114
バロックワークスの社員達がなすすべなく真っ白執事に次々と倒されていくのを眼下に眺め、ミス・オールサンデーはうっそりと微笑んだ。
「お姫様を迎えに来たけれど……あれじゃあ近づけそうにないわね」
「……」
「お願いできるかしら?
ユダ」
ミス・オールサンデーの傍らに佇む、濃灰色の短い髪をした男は無言のまま、褐色の手に持つ槍を構えるとゴーグルの下にある目を真っ白執事に据えた。
† レインベース 3 †
オフィサーエージェントどころかフロンティアエージェントですらないバロックワークスの社員達は、執事が駆けながら四方問わず投げられた針に武器を取り落とし、体の一部を貫かれて地面に沈み、その痩躯から繰り出された脚と拳に軽々とぶっ飛ばされていく。仕留めるどころか足止めすらできずに崩れ落ちる男どもを振り返ることもなく、ビビを背に庇いまたひとり目の前に立った男を蹴り飛ばして近くの建物の壁に叩きつけた
クオンは、被り物の下でふうと息を吐いた。
ザコに変わりないが、やたらと数が多い。王女がいると判ってこちらに数を割いたのだろう、どこにそんな数がいたのかと思うほどわらわらと虫のように湧き出てくる。足止めを食らっているというほどではないが時間がかかっているのは事実で、これはビビを抱えてカジノまで走った方がいいかと燕尾服についた砂を払った
クオンは、瞬間顔を跳ね上げてその場から跳び退った。
ゴッ!!!
一拍遅れて
クオンがいた場所に勢いよく降ってきたのは、柄が赤い大きな槍。
クオンの被り物を貫いて余りある穂─── 刀身の部分を地面に深く埋また槍を見た
クオンはさらにもう一歩その場から離れた。
ビビを背に庇えば、ひりつくほどに張り詰めたその場に音もなく降り立つ影がある。黒に近い濃灰色の短い髪、鍛えられた褐色の肉体、顔の上半分を覆う濃いレンズのゴーグルをかけた長身の男───
ユダ。
(今ここで、この男が出てくるとは)
針を指の間に構え、内心呻いて歯噛みする。上位ナンバーのオフィサーエージェント達はこの国を乗っ取るために国民を煽り、国王軍と反乱軍をぶつけようとしているはずだ。ゆえにこの国の“英雄”たるクロコダイルがこの町にいても、彼らは首都近辺に潜伏するだろうと踏んでいたのだが。そういえばこの男は目的があってクロコダイルと組んでいるだけで、部下というわけではなかったことを今更思い出した。
男の身の丈ほどもある大きな槍は相当な重量があるはずだ。しかし
ユダは地面に穂を埋めた槍を特に力を入れた様子もなく引っこ抜き、無造作に振って土を払う。ゴーグルによって隠された目が間違いなく自分に据えられていることを
クオンは疑わなかった。
「あ?なんだ兄ちゃん、おれ達の邪魔するつもりか?」
緊迫した空気で睨み合う2人に割り込み、バロックワークスの社員のひとりが
ユダに突っかかる。手柄を取られる、あるいは王女と執事の味方をされるとでも思ったのか。どう見てもそんなわけがないことが分からない男は銃を片手に
ユダに凄み、
ユダはそちらを見ることもなくひと言も発さず槍を振って男を薙ぎ払った。重く鈍い音と同時に上がったぐげッ!!?と濁った悲鳴は、周囲にいた男達を巻き込んだことでもういくつかの悲鳴を招く。そのすべてを無視して、やはり
クオンは
ユダを真っ直ぐに見据え相対していた。
「構えろ。大事なお姫様を殺されたくはなければな」
「───!」
発された低い声が耳朶を打ち、槍を構えた
ユダが地面を蹴る。瞬時に肉迫した
ユダが振るう槍を針の背で迎え撃った
クオンはすぐさま己の悪魔の実の能力を発動して槍を阻んだ。だが
ユダは驚いた様子もなく再び槍を突き出す。陽の光を浴びて煌めく白刃を捌いて受け流し、体勢を崩そうと狙うも
