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 甲板に転がっていた被り物を拾ったゾロに渡されて礼を言い、いつものように被って素顔を隠したクオンは、すぐさま定位置の右肩に乗ってきたハリーがエースに向かって背中の針を逆立たせて威嚇するのに苦笑すると指で優しく撫でて宥めた。鉄ですら容易に噛み砕くことのできるハリネズミだが、さすがに能力者であるエースには傷ひとつつけられまい。報復は諦めた方がいい。

 額の痛みはいまだ治まらないが、我慢できないほどではない。優秀な医師に湿布を貼ってもらったからすぐに治るだろう。
 すっくと立ち上がって燕尾服を手で払ったクオンは改めて周囲を見回し、町で遭遇した海軍の船一隻も見当たらないことに目を瞬かせた。


「そういえば、海軍の方々は全然追ってきませんね」

「ああ、ちゃんと撒いて来たからな。このメラメラの実で」


 クオンの疑問に得意げに笑って立てた指先を炎に変えたエースに、先程その実力を思い知ったクオンは成程と心底納得して頷いた。





† ナノハナ 8 †





 クオンからルフィへと向き直ったエースは、「ホラ、お前にこれを渡したかった」と小さな何かをルフィに投げ渡した。受け取ったルフィがそれを見下ろして不思議そうに目を瞬かせる。


「そいつを持ってろ。ずっとだ」


 笑みを浮かべながら、それでも真剣な眼差しで言い聞かせるエースに、手の中のものを広げたルフィが「なんだ、紙切れじゃんか」と言ったように、エースがルフィに渡したのは何も書かれていない、手の平サイズの白い紙だ。クオンが後ろからそっと覗き込んでみても、やはりそれは何の変哲もない紙に見える。だが本当にただの紙というわけではないのだろう、「その紙切れがおれとお前をまた引き合わせる」とエースが言うのだから。


「へ───…」

「いらねぇか?」

「いや……いる!」


 渡された紙をしっかりと握りながら頷くルフィに、どこか嬉しそうにエースは口端を吊り上げた。そうして、自分の帽子に手を当ててつばを下げ目線を隠す。


「出来の悪い弟を持つと……兄貴は心配なんだ」


 おもむろに紡がれたのは、道を違えた海賊としてではなく、どこまでも優しく弟を案じる、兄としての言葉だった。偽りなど一片も感じられない、心からのものだと誰も疑えないほどの想いが確かにそこにある。ああ、やはり彼は、ルフィの兄なのだ。


「おめぇらもこいつにゃ手ぇ焼くだろうが、よろしく頼むよ」


 帽子の下から覗く瞳がくるりと一同を見渡し、兄の顔で笑ったエースは、最後にルフィを一瞥すると身を翻して久しぶりの再会に名残惜しむ様子もなくメリー号とロープで繋いでいた自船のストライカーに飛び移った。それに驚いたのはルフィだ。「ええっ!?もう行くのか!?」と手すりから身を乗り出して問うルフィに、ロープを回収しながらああとエースは即答する。
 もうちょっとゆっくりしてけばいいじゃねぇか、久しぶりに会ったんだしと言い募るルフィを意に介さず、「言っただろ、お前に会いに来たのは事のついでなんだ」と返したエースは、続けて自身が今“重罪人”を追っていると告げた。
 最近“黒ひげ”と名乗っている、元は白ひげ海賊団の二番隊隊員─── エースの部下だった男は、海賊船で最悪の罪である“仲間殺し”をして船から逃げたという。
 部下の罪は上司の責だ。ゆえに隊長である自分が始末をつけなければならない。そう、波ひとつない海を眺めながら静かな口調で紡がれる言葉は重かった。


(……黒ひげ?)


