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 クオンとゾロが仲間が眠る部屋に戻ってきたときにはまだ誰も起き出しておらず、2人は無言でそれぞれの寝台にもぐり込んだ。
 ビビの腕に抱えられていた被り物を取って彼女の隣に横たわったクオンは、ぬくもりを求めてすぐさま伸びてきた腕を受け入れ、胸元に顔を埋めてもにゃもにゃと寝言を呟くビビの背をゆるく撫でる。


(そういえば、剣士殿と手を繋いでしまいましたね)


 昨日、クオンと手を繋いでいいのは私だけと主張したビビを思い出して内心呟き、まぁバレなければいいだろうと気にしないことにした。
 この建物に辿り着いた頃に離した剣士の手の感触と、彼の少しだけ高い体温がまだ己の手に残っている気がする。
 固い、大きな男の手だった。あたたかい手だった。無遠慮に触れても拒絶せずなされるがままで、それをいいことに好き勝手にしたが、結局クオンから離すまでゾロは文句ひとつ言わなかった。
 薄暗い室内で、ビビを腕に抱き込みながらクオンは自分の手を見つめる。主を抱きしめているのに、脳裏に浮かぶのはひとりの男で。ああこれはまるで、本当に「浮気」のようだと、なんだかまたおかしくなったクオンは小さく吐息のような笑みをこぼすと、手に残ったぬくもりを逃さないように握り締め、口元に寄せて目を閉じた。





† ユバ 8 †





 クオンとゾロが再び寝台に入って暫くもしないうちにひとりふたりと起き出し、クオンも自然と目を覚ましたふうを装って起き上がった。クオンとの久しぶりの添い寝を名残惜しみあと5分だけと駄々をこねるビビにまた今度してあげますからと約束をして宥め、まだ眠たそうにしているウソップやルフィは容赦なく叩き起こして、トトやラクダ、ワルサギも交えて共に朝食をとった。
 ナミとビビとクオンはサンジが多少手を加えたことで他の面々よりも少し豪華なものになり、それにぶーぶー言うルフィとウソップはいつものことで、賑やかな朝食にトトが楽しそうに頬をゆるめる。腹が十分に満たされるほど食べられるのも、こうしてわいわいとした朝食も、随分と久しぶりだとこぼしたトトに「反乱を止めて、国が落ち着いたらきっとこれが当たり前になるわ」と微笑むビビを、クオンもルフィ達も無言で眺めていた。


「おっさん、これやるよ」


 ルフィが簡潔にそう言い、食料と水を置いていくと決めたことに誰も異議を唱えなかった。あ、でも肉はもらっていくなとしっかり肉を確保するルフィに慌てたのはトトで、これからまた砂漠越えをするのにもらえないと固辞するトトに、また町に行くからいいんだとルフィは取り合わなかった。反乱を止めるために急がないといけない現状、身軽であった方がいいとクオンも無言でルフィの行動を支持する。
 遠慮するトトと置いていくの一点張りのルフィ、押し問答にすらならないその末に、ルフィの意思が固いと悟ったトトは分かった、ありがとうと涙目で礼を言い、ルフィはにっと口角を上げて「ああ!」と笑った。


「すまんねビビちゃん…とんだ醜態を見せた…」

「ううん、そんなこと……」


 出発の時間となり、町の入口でビビとトトが挨拶を交わす。私達行くわ、とビビが言って頷いたトトは、ふとルフィに目をやると「ルフィ君、これを持って行きなさい」と小さな樽を差し出した。ルフィが両手で受け取り、中身が液体であることに気づいて「うわっ、水じゃん!!」と笑みを浮かべる。
 トトの話を聞けば、どうやら昨晩、外に出て行ったルフィはトトに付き合って砂を掘っていたようで、ルフィが掘った穴は湿った地層まで辿り着き、それを蒸留して水を搾り出したという。それでも小樽一杯分程度の水にしかならなかったが、正真正銘ユバの水だ。そしてまだ、ユバは完全に枯れたわけではないという証拠でもある。
 トトの話はルフィにとって難しいようであまり理解していなかったが、とにかく頑張って水を作ってくれたのだと大切なことは理解して「ありがとう、大切に飲むよ!!」と感極まりつつしっかりと礼を言う。

 誰からともなく踵を返し、一行はユバに背を向けて足を進める。ビビがトトに向かって大きく手を上げ、トトもそれに応えて、真っ直ぐに前を向く王女の傍でクオンも歩き出した。