ユダの体幹はぶれることはなく。ガキンキンキンガキッ、と鋭く甲高い金属音だけがその場にこだまする。
槍という長物の弱点を突くために懐に飛び込もうとした
クオンの足を
ユダの長い足が払おうとしたことに気づいて慌てて跳び退る。そこを狙って槍が突き出され、体を捻って何とか躱した。
一進一退、どころか軽く流されているのが自分であることに
クオンは唇を引き結ぶ。今は
ユダと
クオンの間に誰も割って入ろうとはしていないが、
クオンの後ろにいるビビは別だ。
ユダが現れた瞬間にビビの肩に飛び移ったハリーが辺りを警戒しているため今はまだ誰も手を出していないが、それも時間の問題だろう。
クオンも、
ユダの相手をしながらビビを庇う余裕があるとは言えなかった。
できることならビビを抱えて今すぐにここを離れたい。しかし
ユダを撒くのは難しいことも分かっていた。カジノまで追ってこられれば、クロコダイルを相手にしなければならない今、挟み撃ちになりかねない。
ユダはなぜかビビではなく
クオンを標的に定めている。それは好都合だ。ならば、どうにかしてビビだけでも逃せば。たとえビビを
ユダが狙おうとも足止めくらいはできるはずだ。その間に既にカジノに着いているだろうルフィ達と合流さえできたなら。
「姫様、走れますね」
「……!」
油断なく
ユダを見据えながら短く言葉を落とせば、はっとしたビビが目を見開いて息を呑む気配がした。意図を察したのだろう。
おそらく荒れ狂っているだろうその内心を気遣うことはせず、槍を持つ手に僅かに力が入ったのを見逃さなかった
クオンはすべての針を
ユダに向かって飛ばした。音速を超え、刹那の時間を置いて己に迫った針を、
ユダは表情を変えることなく槍で払い落とす。そこに
クオンが飛び込めるだけの隙はない。だが、周囲を囲むように位置取るバロックワークスの壁の一角を、ビビが駆け抜けれる程度に崩す一射を放つ程度の時間はあった。
ビビが駆け出し、
クオンは指に挟んだ紅く燃える1本の針を彼女の進行方向に向かって放つ。地面に刺さった針は瞬間、大きな火柱を上げた。
乾いた暑さの中に灼熱が混じる。王女が動いたことでざわめいたバロックワークスの数人を巻き込み、巻き込まれなかった、ビビを追おうと足を向ける彼らに向かって針を構えた
クオンはしかし、目の前に飛び込んできた男の槍を左手を翳して止めることに意識が逸れた。
左手がほんの数cmあけて穂を押し留める。槍を弾き飛ばすほど強く能力を発動しているというのに、槍はぴくりとも動かず拮抗している。
七分丈のシャツの袖から覗く腕に、僅かに血管が浮いた。同時に
クオンの能力を押し破って穂先が迫るのを見た
クオンが全霊をかけて槍を留めた瞬間、無防備な横腹に重い蹴りが入った。
「ぐ……っ!」
吹き飛んだ体が地面を滑り、内臓が軋んで悲鳴を上げる。跳ねるように数度地面を転がった
クオンは瞬きの間もなく体を起こすと、振り下ろされた槍の追撃を円形に形作った針の盾で防いだ。ガキィン!と耳障りな金属音が響き、殺せなかった衝撃で針の数本が壊れて半分以上にひびが入る。槍と針の盾がせめぎ合ってギシギシと軋む。
体勢を低くしたまま、
クオンは被り物越しに
ユダを睨んだ。
ユダは無表情に
クオンを見下ろしていて、ゴーグルに覆われた目は見えない。蹴られた横腹がひどく痛むが気にする余裕などなかった。
(姫様は)
隙になると分かっていて、それでも
クオンは
ユダから視線を外して先程
火針を投げた一角を見た。
クオンの針によって蹴散らされたそこに向かって走る背中と、執事がいない間が好機と王女を仕留めるために追うバロックワークス。
