー発生/エラー発生/エラー解除不可/一部機能制限……再起動
 ――― 中傷/稼働限界減退/自動修復機能減退/認識阻害有:中/本体意識沈降
 ――― 再起動

 ――― 命令を実行




「……ビビ?」


 ビビが執事へと下した唐突な“命令”に、そういえばビビは今まで一度もクオンに何かを命じたことがなかったことにナミは思い至った。基本的にクオンがビビの望みを読み取って先回りして叶え、わがままとも言える願いはクオンの意思を尊重し、たとえすげなく切り捨てられて駄々をこねはしても「これは命令よ!」なんて言ったことは一度としてなかったのだ。
 ビビが初めてクオンに“命令”した。その事実に驚くと同時、ゆらりと何の前触れもなく白い痩躯が起き上がって目を見開く。


クオン!よかった、目を覚ましたのね!……クオン?」


 ナミの呼びかけに、いつものクオンならやわらかな微笑みと共にご心配おかけしましたと言葉が返ってくるはずだが、クオンは檻に背を向けたまま佇み、その顔をビビに向けている。あふれた水に濡れた背中から放たれる空気にいつもの気安さはなかった。ぱたり、美しい雪色の髪をまだらに染める血が燕尾服に滴って汚す。

 気づけば既にビビの姿はない。立ち上がったクオンを見届けて、外に助けを呼びに行ったのだろう。残された執事は無言のまま宙を見ていたが、誰かの執事を呼ぶ声に反応しておもむろに振り返るとこちらを向いた。


「……ッ!」


 ナミはひゅっと息を呑んだ。ごっそりと表情が失せた、まるで精巧な人形のような秀麗な顔が観察するように檻の向こうから覗き込んでいる。閉ざされた唇は何の言葉も発さず、微かに赤く汚れているのはビビの血だろう。雪色の髪は水に濡れて頬にはりつき、額からあふれる血が赤黒く汚している。
 それに何より、異質なのはその瞳。ナミが知っているクオンの目はいつだって雄弁だった。やわらかく、あたたかく、そして甘い。たまに冷ややかに煌めくときもあるが、自分含めた仲間に向けられるのはいつだって優しいものだった。

 けれど今、目の前にあるのは。
 見慣れた鈍色の瞳ではない。
 真っ白執事の唯一の色は失せ、何の感情も宿っていない、残酷なほど虚ろに輝く─── 鋼色の、瞳。





  top