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 床に転がされたビビを目にし、瞬間的にクオンの脳が怒りに燃え、しかし横から轟いた悲鳴のような怒声で王女の名を呼ぶ男が飛び出していくのを見て僅かに理性が戻った。
 ─── 違う。ミス・オールサンデーはビビの体をその手で貫いたように見えたが、本当に貫通させたわけではない。鮮明に思い出される肢体に穴はなかった。貫けば飛び散る血しぶきも、肉片も、どこにもありはしなかったのだ。
 それに、そうだ。今も穂先をクオンに突きつけているユダはクロコダイルに王女と執事を会わせることを是とし、ミス・オールサンデーもまた、2人を屋敷に招待したいと言った。おそらくはクロコダイルが望んだそれを、彼らが反故にすることはない。
 冷静に回転を始めた頭がそう答えを出し、怒り狂うアラバスタの戦士を止めようと口を開いたときには───


「アラバスタの砂になれ!!!」

三輪トレス咲きフルール


 彼女の能力によって、隼は空を飛ぶすべを奪われ建物の屋上に転がされていた。





† レインベース 4 †





「動くな」


 やはり殺されてはいなかったビビが起き上がるのを見て足を動かしかけたクオンを低い声が制する。クオンは被り物越しにユダを睨みつけた。
 ご丁寧に己がハナハナの実の能力者であると明かし、実際に己の体に数本の腕を咲かせるミス・オールサンデーはアラバスタ王国最強の戦士を前にしても余裕の表情を崩さない。それはビビの傍からクオンを引き離し続けているユダの存在だけではなく、過大評価せず己の実力を見極めた上でのものだ。つまりは、ミス・オールサンデーはペルを相手に敗けるとは微塵も思っていないし、クオンもまた、彼女の能力を垣間見て相性が悪いことを悟った。


「お前も王女も必要以上に傷つける意図はない。大人しくしていろ、あれを片付けたらお望みの場所に連れて行ってやる」

「それは……随分とお優しいことで」


 屋上で向かい合うミス・オールサンデーとペルを眺めることしかできないクオンの精一杯の皮肉を、ユダは鼻を鳴らして切り捨て、いびつに口の端を吊り上げる。

 ミス・オールサンデーとペルの戦いはすぐに幕を下ろした。否、あれは戦いというにはあまりに一方的すぎた。
 己の体の一部を好きな場所に咲かせることができるミス・オールサンデーは、建物にも相手の体にも己の腕を生やして関節を掴みペルの動きを完全に止め、抵抗を封じられた男の体に関節技を叩き込んで地に沈めた。おそらくあの能力を前にしては、力も速度も関係がない。クオンはやさも、もしかしたら通用しないのかもしれなかった。流石は王下七武海のひとり、クロコダイルがパートナーとするほどの女だ。

 血を吐いて意識を落とされたペルの体が力なく屋上に転がる。王国最強の戦士も大したことないわねと笑うミス・オールサンデーに愕然として目を見開くビビが縋るようにクオンを見るが、ユダに槍の穂先を突きつけられているクオンはゆっくりと首を左右に振って投降を指示した。そんな、とビビの口が呆然と動く。


「さぁ…行きましょうか…社長ボスとあなたの仲間達が待ってるわ」


 コツ、コツ、とゆっくりとビビに歩み寄りながらミス・オールサンデーが笑う。レインディナーズの檻の中で、と続いた言葉にクオンは眉を跳ね上げた。
 先にカジノに辿り着いたルフィ達は捕まったのか。そう簡単にやられるような彼らではないが、罠の類の搦め手には弱いですからねぇとその筆頭且つ船長のルフィを思い浮かべたクオンは緊張感なく苦笑しようとして、しかし口の端が僅かに引き攣っただけだった。






 連行された先は当初の目的地、レインディナーズ。ビビを先頭にミス・オールサンデー、クオン、そして背後にユダと固められ、ビビを奪い返す隙を窺うもその機会はついぞないまま、カジノの最奥まで案内されたビビとクオンはとある扉の前で一度足を止めた。
 道中、拘束はされていない。だがクオンの背に刺すような気配が常にまとわりつき、指一本動かせば即座に取り押さえられるだろうことは分かっていた。自分がそうなるならばいいが、手の届かない場所にいるビビに危害が及ぶ可能性を考えれば、真っ白執事は大人しく付き従うしかなかった。

 果たして、扉の向こうにはこの国の“英雄”にして真の黒幕─── 王下七武海のひとり、クロコダイルがゆったりと鎮座していた。
 顔面を横断する大きな傷、オールバックの黒髪、左手首の先には金色に光る鉤爪。成程あの男が、とクロコダイルを初めて見たクオンは目許に険を宿す。

