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 反乱軍の本拠地であるカトレアという町に行くとしても、まずは疲れ切った体を休めなければならない。思い出すのに時間がかかるほど記憶と比べてやせ細ったというトトにも持ってきた食料と水を分け、食事のためにあらわにしたクオンの素顔にひっくり返るという初見あるあるを挟み、久しぶりに腹いっぱいになるまで食べたよと嬉しそうに笑った彼は、腹を満たした一行を宿に案内してゆっくり休むように言い残すと自分はまだやることがあるからと会話もそこそこに出て行った。
 おそらく、あの砂に埋もれた、かつては大きな池があったという場所をひたすらに掘り返すつもりなのだろう。その背をじっと見送ったルフィが無言でトトの後を追い、それに全員が気づきながらも何も言わずに見送った。

 今からでは眠れても仮眠程度だろうが、この砂漠で屋根のある建物で布団に包まれて休めるのなら贅沢すぎる。食事の際に叩き起こされたウソップが「いや~~~諸君今日はまーお疲れさま!とりあえず少し寝て体力を回復しようじゃないか。明日のためにおやすみー!!」とにこやかに笑うのを横目に、被り物を外して懐に仕舞ったクオンは早速寝床を整えてビビを振り返った。


「さて姫様、今日もお疲れさまでした。彼に対しても王女として大変にご立派でしたよ。私にできることなら何かご褒美でも」

「添い寝!!!!!!!!」

「うーん、王女の威厳が皆無」





† ユバ 7 †





 たとえルフィが不在だとしても賑やかになるのが麦わらの一味だ。我先にと寝台に入ったウソップに「おめぇは今まで寝てただろうが」と彼を運んだゾロのツッコミと共に投げられた枕がウソップに当たり、それに当たり前だへばったんだよおれは体力がねぇからな!と目を吊り上げて逆切れじみたことを返したウソップが投げられた枕をゾロに投げ返し、それにゾロが苛立ちもあらわに枕を構えて、さらにウソップが枕を手にクオンに甘やかされやがってとチョッパーに飛び火してから始まった喧々囂々の枕投げに、ビビの寝床を整えていたクオンが目に見えてそわついた。なにせ枕投げというものは知識としては知っていても、実際に目にするのは初めてなので。有能な真っ白執事は好奇心旺盛だったりする。

 だが戯れ混じりの怒声とツッコミと枕が飛び交う部屋で、とりあえず枕を手に持ったものの誰に投げればいいのか分からず首を傾げる。
 ビビやナミはダメだ、チョッパーも投げつけるのは可哀想か。ではウソップ、サンジ、ゾロの誰か。しかしなじられたわけでも誰かが投げた枕が飛んできたわけでもないのに自分からぶつけるのはまるで通り魔である。
 だがまあきっと彼らなら許してくれるだろうと、とりあえずウソップに投げつければ適当にツッコミを返してくれるそうだと鈍色の瞳を走らせれば、ふと、ウソップに向かって枕を投げたゾロと目が合った。
 枕を持ったまま固まるクオンに気づいたゾロがうっそりと口の端を吊り上げ、手招くように立てた指をくいと曲げる。ぱ、と目を輝かせて笑みを浮かべたクオンが振りかぶった枕を投げると、枕は勢いよくゾロの顔に吸い込まれてバフンと良い音が鳴った。力加減は控えめにしたが強すぎただろうかと一瞬焦るが、「やるなクオン!」「よしもう一発!!!」とウソップに褒められサンジにもうひとつ枕を渡され、「負けるなクオン!!」とチョッパーに応援されて再び枕を構えた。なぜか一瞬でゾロVSそれ以外の構図になってしまったが、あまり気にしないことにする。


「上等だ…!」


 己の圧倒的不利を悟るも、顔に当たった枕を手にぎらりと鋭い眼差しでクオンを射抜くゾロが不敵な笑みを浮かべる。ひぃ!とウソップが恐怖に叫んでクオンの後ろに隠れ、おうやるかとクオンの隣に立ったサンジもまた枕を構えた。


「よしクオン。あいつの顔にぶち込むごとに明日の朝食をグレードアップしてやる、本気でやれ。むしろ殺れ」

「姫様と航海士殿の分もお願いしますね」

「当然だ」

「申し訳ございません剣士殿、お覚悟を」

「ふざけんなてめぇら!!」


 大丈夫です能力は使いませんので、と何一つ大丈夫ではないことを笑顔で言い放ち、青筋立てて睨みつけてくるゾロへ向かって、クオンの白い腕が振りかぶられた。
 そして始まった仁義なき朝食戦争枕投げに、心底呆れたと言わんばかりに寝台に腰かけたナミが深いため息をつく。