クオンは奥歯を噛んだ。ビビも元フロンティアエージェントだ、多少は戦えるが、あの数を相手にするのは分が悪い。ビビの肩から降りたハリーが針を飛ばして応戦しているが、その小さな身ではいくら普通でないハリネズミでも自分の身を護るのが精一杯だ。
今すぐに駆けつけたい、しかしそれを目の前の男が許さない。この男を倒すためにはすべてを懸けて臨まなければならないが、そうなればビビをも巻き込むかもしれなかった。その躊躇いが、
クオンの体を鈍くさせる。
自分だけではビビを護れない。誰か、ひとりでもいい。ゾロはまだ海兵達の相手をしているのか。だから追いついてこないのか。
頼みますと海兵達の相手をゾロに任せ、ビビのことは自分が必ずと請け負ったのにこのていたらく。弱い。あまりにもこの肉体は足りていない。
─── この程度の相手に、このざまとは。
針の盾が槍に薙ぎ払われて砕かれ、跳び退った
クオンの体が掻き消えるよりも早く槍の穂先が次々と繰り出される。ひとつひとつが重い突きを針の背で滑らせ捌きながら、能力を使い続けているというのにものともせず抵抗を斬り裂く
ユダに背筋が冷える。ミシ、と自身の肋骨が軋む音を確かに聞いた
クオンは被り物越しにも判るほど大きな舌打ちをした。
視界の端でビビがバロックワークス相手に戦っている。執事のことは振り返らない。それでいい。けれど、このまま足止めを食っていてはならずものの手に落ちかねない。
針を投げるか。撃ち落とされるだろう。
ハリーに任せるか。小さなハリネズミでは女ひとりを護りきることはできないだろう。
目にもとまらぬ疾さで駆けつけるか。腕の一本は覚悟するべきだろう。─── 安いものだ、決して喪い難いものを護れるのであれば。
クオンの鈍色の瞳が覚悟に染まり、そして─── 唐突に、風を切って飛来する何かに、気づいた。
ドドン!!
唐突に響いた銃声に、ギャア!と太い悲鳴が上がる。はっとした
クオンが顔を上げ、同じく
ユダもまた空を仰いだ。
それは鳥だった。成人男性ほどの大きさを有した鳥は両翼の下にガトリング銃を携え、王女に手をかけんとする地上の不埒者どもを撃ち抜いていく。ビビは流れ弾ひとつなく正確な射撃を繰り出す鳥に大きく目を見開き、喜色を広げると花開くような笑みを浮かべた。
何で鳥がガトリング銃を、でけぇ、撃ち落とせ、と耳障りにうろたえ怒鳴る男達は鳥を迎撃しようとするが、鳥はガトリング銃を捨てて男達をあしらい、ビビを掬い上げて空に舞い上がった。しまった!!と誰かが叫ぶ。
クオンは鳥の姿を追う
ユダを前に気を張りながらも建物の屋上にビビを抱えて降り立った鳥を見て、その鳥が人間の男の姿を取ったのを認めて成程
動物系かと目を細めた。
お久しぶりですビビ様、と鋭い目で眼下を見下ろしながら男が言い、ペル!!とビビが安堵したように男の名を呼ぶ。味方だ、それもアラバスタ王国の重鎮と見ていいだろう。
懸念がなくなった
クオンはすぐさま意識を切り替え、こちらから完全に気を逸らしてじっとトリトリの実の能力者の男を見ていた<
ユダに向かって足を振り上げた。はっとした
ユダが振り返り槍を構えるよりも早く、その横腹に蹴りが叩き込まれる。ゴギ、と鈍い音がして地を滑っていく
ユダを油断なく見据えながら
クオンは燕尾服の尾を払った。
「バードウォッチングとは随分と余裕がおありのようですね。それとも、空が飛びたいのであれば手ずから飛ばして差し上げますが?」
「……不要だ。空に浮かんだところで、結局人は地を這うことしかできない生き物だからな」
大したダメージも見せずに立ち上がり、服についた土を払った男はこきりと首を鳴らす。
「アラバスタ最強と名高い戦士もまた、なすすべなく地を這うことになる。憐れなものだ」