 ふと、クオンは被り物の下で目を瞬かせる。どこかで聞いた名だ。そしてすぐに思い出した。チョッパーの故郷であるドラム王国を滅ぼしたという、5人の海賊団。その船長が確かそう名乗っていたとドルトンは言っていた。軍隊が機能していなかったとはいえ、たったの5人で瞬く間に国ひとつを壊滅に追いやった海賊だ、どんな男なのかと思っていたが、元白ひげ海賊団の一員だったのなら納得してしまう。
 その男を追って“偉大なる航路グランドライン”を逆走しているエースは、ふとルフィを見上げると不敵な笑みを広げ、今度は兄としてではなく、敵船の海賊としての言葉を紡ぐ。


「次に会うときは、海賊の高みだ」


 ルフィは何も言わず、だが同じ笑みを返して応とこたえた。ほんの数秒兄弟は見つめ合い、背を向けたエースが自身の能力を使ってストライカーを動かす。メリー号から離れていく背中を見つめていたクオンは、ふと振り返ったエースと、目が合った。被り物越しだというのに、確かにその炎とまた、視線がかち合ったのだ。
 ゆる、とエースが唇に笑みを刷く。やわらかく細められた瞳はぬくもりに満ちていた。クオンよりもクオンのことを知っている男は、すぐに顔を戻すと軽く手を振り、二度は振り返らなかった。クオンから一勝をもぎ取り、微笑むクオンを喜び、すべてを失くしてここに在ることを許して去っていく。


「……」


 クオンは無意識に胸に手を当てた。既に麦わら一味の船長に灼かれた胸が、火を灯したようにあたたかい。その火はまさしくあの男のようで。
 被り物の下で微笑んだクオンは、成程兄弟ですねぇと、何度目か分からない納得をした。
 と、ふいに腕にぎゅうと抱きついてきた少女を驚きもなく受け入れる。クオンの浮気者。小さな声でそうなじられて返す言葉がなかった。代わりに宥めるようにビビのやわらかな髪を撫でて指で梳く。
 そんな主従を気にする余裕もなく、ルフィ以外の麦わら一味が呆然と呟いた。


「嘘よ…嘘…!あんな常識ある人が、ルフィのお兄さんなわけないわ!」

「おれはてっきりルフィに輪をかけた身勝手野郎かと」

「兄弟って素晴らしいんだな」

「弟想いのイイ奴だ…!」

「分からねぇもんだな…海って不思議だ」


 ナミ、ウソップ、チョッパー、ゾロ、サンジと、各々好き勝手なことを言う彼らに、さすがのビビが苦笑して「ちょっとみんな…」とこぼすが、クオンも最初似たようなことを思ってしまったので何もフォローができない。
 小さくなる船影に向け、ルフィは「またな───っ!!」と手を上げて、その姿が見えなくなるまでその場から動かなかった。






 風のようにやって来ては去っていったエースの姿が完全に見えなくなり、仲間を振り返ったルフィは真っ先にナミへと視線を向けて手に持った紙を差し出す。


「ナミ!これ帽子に縫ってくれ!」


 ルフィのお願いに、ナミははいはいと頷くと差し出された紙と麦わら帽子を受け取った。すかさずクオンが懐から小さな裁縫道具セットを取り出して渡せば、用意のいい執事にナミが礼を言って甲板に腰を据える。
 麦わら帽子のリボンの裏にエースからもらった紙を縫いつけるナミを見下ろし、さて、とクオンは船の進行方向に顔を向けた。まだ少し遠いが、そろそろ次の目的地が見えてくる頃だ。準備をした方がいいだろう。


「姫様、上着を」

「そうね、持ってくる」


 ナミの許可なく女部屋に入れないクオンは、たぶんナミに伺いを立てれば許可は得られるだろうが、そうなるとサンジの顔がものすごいことになって妬み嫉みの視線を向けられちょっと面倒くさい、というわけではなく、サンジが何でお前だけ、と泣いて精神的に大ダメージを負うと何だか可哀想なので女性2人の分はビビに任せることにした。自分が選んだ踊り娘の衣装を上着に隠されて嘆くかもしれないが、それは諦めてほしい。
 クオンも町ではひとり別行動を取っていたルフィのために買い揃えた砂漠越え用の服を用意して腕に抱える。とはいっても、肌を焼かないように裾の長い上着と麦わら帽子を隠すための布くらいだ。

