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 上部には三角形が2つ、頬部分には左右対称に3本の線が、そして黒い2つの目とωな口元だけを描いた猫を模した被り物が宙に放物線を描いて飛んでいく。愛嬌があるようで間の抜けたそれは檻にぶつかってころころと床を転がり、やがて止まる。

 あらわになった短い雪色の髪が揺れる。人工の光に照らされて美しく輝く髪が煌めき、同色の柳眉は意志の強さを表すように吊り上がっている。人外じみた、あまりに美しい秀麗な面差しに表情はなく、引き結ばれた薄い唇は紅を刷いておらずとも赤みを帯びて、極上の陶器さえ劣るだろう白くなめらかな肌によく映えていた。髪と同じく雪色の長い睫毛に縁取られた目許は険を帯び、貫くように真っ直ぐ据えられた鈍色の瞳は剣呑な光に満ちているのを目にしたクロコダイルは大きく目を瞠り、次いで耐え切れないとばかりに笑声を上げた。


「クハハハハハ……!!まさか、まさかとは思ったが!!本当にてめぇだとはなァ!!!」


 心底愉快だと言わんばかりに笑うクロコダイルと宙吊りになったクオンを交互に見るルフィ達の中でひとり、真っ白執事の素顔を目にした男が愕然と瞠目したことに気づいた者は、誰もいなかった。





† レインベース 5 †





 ガシャァン!!!


「ぐ…っ」

クオン!!」


 胸倉を掴まれたままルフィ達を捕らえる檻の柵に体を押しつけられたクオンは、全身から力が抜けていくのを自覚して内心舌打ちした。ただの柵ではないだろうと思っていたが、まさか海楼石とは。これではルフィ達が出られず歯噛みしているのも仕方がない。
 体から力が抜け、宙吊りになった体はさらに気道が締まる。苦しげな息を細く吐いたクオンがそれでも鋭い眼差しでクロコダイルを睨めば、男はせせら笑うように口の端を吊り上げた。


「なぜてめぇが王女の手駒になって海賊なんぞと一緒にいる。また・・おれの邪魔をしに来たのか」

「……何の…話です…」


 海楼石の檻に白い痩躯を押しつけ、覗き込むように顔を近づけながら凄むクロコダイルの鉤爪に力の入らない手をかける。この檻が海楼石でできているのなら、体勢を翻し位置を入れ替えることさえできれば勝機はある。そのための隙を窺い、意味の分からないことを言う男を睨みつけた。
 剣呑に煌めく鈍色の瞳に何を見たか、クロコダイルはふいに表情を消し、クオンを宙吊りにしたままその腹に膝を叩き込んだ。


「ぅぐ…!」


 鈍い音と共に白い痩躯に太い男の足がめりこむ。海楼石の檻が鈍い音を立てて軋み、ろくな受け身も取れずやわらかな内臓が潰されて低く呻いたクオンはせりあがる吐き気を必死に呑み下した。秀麗な顔が苦痛に歪み冷や汗が滲む。背後からルフィの激怒する声が耳朶を打ったが、キンと耳鳴りを引き起こした鼓膜はうまく音を拾えなかった。
 骨は折れなかったことに安堵しつつ、こぼれそうな呻き声を歯を食いしばって耐える。視界の端で顔を青褪めさせたビビが見えて、それに大丈夫だと微笑み返そうとしたクオンを一瞬檻から離したクロコダイルがもう一度叩きつけるように檻にぶつけた。ダメージを負った内臓が揺れて鋭い激痛が走る。