 扉を開ければ目の前には大きな長い階段があり、それに合わせた広大な部屋が広がっている。クオンは被り物の下で視線を走らせた。辿って来た経路と下に続く長い階段から見て、この部屋はおそらく地下。窓から望めるのは薄暗い青で、ちらりと窓の端を何かが掠めた。それが生き物だと認めると同時に、ここが水の中であることを知る。これでは窓を突き破って逃げるという方法は取れそうにない。

 部屋には巨大な檻が据えられていて、その中に見慣れた姿がいくつもあるのをクオンは見た。どうなって彼らがその状態になったのかは分からないが、とりあえず今のところ命の危険はなさそうでそこは安心する。大人しく囚われたままということは、あの檻や柵はそれなりの加工が施されていそうだ。それが何なのかに思考を巡らせるクオンの思考は、ビビが「クロコダイル!!」と憤激に燃える声を上げたことで途切れる。


「ビビ、クオン!!」


 こちらの存在に気づいたのだろう、檻越しにルフィの声がする。背後でゆっくりと扉が閉められ、入ってきた気配はひとつ。横目に見やればミス・オールサンデーだけで、どうやらユダは席を外したようだ。だからといって、この場で今すぐ暴れるほどクオンは短絡的ではない。ひとまずは様子を窺わなければルフィ達の救出もままならない。
 クロコダイルは椅子に座したまま、薄ら笑いを浮かべてこちらを見上げて軽く両手を広げた。


「…やぁ…ようこそアラバスタの王女ビビ。いや…ミス・ウェンズデー。よくぞ我が社の刺客を掻い潜ってここまで来たな」

「来るわよ…!どこまでだって……!!あなたに死んでほしいから……!!Mr.0!!!」

「死ぬのはこの下らねぇ王国さ、ミス・ウェンズデー」


 口の端を吊り上げ冷ややかに嗤笑するクロコダイルに、ビビが一瞬息を呑んで目を見開く。ぶわりと噴き上がった怒りと殺気に、彼女の動きを予測していたクオンは慌てることなくビビの肩を掴んで駆け出しそうになった痩躯を止めた。


「いけません、姫様」

「止めないで、クオン!あいつが…!ッ、お前さえこの国に来なければ、アラバスタはずっと平和でいられたんだ!!!」


 止めるクオンを振りほどこうともがき、クロコダイルを睨みつけて絶叫するビビを、しかしクオンは決して離さなかった。
 ビビの怒りは分かる。だがクロコダイルに一矢報いることすら彼女にはできない。それを分かっていて飛び込ませることはできず、しかしいまだ未知数な彼の情報を少しでも得るために、クオンはひらめかせた指に挟んだ針を放った。
 音もなく空を切って飛んだ針が瞬きの間もなく眼前に迫り、クロコダイルが目を瞠る。瞬間、針はクロコダイルに刺さる前に破裂した。


 ボンッ!!


「え…!?」

「……成程」


 簡易爆弾の針は、あっさりとクロコダイルの顔面を粉々に吹き飛ばした─── 否、椅子に腰かけたままの体もさらさらと砂のように崩れていくのを見て、驚くビビを腕におさめたまま、眼差しを厳しくしたクオンは宙に浮かぶ砂がこちらに集まってくるのを見てビビの背中を押し、階段から突き飛ばした。
 突然の執事の暴挙に、クオン!?とルフィ達が驚愕に声を揃える。だがビビの体は階段に打ちつけられることなく大きな弧を描いて最下段まで一気に落ち、その落下も床から数cmあけてぴたりと止まったかと思えばゆっくりと下ろされる。はっとしたビビが体を起こして階段を見上げれば、クオンの背後に人ひとり分ほどの砂が集まっているのを見た。砂人間、と呻くように絶叫したのはウソップだろうか。


「おーおー、随分と好戦的だな執事殿。……だが王女から聞いていねぇか。この国に住む者なら誰でも知ってるはずだぞ、このおれのスナスナの実の能力くらいな」


 その通り、クオンはビビにクロコダイルの能力を聞いてはいたが、実際に攻撃してみて爆弾すらも効かないとなれば有効手段は少ないと知った。こうなれば海に突き落とすか、あるいは何かしらの弱点を探らなければ倒すことは不可能だろう。
 うなじを掴まれ、首に引っ掛けるように突きつけられた鉤爪が鈍く光るさまを見下ろしながら、背後に立ったクロコダイルを被り物越しに睨む。