 ついでに慌てて町を出たために乱雑に詰め込まれた物資の整頓も軽く行い、服を抱えて戻るとちょうどナミが麦わら帽子に紙を縫いつけ終わったところだった。ナミから返ってきた麦わら帽子を被ったルフィが「ありがとうナミ!」と礼を言い、ここなら安心だと笑う。絶対なくさねぇもんな、と続けた通り、確かにルフィのトレードマークである麦わら帽子は彼の宝物であり、何があっても手放すことはありえず、失くしたくないものを一緒にするのは最適解だろう。
 クオンは腕に抱えていた服をルフィに差し出した。


「船長殿、こちらを着てください」

「え?何でだよ、暑いじゃねぇか」

「暑いから着るの。砂漠では日中50℃を越えるんだから。肌を出してると火傷しちゃうわ」


 同じく女部屋から上着を持って甲板に出てきたビビが言い、しかしビビとナミを見ておめぇら涼しそうじゃんと返すルフィに、クオンが「姫様も航海士殿も、上からちゃんと着ますよ」とビビが抱える上着を示せば、クオンが足首まで全身をすっぽりと覆う白いマントを着ているのを見たルフィは「そうか、しょうがねぇな」と納得してクオンから服を受け取った。


「え───っ!!!着ちゃうのォオオ!!!?」


 上着を着ては艶めかしい踊り娘衣装の美女2人を堪能できないと、後ろからサンジの盛大な嘆声が轟いたがクオンは聞こえぬ見えぬふりを貫いた。右肩に乗ったハリーは目を見開いて涙を流し嗚咽をこぼして崩れ落ちるサンジを呆れたように見下ろして「はりゅぁ……」と小さく鳴く。己の欲望に素直すぎるサンジは嫌いではないが、相棒の教育に悪い気がしてクオンはそっとハリーを胸に抱え込んだ。ハリーの実年齢なぞまったく分からないし気にしたこともないが、ハリネズミなのでたぶんおそらくクオンよりは年下だろう。精神は動物である分年齢の割に成熟していそうだが。


「ああっ!あれ?島の端っこに出ちゃったぞ?」


 チョッパーの驚いた声が聞こえ、クオンはそちらに顔を向けてチョッパーのもとへ歩み寄った。船べりから船の外を見やれば、チョッパーの言う通り島が途中で途切れている。だがクオンは腰を屈めてチョッパーと視線を合わせると被り物越しに低くくぐもった声で丁寧に否定をした。


「いいえ、違いますよ。ここは島の端ではなく、サンドラ河の河岸です。向こうにうっすら対岸が見えますでしょう?」

「あ、ほんとだ」


 白手袋に覆われた手で指し示せば、遠目にまた陸地が見える。サンドラ河は広く大きな河だ。間違えるのも無理はない。


「見て、これがざっと描いたこの辺の地形よ」


 地図を手にビビが全員の視線を集め、現在地はここ、と河口を指してゆっくりと指を北東へと動かしていく。先程立ち寄ったナノハナの北に首都アルバーナがあり、そちらへはカルーがビビの手紙を携え向かっている。


