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クオン?どうしたの?」


 被り物をしているため表情は見えないはずなのに、揺れる雰囲気を敏感に感じ取ったビビに顔を覗き込まれて問われ、クオンは何でもないですよと答えようとして、何も言わずに僅かにビビの顔に被り物を近づけると「船長殿の兄君に驚いただけですよ」と正直に答えた。被り物越しに紡がれた声は低くくぐもり抑揚を削いで淡々としたものとなるが、色々な意味で、と言外に繋いだ言葉はきちんとビビに届き、確かに、とビビの表情に苦笑がにじんだ。





† ナノハナ 7 †





クオン?」


 ふいに名前を呼ばれ、ビビから自分を呼んだ者へと視線を移したクオンは、軽く目を瞠ってこちらを凝視するエースと目が合った、気がした。
 上部には三角形が2つ、頬部分には左右対称に3本の線が、そして黒い2つの目とωな口元だけを描いた猫を模した被り物を被ったクオンを見つめ、先程まで唇に浮かべていた笑みを消したエースは一度ルフィを含むメリー号に乗る面々をぐるりと見渡すと再度クオンに視線を戻した。まじまじと上から下までクオンの真っ白な全身を見つめて首をひねる。


クオンって、まさかお前、あのクオンか?」

「……さて、どのクオンでしょうか」


 驚きと怪訝と疑問と胡乱を混ぜたような顔をするエースの問いに、記憶が欠落しているがゆえに返す言葉を持たないクオンは曖昧に肩をすくめた。


「エース、クオンのこと知ってんのか?」

「ん?ああ、まぁ……なぁあんた、ちょっとこっち来て、それ取っちゃくれねぇか。顔が見てぇ」


 “クオン”という人間を知っているようなエースにルフィが首を傾げる。だがどうにも確信を得られていない様子のエースは歯切れ悪く返してクオンに視線を戻すと軽く手招きし、「それ」とクオンの顔を隠す被り物を指した。
 さてどうしようか、とクオンは考える。麦わらの一味にはともかく、他人にはあまり素顔を晒したくはないのだが。しかしエースはルフィの兄だ。ルフィのことを気に入っているクオンとしては、エースの頼みを一蹴することはできない。
 だが、おそらくここでクオンが否と言っても、誰もそれを咎めたりはしないだろう。エースもそうか分かったと引くはずだ。それは確信できた。─── しかし。


(……まぁ、いいでしょう)


 判断が早いクオンは、素顔を見せたところで悪い結果にはならないだろうと結論を出してエースのもとへ足を踏み出し、後ろからジャケットを引かれる感覚に動きを止めた。視線だけで振り返れば、そこにいたのはエースを見つめたままクオンのジャケットを握り締めるビビ。その目ににじむのは警戒だ。唇は固く引き結ばれ、眼差しは睥睨と言っていいほどに鋭い。
 ビビの視線には気づいているだろうにクオンから目を逸らさないエースを一瞥し、クオンはゆっくりと腕を上げてビビの頭を軽く叩くようにして撫でた。ビビの目がクオンに向けられる。被り物の下で見えないと分かっていても伝わることを疑わずに安心させるような微笑みを浮かべて頬に指を滑らせて撫でると、そろそろとジャケットを掴むビビの手から力が抜け、白い布が解放された。

 クオンは軽い足音を立てながらエースに近づき、手を伸ばせば触れる距離まで詰めると被り物に両手を伸ばす。そうして焦らすこともなくひと息に外せば、真っ先にエースの目に飛び込んだのは美しい雪色の髪だった。照りつける太陽に煌めく髪が微かに揺れ、恐ろしいほどに秀麗な面差しがエースの目を大きく見開かせる。凪いだ鈍色の瞳でエースを見下ろし、薄い笑みを刷いた形の良い唇を動かして男にしては高めの声で涼やかに言葉を紡いだ。