「執事。執事だと?王女の執事を、てめぇが?膝を折ったってのか?お前ともあろう者が、国を救うために? ─── ハッ!!何の冗談だ!!!」

「……ッ…」


 嘲笑うように吐き捨てて揺さぶられ、痛みを覚えるほど強く檻に押しつけられたクオンは息を詰める。何かを言おうとして開いた唇からは苦悶のにじんだ吐息だけがこぼれた。


「お前!!それ以上クオンに触んな!!」

「……随分と海賊と仲良しじゃねぇか、なァ」


 檻に掴みかかって怒鳴りつけるルフィを一瞥したクロコダイルに見下ろされ、クオンは浅い呼吸を繰り返しながらくっと口の端を吊り上げ挑発するように笑った。


「なに、か…不都合、でも?なにぶん、記憶がないもので…あなたが何のことを、仰っているのか…」

「ハ、成程な」


 鼻で笑い、同じ目線に揃う程度に腕を掲げたクロコダイルが鼻先が触れるほどに顔を近づけて嫌な笑みを浮かべる。


「知らねぇんなら教えてやる」

「やめて、クロコダイル!!!」


 途端、顔を真っ青にしたビビが鋭く叫ぶ。クロコダイルはビビを一瞥し、愉快げに唇を歪めて嗤った。姫様、とクオンが呟いた声は誰にも届かない。
 ビビはイスの後ろで組まれた腕を縛られたまま身を乗り出して叫ぶ。やめて、やめなさい、それ・・を口にするのは許さない、と。鬼気迫るビビを、しかしクロコダイルはやはり無情に切り捨ててクオンに向き直った。その笑みに歪んだ口から、檻の中の仲間達にも聞かせるようにはっきりとした声が放たれる。


「てめぇの正体を教えてやろうじゃねぇか。なぁ、─── 海軍・・本部・・准将・・、“雪狗ゆきいぬ”のクオン


 クオンの鈍色の瞳が凍りついて大きく見開かれた。
 海軍本部、准将。その単語の意味が脳にしみて、否応なく理解して、息を呑んだ。
 呼吸をすることも忘れて絶句するクオンを眺め、ルフィ達の顔にも驚愕の色が浮かびクオンの背を凝視するのを見てクロコダイルは満足そうに頷く。そこに、割って入るように男の声が轟いた。


「おい待て!そいつが雪狗だと!?ふざけんな、瞳の・・色が・・違う・・だろうが!!!」


 眉間に深いしわを刻み、咥えた葉巻を噛み締めて身を乗り出したのは、先程あらわになったクオンの素顔に驚愕していた海兵、海軍本部大佐のスモーカーだった。クロコダイルはちらとスモーカーを一瞥してクオンの顔をよく見せるように檻に押しつける。


「よく見ろ、この顔がふたつとあってたまるか。瞳の色が違う?そんなものは些末なことだろうが」


 クオンの胸倉を掴んでいた手を離し、ずるずると檻に背を預けて床に座り込む執事の顎を足で持ち上げる。凍りついた鈍色の瞳が揺れていた。


2年前・・・にてめぇが突然消息を絶ってからいよいよ死んだと思っていたが、まさか王女の執事になんざ身を落としているとは思わなかったな。だがまぁ、記憶がねぇのなら納得だ。ありえねぇ地位にいて、ついでに顔も隠されてちゃ、海軍どもが血眼でてめぇをいくら捜しても見つかるわけがねぇ」

「……そいつをどうするつもりだ。雪狗は見つけ次第海軍本部に引き渡すよう命令が出ている。七武海も同様だ。大将赤犬直々の命令に背くことはてめぇでもしたくねぇだろう」

「そうだな。おれもそんなリスクは負いたくはねぇ。……が、お前も言った通り、こいつと雪狗は瞳の色が違う」


 檻越しに交わされる2人の会話に、誰も口を挟めない。聞き逃せない言葉が次々と出てくるが、それに詳細を問えるような雰囲気ではなかった。
 クロコダイルはスモーカーに向けていた目をクオンに下ろし、凄惨に嗤う。


「瞳の色が違うんなら、そう・・だと・・思わず・・・誤って・・・殺してしまっても仕方ないと思わねぇか。海賊と一緒にいたんだ、まさか海兵だとは思わねぇだろう?」

「お前…!」

「それに、おれは3年前、こいつに斬りつけられた傷の痛みをまだ忘れちゃいねぇんでな」


 左腕でシャツに隠れた右腕を撫でたクロコダイルが忌々しげに顔を歪める。


「ああそうだ、あのときからてめぇは王女にご執心だったな。『この国に手を出せば腕だけでは済まない』、だったか……クソガキに脅されて屈辱だったが、タレこまれても面倒だからより慎重に水面下で動かざるを得なくなった。2年前に雪狗確保の命令が出たことで失踪を知り、計画を進められたがな」