 陽は高くなり、何もない砂漠は灼熱のようだ。それでも確実に歩を進めていた一行だったが、ユバが完全に見えなくなった頃、ふいに砂漠に生える枯れた背の低い木にどかりとルフィが凭れて座り込んだことで動きを止めた。何やってんだお前、と仲間が声を上げる。

 クオンも足を止めてルフィを振り返った。被り物越しに向けた視線の先では、どうにも常の彼にしては珍しい、何やら難しい顔をしている。具合が悪くなったわけではなさそうだが、いったいどうしたのか。
 急ぎの旅路だと分かっているのに座り込んで立ち上がる気配のないルフィにクオンが小さく首を傾け、空を飛んでいたワルサギが何事かと降りてくる。ゴア、と訝しげに小さく鳴いたワルサギの嘴に手を当てて閉ざさせた。


「……?どうしたの…?ルフィさん」


 ルフィのもとに寄ったビビが問いかける。クオンはその場に留まり、隣に立ったゾロと共にルフィの様子を静かに窺った。
 然程の時間も置かず、ルフィは宙を見つめたまま口を開く。


「やめた」

「は!!?」


 突然のその宣言に誰もが驚き、しかしクオンとゾロは軽く目を瞠っただけだった。


「『やめた』って…!?ルフィさん、どういうこと!?」

「おいルフィ!こんなとこでお前の気まぐれに付き合ってる暇はねぇんだぞ!!さぁ立て!!」


 顔色を変えるビビとルフィに詰め寄って怒鳴るサンジを一瞥し、「戻るんだろ」とルフィが静かに問う。そうだよ、とサンジが肯定した。昨日来た道を戻り、カトレアという町で反乱軍を止める。そうしなければ100万人もの人間が激突し戦争となる。だから、国を想うビビのために行かなければならない。そう続けたサンジの言葉を、「つまんねぇ」とルフィは一刀両断した。
 何を!!?と凄むサンジを無視し、ルフィは静かにビビの名を呼ぶ。なに?とビビが返し、そしてルフィは。


「おれはクロコダイルをぶっ飛ばしてぇんだよ」


 揺るぎないその声に、ビビの肩が跳ねたのを、クオンは見た。
 動揺するビビを置いて、ルフィは滔々と続ける。反乱軍を止めたとして、クロコダイルは止まるのか。カトレアという町に着いたところでルフィ達がすることは何もない。彼らは海賊、むしろいない方がいいくらいだと。
 クオンもそのことは分かっていた。分かっていて口には出さなかった。真っ先に狙わなければならない先を分かっていて、それでも反乱軍を止めたいというビビの意思を尊重した。なぜならクオンはビビの執事で、叶う可能性がゼロではないと判断した彼女の願いを優先したいと思っていたのだから。

 ─── けれど。
 クオンは凪いだ目で向かい合うビビとルフィを見た。


「お前はこの戦いで、誰も死ななきゃいいって思ってるんだ。国の奴らも、おれ達もみんな」

「……!」

「七武海の海賊が相手で、もう100万人も暴れ出してる戦いなのに、みんな無事ならいいと思ってるんだ。─── 甘いんじゃねぇのか」


 ルフィの淡々とした言葉は、ビビのやわらかなところを容赦なく突き刺していることを分かっていて、クオンは止めなかった。
 クオンはビビの本当の願いを、心の底に押し込めたものを拾い上げることはできない。なぜならクオンはビビの執事で、執事だからこそ、彼女が口にした以上の願いを引き出すすべを持たなかった。分かっているのに、彼女がクオンに願わないから、クオンにその願いを叶える力が足りないから、知らないふりをすることしかできない。

 ビビの心を刺すルフィにナミがちょっとルフィ!と声を荒げ、それをサンジが止めるのを視界の端に入れ、クオンは音が鳴るほど固く手を握り締める。怒りではない。この胸にあるのはただひとつ。


「何がいけないの!?人が死ななきゃいいと思って、何が悪いの!?」


 フードを取り声を荒げてルフィを睨むビビを真っ直ぐに見つめ返し、やはりルフィは淡々と言葉を紡いだ。


「人は死ぬぞ」


 パンッ!!