「コラお前ぇ!!!クオンから離れろぶっ飛ばすぞ!!!」


 檻の柵を殴りつけて騒ぐルフィに意識を向けず、怯えるでもなく、体を強張らせるでもなく、静かに殺気を振り撒きながら佇む執事に目を細めたクロコダイルは執事の胸倉を掴んで引きずるように階段を下りる。クオンはそれに抵抗はしなかった。
 何をするでもなく一連を眺めていたミス・オールサンデーも階段を下り、呆然とするビビを後ろ手に拘束してイスに座らせる。
 ビビの向かいに足を進めたクロコダイルに胸倉を掴まれたままのクオンは、小さな声でハリーの名を呼び、意図を察したハリネズミはすぐさまクオンの肩から飛び降りてルフィ達を閉じ込める檻の柵に歯を立てた。ガガガガガガ、と人の指程度なら容易に噛み千切ることができるハリネズミが鈍い音を立てて柵に齧りつくが、ほんの僅かに欠ける程度で噛み砕くにはだいぶ時間がかかりそうだ。一心不乱に柵を齧るハリネズミをクロコダイルが鼻で笑う。

 クオンは檻を正面から見て、その中にサンジとチョッパーの姿ないことに気づいた。同時に、なぜかいる海兵の姿も。どうせルフィを追ってきたのだろうが、それでクロコダイルに捕まってしまうとは何と言うか、ご愁傷様である。
 なすすべなく座ることしかできない自身と捕まったクオンに歯噛みするビビがクロコダイルを強く睨み、それにそう睨むなとクロコダイルが嗤う。


「ちょうど頃合い……パーティーの始まる時間だ。違うか?ミス・オールサンデー」

「ええ……7時を回ったわ」


 懐中時計を手に、ビビの傍らに陣取るミス・オールサンデーが宣言するように告げる。それが何を意味するのか分からず訝しげな顔をする一同を一瞥し、クロコダイルは実に愉しそうに説明した。
 いまだ足を留めている反乱軍の背中を押すための企て。王の失踪、反乱軍の拠点で行われる王に扮した者による暴挙、町に突っ込む武器商船。その裏での王の誘拐・・と、武器を携えた反乱軍を迎え討つために民に武器を向けることを決めた国王軍。
 決して王は悪くはないのだと、たとえ信頼が失われつつあっても踏み留まっていた彼らの足元を瓦解させるための作戦を悠々と語り聞かせる。


「どうだ、気に入ったかねミス・ウェンズデー。君も中程に参加・・して・・いた・・作戦が今、花開いた…耳を澄ませばアラバスタの唸り声が聞こえてきそうだ!」


 蔑み高ぶる感情につられてか、胸倉を掴むクロコダイルの手に力がこもる。ぎり、と気道を絞められて息を詰めたクオンは被り物越しに凄惨な光を宿すクロコダイルの目を、凪いだ鈍色の瞳で見ていた。


「そして心にみんなこう思っているのさ。おれ達がアラバスタを護るんだ…!アラバスタを護るんだ!!アラバスタを護るんだ!!!」

やめて!!!なんてひどいことを……!!」


 ただただ国を想って武器を手に取る民を嘲笑う男にビビが絶叫する。耳を塞ぎたいのだろうが、拘束された手ではそれはかなわない。


「ハハハハ……!!泣かせるじゃねぇか…!国を想う気持ちが、国を滅ぼすんだ」

「…外道って言葉はこいつにぴったりだな」


 吐き捨てるように紡がれたゾロの言葉にクオンも内心で頷く。
 この男が何の目的で、何を思ってひとつの国を乗っ取ろうとしているのかは知らない。知ろうとも思わない。考えることすらない。王女として民を想うビビを嗤ったのだ、それだけで敵対するには十分すぎる。
 しかし実際問題、ルフィ達は檻の中、クオンには自然ロギア系の能力者に対抗するための手段がなく、そしてミス・オールサンデーもいる。さて、どうやってこの男をぶっ飛ばせばいいのかと物騒なことを考えるクオンを、ふと、クロコダイルの冷えた目が見下ろした。


「王女だけではなく、てめぇをここに呼んだのはな、執事野郎。その間抜けた被り物の下にあるツラが見てみたかったからだ」

「……」

「抵抗はするな。王女を殺されたくはねぇだろう」


 右手で胸倉を掴まれ、ぐっと引き上げられる。クロコダイルとは相当な身長差があるためにクオンの足が宙に浮いた。それでも呻き声ひとつ上げずに被り物越しに睨みつけるクオンの被り物に鉤爪をかけ、クロコダイルは真っ白執事の被り物を弾き飛ばした。





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