117





 たとえ己の相棒がどれほど痛めつけられ傷つこうとも、ハリネズミは海楼石の檻を齧るのを決してやめなかった。相棒が、クオンがそう望んだからだ。あまりに堅牢な檻を破って海賊達と海兵を解放するためではない。それができれば一番良かったが、今の自分ではかなわないことだとハリーはこの檻に歯を立てた瞬間に悟り、ひたすらに齧ることだけに集中した。
 柵の一部が少しずつ削れていく。それでも人ひとり分あけるにはあまりに時間がかかりすぎる。クロコダイルに頭を踏まれ、意識を失ったクオンを横目に、腹の奥で燃え上がる怒りを押し込めたハリネズミはようやく柵に人間の拳大の穴をあけた。


クオン!!……クオン、ねぇ、クオン!!!」


 柵に穴があいてもひたすらに歯を突き立て、齧り、悲鳴のような王女の声を聞く。力なく瞼を伏せ横たわる相棒の体を蹴り上げて転がす男を射殺さんばかりに睨むが、それでもやはり、ハリーは相棒に願われた通り、歯を立てて削り取った海楼石を咀嚼することなく呑み込んだ。





† レインベース 6 †





 クオンが気を失ったことでいくらかの鬱憤が晴れたらしいクロコダイルは、これから父親である国王にひとつ質問をするために首都アルバーナへ向かうという。これ見よがしに掲げて見せた鍵は今いる秘密地下のさらに下層のバナナワニの巣へと落とされ、海王類でも食物にするほど獰猛な動物である彼らをどうにかする力はビビにはない。クオンさえ目が覚めてくれたならと思うが、クオンは額からじわじわと血をあふれさせたまま固く目を閉じて起きる気配がなかった。
 反乱を止めるためには急ぎアルバーナへ向かわねばならないが、この部屋は1時間かけて自動的に水没するという。鍵をバナナワニに食われ、檻から出る手段を持たないルフィ達はこのままでは死んでしまう。

 罪なき100万人の国民と仲間の命を天秤にかけられ、救えてひとつ、いずれも可能性は低く、自分の非力さに歯噛みしてどうすればいいのかと絶望するビビを、クロコダイルはさらに追い詰めていく。
 ユバの町は度重なる砂嵐に襲われ枯れかけている。では、その砂嵐は、そう何度もうまく町を襲うと思うか?と。
 ─── スナスナの実の能力者であるクロコダイルは、己の手の平の上で小さな砂嵐を生み出して嗤った。

 それを見て目を見開いたビビの心に、大きなひびが入る。砂に覆われた町でひとり、元のオアシスを取り戻そうと黙々と砂を掘る男が脳裏に浮かぶ。幼い記憶の中の彼と大きく違う、体も顔も痩せこけて疲れきった、深い皺が刻まれた男が。
 お前がやったのか、と怒りに満ち満ちた声を震わせるルフィの声もどこか遠く、ビビは唇を噛んで唸った。殺してやる、殺してやりたい、お前なんかが、どうしてこの国を。

 視界の外で床からあいた穴から水があふれ出てくるのも構わず、檻の中で騒ぐウソップの声も届かず、愉快そうに笑いながら部屋を出て行き遠ざかっていくクロコダイルの背を、ビビは視線だけで殺せるのなら何度も殺したほどに睨みつけた。

 国か仲間か、とクロコダイルは言った。だが、どうせ何も返してくれる気などありはしない。この命だってアルバーナへ着く前に奪うつもりだと分かっている。クロコダイルを殺さなければ何も終わらない。殺してやりたい、殺してやりたい、殺してやりたい!何も知らないくせに!!この国の人達の歴史も、生き方も、何も知らないまま奪おうとしている、あの男───!