 高い音が鳴り響く。ついに感情を抑えきれなくなったビビがルフィの頬を張り飛ばしたのだ。


「やめてよ!!そんな言い方するの!!!今度言ったら許さないわ!!今それを止めようとしてるんじゃない!!!」


 肩で息をし、眉間にしわを寄せて眉を吊り上げビビは怒鳴る。反乱軍も国王軍も、この国の人達は誰も悪くないのに、なぜ誰かが死ななきゃならないの!?悪いのは全部クロコダイルなのに、と。
 張り飛ばされて砂に転がっていたルフィが起き上がり、悲痛な声で叫ぶビビを「じゃあ何でお前は・・・命賭けてんだ!!!」と怒鳴って殴りつけた。
 クオンは反射で動きそうになった体を無理やり抑えつける。
 殴られたビビが驚いてのけぞるが、すぐにルフィに掴みかかって地面に押し倒すことができるほどにはルフィの拳は手加減されたものだ。ビビを殴ったことでやりすぎだと叫んだウソップがクオンを振り返って止めるよう言うが、クオンはただ、暴れるビビとルフィを佇立して眺めるだけで。その被り物の下でどんな顔をしているかは、誰にも分からない。


「この国を見りゃ一番にやんなきゃいけねぇことくらい、おれだって分かるぞ!!!」


 確信を突き、心を刺し、ビビの感情を剥き出しにさせるルフィの言葉を止めさせるようにビビがルフィの顔をひたすらに叩く。
 もうここまで来たらお互い止まらないだろう。止めるつもりも、きっとルフィにはないのだ。王女の顔をして笑うビビの虚勢を殴り飛ばして、心の底に押し込めていたものを引きずり出すまで。


「本当はクオンを巻き込むつもりだってねぇくせに!!お前なんかの命1個で賭け足りるもんか!!!」

「じゃあいったい何を賭けたらいいのよ!!!」


 は、とクオンは小さく息を呑む。ルフィの言葉を否定しなかったビビに鈍色の瞳を瞠り、ひめさま、と唇を動かし音もなく彼女を呼んで、けれど主は執事の音なき声を認めることはできずに目の前の男と対峙している。


「他に賭けられるものなんて私、何も…!!」


 苦しげに唸って手を止めたビビをがしりと掴み、ルフィが叫ぶ。


「おれ達の命くらい一緒に賭けてみろ!!仲間だろうが!!!!」


 その言葉で、ビビの張り詰めていた心が決壊した。口を手で覆い、水分を増した瞳から涙がこぼれる。ウイスキーピークでイガラムが燃える海に消えたときでさえ流すことはなかった少女の涙を認めたルフィはビビから手を離し、なんだ出るんじゃねぇかと呟いた。涙、と続いた単語に、慌ててフードを被り俯いて顔を隠すビビの頬には幾筋もの涙が流れている。力なく座り込み、肩を震わせて泣くビビのもとにナミが駆け寄るのが見えて、しかしクオンは縫い留められたように動くことができなかった。


「本当はお前が一番悔しくて、あいつをぶっ飛ばしてぇんだ!」


 ビビの心の底の願いを代弁するルフィは少し離れた位置に落ちていた麦わら帽子を拾い上げて砂を払う。クオンはビビの背に手を当てるナミを見て、燃える意思を滾らせるルフィの背を見た。


「教えろよ、クロコダイルの居場所」


 麦わら帽子を被り、砂の果てを睨むルフィから目を逸らしてクオンは瞼を伏せる。握り締めた手は固まったように動かない。胸の内で渦巻くものがビビに寄り添うこともできずにクオンの体をその場に押し留めていた。

 クオンはビビの執事だから、彼女が願うことしか叶えられない。ましてや、彼女の本心を無理やりにでも引きずり出すことなどできやしない。涙を流さず気丈に耐える彼女を支えることはできても、思い切り身の内を叫ばせて泣かせることなど、できるはずがない。


(私は、姫様の執事だから)


 彼女が執事になってと願ったから膝を折った。一切の濁りのない、心からの愛をくれるから傍に侍ることを了承した。与えられるものを享受して、返して、「良いもの」を近くで見ることができて、だから王女の執事であることに不満など何一つなかった。それ以外を望むことはなかった。

 けれど。
 執事であるがゆえに、己の事情に巻き込むことを躊躇われ、彼女の心からの願いを暴くどころか手を差し伸べることもできない。自分ではない誰かがそうするのを、眺めることしかできない。

 ─── それはあまりに、腹立たしく思うほどにひどく口惜しいことだと、クオンは初めて知った。





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