「……?」
何の感慨もなく静かに落ちる言葉に
クオンは被り物の下で訝しげに目を細めた。視界の外でペルという名の戦士がバロックワークスの男達を瞬く間に沈めていき、その実力は名声に違わぬものだというのが判る。特に構えた様子もなく槍を手に佇む男と渡り合えるかと聞かれたら、無言を返すが。
だが、空を駆けるすべを持つ男が馳せ参じてくれたことは幸運だ。ビビを任せて先に行かせ、ルフィ達を合流させることができる。そうすればあとは、目の前の男をどうにかすればいい。
針を手に算段をつける
クオンを一瞥し、
ユダは唇の端を歪めて鼻で笑った。
「なぜそうも楽観的でいられる。傭兵として培ってきたものはどうした。ここにいるのがおれひとりだけだと、どうしてそこで思考を止める?」
「─── は」
「…この国の英雄殿は、王女と執事との謁見をご希望らしい」
皮肉を乗せた声音は紛れもない嘲りだ。
ユダが顔を上げてビビの方を向き、つられるように目を向けた
クオンは、ビビの傍に立つひとりの女に気づいて目を見開いた。副社長、と地に伏した誰かが呻く。冷ややかな微笑みを浮かべて見下ろしてくる女は、ミス・オールサンデー─── バロックワークスの
社長であるクロコダイルのパートナーだ。
「……ッ!」
顔色を変えた
クオンの鼻先に槍の穂先が突きつけられる。身じろぎひとつすればその槍はこの被り物を貫くと本能的に悟って体が強張った。
被り物が犠牲になる程度ならいい。だが
クオンが能力を発動してその場から消えるのと首を掻き斬られるのはどちらが早いかなど、槍の動きが追えなかった
クオンには考えるまでもないことだった。
「…もう使い物にならなそう…大切な社員なのに」
ペルに倒されたバロックワークスの社員達を見下ろし、ミス・オールサンデーは白々しく嘆く。しかしその口元には美しい笑みが刷かれ、すぐに己の部下達から興味を失くしたように視線を外すとペルに据えた。
「よければ王女様とそこの執事さんを私達の屋敷へ招待したいのだけれど、いかがかしら?」
「下らん質問をするな。問題外だ」
ミス・オールサンデーの提案をペルは即座に切り捨て祖国の敵を睨みつける。その答えが予想通りだというように変わらぬ笑みを浮かべるミス・オールサンデーへ、不意を突こうと己の武器である
孔雀スラッシャーを左手の小指に構えたビビが「ナメんじゃないわよ!!!」と飛びかかるも、ミス・オールサンデーに「まあ、お姫様がそんなはしたない言葉、口にするものじゃないわ」とあっさり手首を掴んで止められ、
クオンは思わず叫ぶ。
「姫様!!」
「だって、
クオン…!」
被り物越しに放たれた焦燥と制止のにじむ声音は正確にビビに届いたのだろう、ミス・オールサンデーの右手に手首を掴まれたビビは悔しげに顔を歪める。よくもイガラムを、と激情に燃える目でミス・オールサンデーを睨みつけるビビの内心は察することはできたが、彼女のもとに駆けつけられない今、敵を刺激するような真似は控えてほしかった。
イガラムという名を聞き、一瞬訝しげな顔をしたミス・オールサンデーは、すぐに思い当たったようで「ああ…Mr.8…」と自分が始末した裏切り者のナンバーを口にする。それに怒りをにじませたのはペルだ。まさかお前がイガラムさんを、と低く唸る男を一瞥し、ミス・オールサンデーは酷薄に笑う。
「何をそんなにむきになるの?あなた達がうちの社員達にしたこととどう違うのかしら。おかしな話…!」
嘲笑をにじませ、ビビの手首を掴む手に力をこめてぐいと引き起こしたミス・オールサンデーの左手がビビの胸元に突き込まれ─── 少女の肉体を白い手が貫くさまを、
クオンは呆然と見ることしかできなかった。
← top →