クオンクオン、私、どうしたらいいの)


 檻の前で気を失ったまま目覚めない執事にビビは目を固く閉じて胸の内で問いかける。
 得物を構えたとして、あの男に攻撃が通じないことはクオンの一射で分かっている。一矢報いることすらできずに見送ることしかできない自分が悔しかった。


クオン、なら)


 震える手を握り締め、開いた目でクオンを見やる。
 気を失ったままのクオン。クロコダイルになすすべなく嬲られてしまった、私の執事。
 どく、と嫌な音を立てて心臓が跳ねた。

 ビビにはひとつだけ、手段があった。
 自分では勝てない。殺せるはずもない。けれどクオンなら。ビビが“命令”を下せば真っ白執事は立ち上がり、そしてクロコダイルの首に手をかけてくれる可能性がある。
 しかし、けれど、だが─── それは。

 できない。

 嫌だ。それは、それだけは。絶対に。

 けれど、では、いったいどうしたらいい。
 クオンから無理やり視線を引き剥がして固く目を瞑る。ウウ、と低い呻きが漏れた。


「ビビ!!!何とかしろっ!!おれ達をここから出せ!!!」


 耳朶を突き刺す声に、はっと目を見開いたビビが呆然と声の主を振り返って彼の名を呼ぶ。
 言葉だけを聞くならば、それは紛うことなき命乞いだ。タイムリミットはすぐそこに迫り、クオンは動けず、ビビはバナナワニにすら勝てない。その状況をどうにかして己を助けろと言う。
 クロコダイルもそう思ったのだろう、足を止めることなくクハハハと笑声を上げた男は、ついに命乞いを始めたか麦わらのルフィ!と嘲笑い、「そりゃそうだ、死ぬのは誰でも恐ぇもんさ…」と続けて、しかしルフィはクロコダイルに目もくれず真っ直ぐにビビを射抜くように見据えたまま叫んだ。


「おれ達がここで死んだら!!!誰があいつをぶっ飛ばすんだ!!!」


 その言葉に、ビビは目を瞠った。ぴくりと反応したクロコダイルが足を止めてゆっくりと振り返る。


「……自惚れるなよ。小物が……」

「……お前の方が小物だろ!!!」


 2人の男の距離は遠く、それでも肌を焼くような圧にこくりと唾を呑んだビビはもう一度クオンを見た。
 クロコダイルを討つためにクオンに“命令”は下さない。だから代わりに、何としてでもルフィ達をこの檻から解放しなければ。
 ルフィと同じように、クオンはクロコダイルを小物と言った。この国の王とは認めないと。それを違えさせるわけには、いかない。
 唇を噛み、覚悟を決めたビビは顔を上げて立ち上がった。
 しかし、クロコダイルが指を鳴らして通路から上がってきたバナナワニを目の前にしてざっと青褪める。


「さぁ、こいつらを見捨てるなら今のうちだミス・ウェンズデー。反乱を止めてぇんだろう?……ハハ」


 小さく湧いた希望すら打ち砕かんとするクロコダイルに従い、バナナワニが眼前に迫る。海王類ですらその口の中におさめてしまう獰猛なそれの巨躯に心臓が不穏に跳ねた。自分の何倍あるだろう。小さな山ほどもあるそれに手が震える。


「よし勝て!!ビビ!!!」

「無茶言うなでかすぎるぜ!!!」


 檻の中からルフィが声援を飛ばし、それにウソップが目を剥いた。それもそうだとすぐに考えを翻したルフィは逃げろ無理だと叫び、でも助けてくれと無茶を言う。窓の外ではビビをエサとみなしたバナナワニの列ができているのが見えたようで、恐ろしいことをウソップが告げて眩暈すら感じた。


「おいクオン!!クオン起きてくれよ、ビビが大変なんだよクオン!!!お前も食われちまうぞ!!!」


 ビビが敵わないとなると唯一の頼みの綱であるクオンの肩を、狭い檻の柵から手を伸ばしてルフィがばしばしと叩く。だがクオンの痩躯は小さく揺れるだけで呻き声ひとつ上げなかった。じわりと頭部から広がる血が傷の深さを物語り、それを見たウソップがあんまり揺らすなと慌ててルフィを止める。


「ハリー!お前あいつら何とかできねぇのか!?」


 ウソップがいまだ檻の柵に齧りついているハリーに問うが、ハリーはウソップに目もくれず口の動きを止めない。“偉大なる航路グランドライン”産の普通ではないハリネズミは少しずつ海楼石の檻を齧り取っているものの、この部屋が沈むまでに人が通れるだけの隙間ができるとは思えなかった。