「どうぞ、気の済むまでご覧くださいませ」


 果たして、エースははくりと唇を動かして何か言葉を紡ごうとして、やめた。代わりに静かな笑みを浮かべる。かと思えばにっと歯を見せて朗らかに笑いかけられ、まさかそんな笑顔が返ってくるとは思わなかったクオンはきょとんと目を瞬かせると、つられるようにして微笑んだ。それは初対面の相手に見せるには随分と気が抜けた、やわらかなもので。
 ゆるりと目を細めたエースが腰を伸ばして立ち上がる。上から顔を覗き込まれ、まじまじと観察されて、ふいに記憶を辿るように宙を見つめた。だがすぐに目を閉ざしてうんとひとつ頷いたエースは再びクオンに視線を戻し─── 目の前の真っ白執事の胸倉を、勢いよく引っ掴んだ。

 視界が回る。次いで浮遊感に見舞われ、は、と気づいたときにはクオンは船の上から海へと投げ飛ばされていた。
 手すりに立ちクオンを海へ向かって放り捨てた姿勢のまま、癖のある前髪から覗く温度のない瞳に見下ろされてようやく、警鐘が大きな音を鳴らした。それは突然のエースの暴挙にルフィ達が上げた驚愕の声を掻き消すほど。
 己の悪魔の実の能力を用いれば海に着地することなど造作もない。体をひねって体勢を整え、足から海面に降り立とうとしたクオンはしかし、クオンを追うように船から飛び出してきたエースが振りかぶった拳が炎に転じるのを見逃さなかった。肌を刺すような威圧と共に炎の拳が振り下ろされる先などただのひとつしかない。


「─── 火拳」


 瞬間、火柱が上がった。


クオン!!!」


 船外へ放り出された全身真っ白な執事を呑み込んであまりある炎の勢いに、血相を変えたビビが名を呼んで手すりへと駆け寄る。だがクオンが放り投げられた手すりの向こうはいまだ火柱が上がっていて、覗き込もうにも肌を焼く熱と蒸気にそれを阻まれ顔を歪めた。

 一方、エースはメリー号と繋いでいた自分の小型船─── ストライカーに一度着地し、揺らいで消える炎と、海を燃やして上がる蒸気の向こうを見晴るかすように目をやった。だがすぐさま顎を跳ね上げて空を見上げ、見張り台近くにいるクオンに気づいて足に力をこめ、細い火柱を上げながら空中を駆け上がって瞬く間に距離を詰めれば、ぎょっと鈍色の瞳が見開かれた。


「なっ」


 間一髪、能力を駆使して何とかエースの攻撃を躱して空中へ向かって大きく跳び上がり退避していたはずのクオンは、ひと息つく間もなく見つかったと思えば目の前に迫った男に顔を強張らせた。
 純粋なスピード勝負ならクオンに分がある。だが、避けなければ大火傷を負うほどの攻撃に殺意はなく、今もなお男の目は観察するように凪いでいて、油断していたクオンを確実に殺せたはずなのにあの攻撃はクオンが躱せるほど手を抜かれていたという事実が反撃するか否かを迷わせた。何より、殺意はもちろん敵意や害意すらも今の男からは欠片も感じ取れないのだ。
 その迷いが体の動きを鈍らせ、ただ目の前にある男を見つめることしかできないクオンの胸倉をエースは容赦なく掴み上げると真下にある船の甲板へと叩きつけるようにしてぶん投げた。

 このまま落ちれば間違いなく船体に穴をあける。それはまずい。
 クオンは躊躇わずに能力を発動し、落下速度をある程度抑えると姿勢を低くして足から甲板に降り立った。それでも勢いはいつものように殺せるわけではなく、ダン!と鋭く重い音が響く。視界の端で顔色の悪いビビがクオンの名を呼んだのが見えたが、それに応えるだけの余裕はない。
 目の前にエースが降り立つ。クオンは手をひらめかせて指の間に針を挟み、自然ロギア系の能力者に無効だと分かっていても放とうとして───


「出さねぇとお前の負けだ!ジャンケン!」

「はっ?」


 唐突にかけられた軽快な掛け声と共に腕が振りかぶられ、思考が追いつかないままつられて針を挟んだままの手を出したクオンはグーを出し、対してエースは大きく手を開いてパーを出した。クオンの負けである。
 斜め225度に切り替わった展開に大量の疑問符を浮かべたクオンが呆然と顔を上げ、目の前に、親指と中指で輪を作るようにした男の手が突きつけられて、そして。


 バチィンッ!!!