「目的地はここ!『ユバ』という町。サンドラ河を抜けてこの町を目指すわ」

「そして『ユバ』には反乱軍のリーダーがいるってわけか」

「そいつをブッ飛ばしたらいいんだな!?」

「やめて!!?」


 ビビの説明を聞いて口を開いたゾロに続いてルフィが拳を突き出し、慌ててビビがルフィを止める。クオンは被り物の下で苦笑した。


「反乱軍は説得するの。もう二度と血を流してほしくないから…!」

「70万人の反乱軍をだぜ?止まるか?」


 王女として民を思うビビに、現実を突きつけるように冷静なゾロの問いかけが飛ぶ。それはビビの不安を煽りかねない言葉だったが、王女の執事は批難の言葉も視線も、何一つゾロには向けなかった。ただ静かに、クオンの手に触れ、きつく握り締めてくるビビの手を握り返すだけ。
 たった10人の海賊が70万人もの反乱軍と相対する。それは客観的に見れば無謀が過ぎるとはクオンも分かっている。ビビも分かってはいるのだ、簡単には止められないことくらい。けれど絶対に止めなければならない。そうしなければ、傷つく国民は70万人では済まされないのだから。
 ビビの強い眼差しがゾロを射抜く。真っ白執事を傍らに置き、その細い両肩に100万人もの民の命を抱えた王女は、今まで抑え込んでいた憤激をあらわに低く声を絞り出した。


「……止まるか・・・・…ですって…?…ここからユバへの旅路ですべて分かるわ…バロックワークスという組織が、この国にいったい何をしたのか…!アラバスタの国民がいったいどんな目に遭っているのか…!!」


 ぎちり、握り締められた手に力がこもって鈍く軋む。その手から伝わる激情が、民を思って胸を痛める王女の悲嘆が、クオンの心を強く打って研ぎ澄まさせる。まるで抜き身の刃のように、鋭く鈍色の瞳が煌めいた。


止める・・・わよ……!!こんな無意味な暴動…!!もう、この国をバロックワークスあいつらの好きにはさせない!!!」


 あと一歩、もう少しでこの荒れた国を救うことができる。英雄と持て囃されている男のすべてを暴いて、その地位から引きずり下ろして国から叩き出すことができる。何の意味のない義憤に駆られて血を流す民を止めることができる。
 そのためにビビは、王女として固く護られた宮殿を飛び出したのだ。命の危険を顧みず、時に他者を切り捨てなければならない覚悟を決めてここまできた。
 16歳なのだ。まだたったの16年しか生きていない少女が背負うには重すぎるそれを分かち合うことはクオンにはできない。執事にできることは少女の願いに応え、想いに応え、彼女の望む未来を引き寄せるために尽くすことだけ。そうしたいと思ったから、クオンはこの少女に膝を折ってこうべを垂れたのだから。

 胸のうちを吐き出したビビを、ナミが静かに呼ぶ。サンジが元気づけるように砂漠越えのための弁当は任せろと言い、チョッパーが楽しみだと思わず口に出して、ゾロはビビの決死の覚悟に笑みを浮かべて「悪かった」と謝意を述べた。その表情に、ゾロがビビへの好感度を上げたのを敏感に察したクオンがそっとビビを隠すようにして胸に抱えた。
 あげません、私のですよと珍しく独占欲をあらわにしたクオンに気づいたのは相棒のハリーと刺すような警戒を直接向けられたゾロだけで、じっとりとした視線を被り物越しに受け取ったゾロはクオンの懸念を悟ると目を瞬かせて呆れたように口元を苦くした。誰がとるか、と眇めた視線が語っている。その表情に嘘はなさそうで、とりあえずクオンは警戒を解くことにした。そんな2人の無言のやり取りを察したのは、やはりハリーだけだった。

 一方、突然クオンに抱きしめられて驚き、次いで喜び、クオンの手を離して両腕をクオンの体に回してぎゅうと抱きついて胸に顔をうずめるビビにルフィが拳を握って声をかける。


「よし!分かった、ビビ!!行こう!!」


 はっとしたビビがクオンの胸元から顔を上げてルフィを見つめる。ビビの覚悟に応え、彼女の望む先へ行くと決めた男が次の目的地の名を叫ぶ。


「ウパ!!!」


 違う。


「ユバね」

「ユバ!!!」

「そう」


 即座にナミに訂正されて言い直したルフィに、まったく緊張感のない方だと内心呟いたクオンはおかしそうに喉を鳴らした。





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