「ゴオオ!!!」


 バナナワニが大きく唸り口を大きく開け、動く獲物であるビビを標的に定めたバナナワニに自身の武器を構えたビビだったが、その図体からは想像できないほど瞬時に肉迫したバナナワニに身を翻して巨大な口から逃れた。
 鋭い牙がずらりと並ぶバナナワニの口が大階段を噛み砕く。頑丈な石でできたはずの階段はクッキーを噛み砕いたように食いちぎられ、バナナワニの顎の強さにぞっと背筋を冷やしたビビがさらに間合いを取ろうとして、死角から飛んできた尾に弾き飛ばされた。
 尾だというのに鈍い音が響いて重い衝撃が走る。きゃあ!!と悲鳴が漏れ、間を置いて全身に痛みが駆け抜けた。床を転がり、痛みに呻きながら身を起こそうとすれば、バナナワニが噛み砕いた階段の破片に頭をぶつけたようで左の額からぽたぽたと血が垂れた。


「うおおおクオン!!!頼むクオン起きてくれ!!ビビがやべぇんだクオン!!!」

「頼むクオン~~~!!!ビビが死んじまう!!!ていうかお前もやべぇんだよクオン!!!」


 やはりビビでは相手が厳しいバナナワニがじりじりと迫るのを目にしたルフィが檻から手を伸ばしてクオンを揺さぶる。今度はウソップも止めずにクオンに取り縋った。しかし、やはりクオンは瞼を閉ざしたまま目覚めない。
 クオンさえ目を覚ませばどうにかなる。けれどクロコダイルに深い傷を負わされた執事は意識を闇に落としたまま浮上できず横たわっている。
 このままではビビはもちろん、クオンも危ない。蹲ったまま起き上がれないビビに鼻先を寄せたバナナワニが獲物を食べようと口を開こうとした、そのとき。
 ─── プルルルル、と緊張感のない高い声が響いた。










 時を少し遡り、レインディナーズの奥の部屋へ王女と執事を連行したユダはそのまま踵を返してカジノ店内へと足を踏み入れた。
 ざわめく人の波を無表情に歩く。視界の端に映った黒服が怯えたように身を縮こまらせて引き下がっていくのを目で追うこともせず意識の内からも消し、さて、あいつらはどうやって脱出するのかと思考をめぐらせる。
 気配を探っただけだが、檻の中には麦わらの一味全員の数はなかった。数人は別行動しているのだろう。偶然か意図してのものかは分からないが、船長の気質的に前者寄りだろうかとぼんやり思う。ああいう手合いは大体行き当たりばったりだ。難しく考えるよりも突っ走った方がらしいというもので、それで結局は何とかなるのだから理不尽さすら覚える。ゴーグルの下でユダの眉がひそめられた。


「……」


 思わず脳裏に浮かんだ男にため息をこぼし、騒がしいカジノを抜けて橋を渡る。
 麦わらの一味全員があの檻に収められていないのであれば、あとはどうとでもするだろう。そういえばそのことをクロコダイルに言い忘れたな、と思いはしたが、別に仲間でもないのだから別にいいかと足を止めないまま町を歩く。どうせクロコダイルがあの執事相手に穏やかな会話ができるとは思えないので、以前手を出すなと言ったユダの言葉を無視した代償ということにしよう。
 愛嬌があるようで間の抜けた被り物を被った執事を思い出すと同時、右の脇腹が鈍痛を訴えて一瞬息を詰めた。シャツに覆われたそこに右手を添える。素肌をあらわにすれば青黒い痣ができているのが見えるだろう。そこの下にある骨は折れていた。執事本体の攻撃は然程重くはなかったが、悪魔の実の能力によって威力を増した蹴りは男の骨を砕くには十分すぎた。


「どちらへ向かいますか」

「アルバーナだ」

「はっ」


 ふいに物陰から声をかけてきた人間に驚くことなく端的に返せば、フードを深く被った、以前電伝虫で会話をした女の子飼いは従順にこうべを垂れて身を翻す。ユダはそのあとを歩調を変えずに追った。
 町の東には子飼いが用意したアルバーナへの乗り物があることだろう。それを使って向かい、その地で遅れてやって来るはずの真っ白執事を待つ。そこで、己の目的を果たさなければならない。
 ユダはゴーグルに覆われた目に不穏な光を浮かべ、手に持った赤い槍を指が白くなるほど固く握り締めた。





  top