「まったく、あいつらは……」

「楽しそうなクオンが可愛いすぎてどうにかなりそう」

「もうどうにかなってんでしょうが」


 男共がやかましく騒ぐのならぶん殴ってでも止めてさっさと寝ろと寝台に沈めるナミだが、子供のように目を輝かせるクオンが参戦しているのなら多少は見逃すつもりだ。枕投げ初めて、楽しい、と分かりやすく顔に書いたほとんどの記憶が欠落している執事に早く寝ろと怒鳴りつけるのは気が引けるし、何よりきらきらと輝く美しい顔をしょんとくもらせるわけにはいかない。そう思うほどにはナミはクオンに甘かった。
 本当に顔が良いわね、と傷ひとつない秀麗な顔を眺め、その顔にぼふんと投げつけられた枕が入って思わず「あっ」と声が出る。
 投げつけたのはゾロだが、手加減はしていたようでダメージは然程なかったのだろう。顔から枕がずり落ちて床に落ち、クオンはきょとりと目を瞬かせるだけで、その横ではクオンに何をしやがる投げられたら投げ返すだろうが手ぇ抜けるかと白熱するサンジとゾロの枕投げ模様が繰り広げられている。手は抜けないけどちゃんと加減はするのね、と自分の顔に触れるクオンを眺めながら内心呟いたナミだった。


「……痛くない。…ふふ、…楽しい」


 ふいに、そう言いながら甘く眦を下げてやわらかく笑うクオンに、ゾロとチョッパー以外の全員が胸を押さえて崩れ落ち、枕投げはその場で強制終了と相成った。










 ゾロがふと目を覚ましたとき、部屋はまだ暗かった。自分がいつの間にか寝台から落ちていたことに軽く首を傾げ、体を起こして首の裏を掻く。辺りを見回してみれば薄暗い室内に転がって眠る男達がいて、すぐ傍にルフィがいることに気づいた。きちんと枕が頭の下に置かれていることから、おそらくあのトトとかいう男が運んでくれたのだろうと察する。

 夜の気配は薄いが、朝と呼ぶにはまだ早すぎる時分だ。もうひと眠りするかと寝台に戻ろうとしたゾロは視線を滑らせて寝台に横になって眠るナミとビビをそれぞれ認め、ビビが白い何かを抱きしめて寝ていることに目を瞬かせた。
 音を立てないようにゆっくりと立ち上がる。規則正しい寝息を立てて眠るビビが抱きしめているのは、よく見慣れた、上部には三角形が2つ、頬部分には左右対称に3本の線が、そして黒い2つの目とωな口元だけを描いた猫を模した被り物だ。その持ち主は確かビビと一緒に寝台に入り、ひっしと抱きついてくる彼女が望むまま添い寝をしていたはずだが、寝台の端に身を寄せたビビの腕には愛嬌があるようで間の抜けた被り物があるだけで、改めて部屋を見渡してみても真っ白執事の姿はどこにもない。ついでに相棒のハリネズミも。

 あいつ、どこに行った。そう思って、すぐに答えは出た。
 寝台の端に立てかけていた刀を腰に差し、気配を殺し足音を立てないようにして部屋を出る。慣れない建物だからか玄関が分からず、窓から出りゃいいかと適当な窓から外に出たゾロは空を見て、夜の色が薄くなっている方へと足を進めた。
 さくさくと砂を踏みしめながら歩けば、ふと、微かな鼻歌が聞こえた気がしてそちらへ軌道修正する。近づいているのだろう、調子外れで音程があべこべの旋律が少しずつ確かなものとして耳朶を打った。

 やがて町の外れ、3階建て程度の高さがある円柱形の建物の屋上に腰かける真っ白い人間を視界に入れたゾロは足を止め、軽やかで穏やかな鼻歌が終わるのを待ってから口を開いた。