「イ゛ッッッ!!!」


 ものすごい衝撃が額から脳へと駆け抜け、一瞬ののち凄まじい痛みが燃えるような熱と共にクオンに襲いかかった。
 衝撃に耐え切れず痛みに強張る体が後ろへ傾く。手に携えられた針がばらばらと床に落ち、ばたりと背中を甲板につけて倒れ込んだクオンは白手袋に覆われた両手で額を押さえて音なき苦悶の声を上げた。


「だっはっはっはっは!!これでおれが50勝目先取!!おれの勝ち越しだなクオン!」


 弾けるような笑声を上げ、なめらかな額に岩すら砕く勢いのデコピンを叩き込んだエースは涙目で額を押さえたまま顔を歪めるクオンを見下ろして腰に手を当てるとにやりと口角を吊り上げる。とても楽しそうなその笑顔に、怒涛の流れに固まっていた面々がはっと我に返った。慌ててビビがいまだ倒れ込んだまま動かないクオンに駆け寄る。


クオン!大丈夫!?」

「……いたい……」


 主人の前だというのに額を押さえて力なく呟くクオンはいまだかつてないほど弱っていた。首に癒えない傷を抱えていようが弱音ひとつ吐かなかった執事の心の底から漏れ出た呟きに、それを吐かせることができたエースに嫉妬すればいいのか怒ればいいのか羨ましいと妬めばいいのかでも涙目のクオンは貴重すぎて可愛い抱きしめたいよしよししたいと内心悶えつつ湧き上がる欲望に抗えばいいのか、とりあえず今ここに映像電伝虫がないことを心底悔やみながら後半の選択肢に感情の半分以上を傾け、ビビは相棒を傷つけられて憤激し今にもエースに飛びかからんとするハリーの首根っこを掴んで止めた。短い両手両足をぶんぶん振ってはりゃはりゃぐるるフシャー!!!と背中の針を逆立て鋭い歯を剥くハリーを面白そうにエースが見下ろしている。


「エース!クオンはおれの仲間だぞ!いきなり何すんだ!」

「おいおいすげぇ音したぞクオン、大丈夫…じゃなさそうだな。ほら、起きれるか?」

クオン、ちょっと見せてね……って、うわ、真っ赤じゃないの!チョッパー!」

「うん、腫れてるけど血は出てねぇな。湿布貼るぞ、痛いかもしれないけど我慢しろよ」

「……!」

「かわいそかわいい」


 ぽこぽこと怒りながらすぐさまエースに詰め寄るルフィとクオンを覗き込んで手を貸し上体を起こしてやったウソップ、傍らに膝をつき患部を見るや慌てて医者を呼ぶナミに、てきぱきと手際よくすぐさま処置をするチョッパー、ひどい痛みを訴える額に触れられて肩を跳ねさせるクオン、ついぽろりと本音を吐き出しながらよしよしとどさくさに紛れてクオンの頭を抱えるようにして撫でるビビ、そしてそんな彼らの前に立って壁になるサンジとゾロをそれぞれ見たエースはしかし、けらけらと楽しそうに笑って悪びれる様子は一切なくルフィを宥めるようにぼすぼすと麦わら帽子越しに頭を軽く叩いた。


「そう怒るなよ。仕方ねぇだろ、おれはずっと引き分けなのは気に食わなかったからな、チャンスは逃せなかったんだ」

「……やっぱエースはクオンを知ってるんだな」

「まぁ、……おれの知ってるクオンとは違うところもあるが、同じだ。おれが間違うはずがねぇ」


 ルフィに問いに頷くエースを水分が抜けきらない目でクオンが見上げると、エースもまたクオンを見ていて、目を合わせたまま彼は笑った。


「お前が何でこの船に乗ってんのか聞くつもりはねぇよ。ただ、ちゃんと笑えてんならそれでいい」


 よかったな、と優しく耳朶に響いた声は幻聴だったのかもしれないが、確かにクオンの耳に届いた。指弾された額はものすごく痛くて今も脳みそをガンガン揺さぶってくるけれど、腰に手を当てて笑うエースの心が真っ直ぐに向けられていることは疑いようもなく受けとめられた。だからクオンも、まるでクオンがここにいることを自分のことのように嬉しそうに笑うエースに、やわらかな笑みを返した。





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