 さて、どうしてくれようか。いたぶって殺すもよし、王女の目の前で殺すもよし、このまま海賊どもと一緒に始末してもよし。ああそれとも、全員の目の前で犯してやろうか。
 俯くクオンの雪色の頭頂部を見下ろして愉しそうに候補を挙げ連ねるクロコダイルに檻の中から殺気が飛ぶ。どうやら記憶を失くした海兵を仲間だと思っているらしいが、実にくだらない、そしてどうせ何もできやしない。ひと際鋭い圧を向けてくる麦わらの男と三本刀の剣士を眺め、鼻で笑ってクオンの髪を掴んでその顔を拝もうとしたクロコダイルは、白い肩が小さく揺れていることに気づいて眉を寄せた。


「……は、ははは、はははははっ」

「……何がおかしい」


 真っ白執事が形の良い唇をいびつに吊り上げて笑っている。海楼石の檻に身を預け、美しい顔を上げてクロコダイルを見上げたクオンはゆったりと鈍色の瞳をたゆませた。これが笑わずにいられるものかと言うようにくつくつと喉が鳴る。しかしその瞳に浮かぶものは、紛れもない冷笑だ。


「それで、記憶のない、人違いかもしれない私で憂さ晴らしをしようというのですか。よしんば私があなた達の言う“雪狗”だったとして、過去の私にできなかったことを、その屈辱を今の私で清算しようと。今の私ならば誰に咎められる恐れもないから」


 ああ、それは、あまりにも。


「─── 小物だな、お前」


 浮かんでいたすべての表情を消し、鈍色の瞳だけを苛烈に煌めかせたクオンは今まで誰にも向けたことのない、地を這うような低い声音で吐き捨てた。
 長身の男を顎を上げて見上げ、しかしその眼差しは見下すそれで。足を投げ出して座り込んだ痩躯は海楼石のせいで気怠げであるのにあまりに尊大。明らかな力の差を分かっていながら傲慢にも言い放ったクオンに、クロコダイルの顔色が変わった。余裕の構えを崩さなかった男の目が据わる。


「その目……そうだ、その目だ!!」


 激昂と共に振り上げられた足がクオンの右脚に叩き落とされる。鈍く固い音が響いて、折れはしなかったがひびは入ったなとクオンは冷静に判じた。
 次いで腹に食い込もうとした爪先を何とか手の平で受けるが、ろくに力も入らない手では大したクッションにもなりはしない。内臓が再び衝撃を受けて悲鳴を上げたが歯を食いしばって呻きひとつこぼさなかった。


「3年前のあのときから、てめぇのその目を忘れたことなんざ一日もねぇ…!」

「……私は、お前を、この国の王とは認めない」


 痛みにつかえながらも吐き出した冷徹なひと言は、この国に理想国家を打ち建てようとしている男の逆鱗に触れた。
 瞳孔を開いた男の目を譲らぬ意志でもって睨みつければ、胸元に重い蹴りが入る。内側から響く鈍い音と痛みにさすがに肋骨が何本か折れたことを察したが、顔には出さなかった。それがまた男を苛立たせたのだろう、首を掴まれて体が持ち上げられる。喉の奥からせり上がる血の味を呑み下し、爛々と光る鈍色の瞳で睨みつけると、視界の端に金色が走った。


クオン───!!!」


 耳朶を叩く誰かの声がビビのものだと理解したと同時、振り上げられた鋭い鉤爪の先端がクオンの右こめかみから眉の上までを一文字に引き裂いた。あふれ出た鮮血が白皙の美貌を濡らしていく。脳が揺らされて思惟を削られたクオンはそれでも何とか痛みに集中して意識を繋ぎ、首から手を離されて崩れるように床に蹲った。

 全身に痛みが走る。内臓がきしきしと悲鳴を上げて、荒く細い呼吸は濁っている。脚は折れていないが、無理に動かせば砕けるだろう。ただでさえユダとの戦闘で多少削れていたところにこれだ。
 一瞬でも気を抜けば意識が飛ぶのを判っていて、それでもクロコダイルを睨み上げれば、なすすべなく床に這いつくばるクオンを見下ろしながら振り上げられた足が頭に落ちてきたのを最後に、クオンの意識は闇の底へと叩き落とされた。





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