「下手だな」

「これでも少しは上手くなったと思うのですが」


 気配は感じていたのだろう、唐突に声をかけられても驚いた様子もなく笑み混じりに返し、白みつつある東の空を見つめていたクオンの秀麗な顔が振り返る。


「おはようございます、剣士殿」

「……ああ、おはよう」


 鈍色の瞳をやわらかく細めて呑気に挨拶をしてくるクオンは素顔を晒している。寝台に全員が入ったのは夜も随分と更けた頃だったはずで、それから数時間程度しか経っていないがその顔には眠気など欠片も見られない。いつものようにきっちりと燕尾服を身にまとい、さすがにまだ陽が昇っていない間は寒いのだろう、白いマントに全身を包んでいる。
 建物の外側に階段などないのに、どうやって屋上まで登ったのか。まぁ能力だろうなと確信に近いあたりをつけ、建物に凭れてクオンが見ていた方角を望む。どこまでも続く砂の向こうから、じわじわとしみるように白が広がっていくさまが見えた。


「ビビが起きたら泣くんじゃねぇのか」

「大丈夫ですよ、姫様が目を覚ます前に戻りますから」


 己の被り物を変わり身にして来た真っ白執事は飄々と笑い、その視線は既に夜明けが近づく空に注がれていてゾロを振り返ることはない。ゾロもまたクオンを振り返ることなく、以前から気になっていた問いを口にした。


「お前、何でそこまで朝焼けを見たがる」

「……さぁ、なぜでしょう」


 はぐらかすような返答はしかし、心からの疑問に満ちていた。睡眠時間を削ってでも朝焼けを見るために寝室をこっそりと抜け出すクオン自身、その答えを知らないと言うように、少しだけ、迷子のような顔をして。ただその顔を、ゾロが見ることはなく。


「朝焼けが好きかと訊かれれば、好きだと答えましょう。趣味かと訊かれれば、否と答えましょう。けれど、どうしても見たいものかと訊かれたなら……分からない、と答えます」


 陽が昇る。砂でできた地平線の先を紅く焼き、転じてすべてをけぶらせるような白い光が薄闇を晴らしていく。美しくも過酷な熱を砂漠に降り注ぐ灼熱が、朝を告げる。


「朝焼けは美しい。だから好きです。けれどそれは理由ではない。……ただ、そう、私は─── 見な・・ければ・・・なら・・ない・・と、そんな気がするのです」


 2年前に記憶ごとすべてを失くし、ゆえに曖昧な答えを口にすることしかできないクオンの魂にその思いは強く深く刻まれているのだろう。けれどその義務感をクオンが深掘りすることはない。ビビさえいればそれでいいと執事を務めるクオンは、己の記憶を取り戻せる可能性を自ら潰しているも同じだと分かっていて敢えて目を閉ざし耳を塞いでいる。それにどうこう言うつもりはないゾロはただ、「そうか」とひと言返しただけだった。

 2人が会話をしているうちに陽は完全に昇り、白々とした光が目を射して瞬く。と、空気が揺れたかと思えばすぐ傍に白い痩身が音もなく降り立ち、ふわりと白いマントが大きく広がった。マントについた砂を払うクオンの右肩に、見慣れたハリネズミはいない。ゾロは首を傾げた。


「ハリーはどうした」

「ウズマキのところにいますよ。そのうち戻ってくるでしょう」


 相棒の単独行動を気にした様子もなく、穏やかな微笑みを浮かべたクオンがゾロを見上げて戻りましょうかと踵を返す。その横顔を見たゾロは、半ば無意識に手を伸ばしてクオンの頬に触れた。


「……剣士殿?」

「……砂がついてる」


 ビビ曰くなめらかでつるつるでもちもち、既にゾロもそれが事実だと知っている頬をぐいと指の腹で拭う。クオンは気を悪くした様子もなく笑みを浮かべて礼を言い、おもむろに頬に触れていたゾロの手を取ると興味深そうに見下ろした。


「前から思っていたのですが、剣士殿は基礎体温が高いですよね。いつもあたたかい」

「そりゃクオンが低いだけだろ……いや待て、冷えてんなてめぇ。いつから外にいた?」


 手から伝わるクオンの体温はひどく冷たい。いつもはめている白手袋がないからはっきりと判るその冷たさはあの冬島で感じた氷のようなそれではないが、それでも彷彿とさせるような冷たさだ。
 眉を寄せて眼光鋭くゾロが問えば、まずいと分かりやすく顔に書いたクオンが目を逸らす。離れそうになった手を逆に握り返して逃がさず、そうして握り込んでしまえば、自分と比べてひと回りは小さい手はやはり女のそれで、ふと、あの月夜の見張り台で、刀を握る己の手に重なった白い手のぬくもりを思い出した。それと比べて、今握り締めているクオンの手はやはり冷たい。

 砂漠の夜は氷点下まで気温が下がるという。ここは放棄されたとはいえ町で建物があるからまだましな方だが、それでも毛布が必要になるほど冷え込むことは身をもって知っている。今はじりじりと太陽から与えられる熱があるからそこまで寒いとは思わないが、夜明け前はまだ寒かったはずだ。マントの下にきっちりと燕尾服を着込んでいることから、クオンは分かっていて随分と前からあの建物に腰かけていたことになる。

 手を握り締めたまま足を止めさせて距離を詰め、じろりと凄むようにして凝視すれば、気まずそうに視線をさまよわせていたクオンは「……30分ほど、前から」と小さく答え、眉を跳ね上げたゾロが何かを言う前にゾロの手を両手で握り返して見上げてきた。


「皆様にはどうかご内密に。また心配をかけさせたくはないのです」


 一応病み上がりだという自覚はきちんとあるらしいクオンが朝焼けにこだわる理由を先程訊いて知ったゾロは、その懇願を切り捨てることも、だったら部屋を抜け出すなと小言を言うこともできなかった。しかし、真っ直ぐに見つめてくるその鈍色の瞳がゾロが頷くと疑っていないことに眉間のしわがさらに深まる。


「……お前、おれなら黙っといてくれるとか思ってんだろ」

「信じていますよ、剣士殿」


 今まで散々執事の秘匿を許してきたせいか、白皙の美貌をにっこりとしてクオンがのたまう。ゾロは表情を変えないままクオンに包まれた手とは逆の手を伸ばしてクオンの頬を軽く引っ張った。極上の触り心地をしたもちもちほっぺがむいとやわらかく伸びる。


「餅かてめぇ、食ったらうまそうだな」

「お腹壊しますよ」

「ハッ」

「いひゃいいひゃいさすがにいひゃいれす」


 クオンの返答を鼻で笑って頬をつまむ指先に力をこめればぺしぺしと抗議するように取られた片手を叩かれ、仕方なく頬から指を離す。ルフィと違ってクオンはゴムではないからダメージが入った頬は微かに赤い。ぬけるように白い肌ににじむその赤はしかし、仲間のもとに戻る頃には消えるだろう。
 ゾロはため息をついて止めていた足を動かした。クオンの手に握られた自分の手からは既に力を抜いていて、引かれるようにして歩き出したクオンが離せばその手は分かち合う体温の名残を残して体の横で揺れることになるが、クオンは「やっぱり基礎体温高いですよねぇ」とゾロの武骨な手をにぎにぎと無遠慮に掴んでひとりごちている。
 先程は冷たく感じた体温が今は自分のものと混じり合って溶け合うように同じぬくもりになっていて、ゾロは興味深そうに剣士の手に触れて眺めるクオンの好きにさせた。こっちだったか、と先を行こうとすれば「こっちですよ」と手を引かれて軌道修正する。


「……何となく、だったんですけれど」


 暫く双方無言で進んだところでふいにクオンが口を開く。ちなみに手はまだ握られたままで、クオンの片手は外れたが、やはりゾロはクオンの好きにさせていた。


「あの歌を歌っていれば、何となく、あなたが来るような気がして」


 あの歌、をゾロは思い返す。相変わらず下手くそな、調子外れの、音程があべこべの旋律。軽やかで優しい音の連なりはひたすらに穏やかで、子守唄のようでもあり、ゆるやかなバラードのようでもあり、どこか童謡じみた懐かしさもあった。
 けれど先程聴いたあの歌は、初めて聴いたときと比べて、少しだけ何かが違ったような気がする。確か基本のメロディこそ同じだがアレンジは自由で、且つ歌詞はなく、「その時々の想いを歌う」のだとクオンは言っていたからそのせいか。そもそもとして、あれは鼻歌だったのだけど。


「そうしたら本当にあなたが現れたから、……なんだかおかしくて、ふふふ、少し、はしゃいでいます」


 ああ、だからかとゾロは内心呟いた。ゆるみきった顔、ぺらぺらと滑る口、近い距離、触れてくる手。軽快な戯れはいつものこととしても、成程、どうやら気のせいではなかったらしい。
 こういうときはどんな顔をすればいいのだったか。そう思いながらもゾロの表情はいつもの仏頂面に近いもので、ふわふわと花を飛ばしてにこにこ笑うクオンはまったく何も気にしていない。


「……そいつァ、……よかったな」


 ようやく返せた短い言葉に、クオンはとろけるような笑みを浮かべて、ええ、と甘く頷いた。





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