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「あの……クオンさん…」

「どうしました、Mr.9」

「“記録指針ログポース”を…どこかに落としまして…」

「……」

「たぶんあいつらの船に…」

「…………」


 そのときのクオンの顔は、被り物をしていても分かるほど冷え冷えとしたものだったと、一度もクオンの素顔を見たことがないMr.9はのちにそう語った。





† 双子岬 5 †





 クオンのウイスキーピークへの“永久指針エターナルポース”は、嵐の日に紛失している。双子岬にさえ着けばクロッカスから“記録指針ログポース”を借りようかと思っていたのだが、主であるミス・ウェンズデーやMr.9と思いがけずに再会したため予定を変更しあてにしていたら、これである。


「お嬢様ひとりなら、まあ何とかしますが」

「置いていかないで!!お願いしますお願いします!!!」


 Mr.9達がここまで乗ってきた船の上、足にしがみついて懇願するMr.9を見下ろしてクオンはため息ひとつ。
 船はあっても、指針がなければこの海での航海は困難を極める。“永久指針”を紛失した自分の落ち度もあるためそれ以上は強く言えず、クオンは二度と会いたくはなかった面々と舌の根の乾かぬ内に再会しなければならない事態に、被り物の下にとけて消えるほど小さく嘆息した。

 二度会えば、また情が湧いてしまうだろうことは我がことながら簡単に予想がついた。特に船長を「良いもの」だと思っているのだから尚更。クオンのこととなれば過剰なほど敏感になる主が、「クオンがルフィを気に入っている」と言ったのだからそれは否定しようのない事実だ。
 しかし、自分達の住む町は“賞金稼ぎの巣”。7本の航路のうち、選んだ先に待つ島がそこであれば、やってくる彼らをカモろうと動くだろう。そう簡単にやられるような者達ではないと思うが、できるなら避けていってほしいと思ったのも本音だった。
 これから多少慌ただしく動かねばならない未来が見えているため、その面倒事に巻き込むのも気が引ける。まあ、主のためならばそっと彼らを差し出すことは可能だが。

 相手は海賊。“偉大なる航路グランドライン”での必須アイテムである“記録指針”を得たとして、こちらのものだからと言って素直に返してくれるわけがない。仕方ない、こっそり奪い返すか。


「では、私が何とかしますから、あなたは落とした“記録指針”のありかを特定してください」


 隠密行動が得意なクオンはそうMr.9へ指示を出した。船に置き忘れて誰にも気づかれていなければよし、気づかれて既に航海士の腕に巻かれていれば、ひとまずナミの身柄を確保する必要がある。さすがに手首ごと切るつもりはないのでできるだけ穏便に。
 Mr.9が全力で頷いて双眼鏡を覗き込む。なお、帰ったら針千本ノックが針千五百本ノックに増えて待っていることを彼は知らない。

 双眼鏡を覗き込んで灯台近くに集まるルフィ達とクロッカスを見ていたMr.9は、ふいに「あ!」と声を上げた。ハリネズミのハリーにおやつをあげていたクオンが顔を向ける。
 どう?見える?と声をかけるミス・ウェンズデーに、何が起こったかよく分からないが、と前置いてMr.9は「どうやらまだあの女が持っているようだ」と返した。その「何が起こったかよく分からない」部分が大切なのだと、たった数時間一緒に行動しただけであれこれトラブルを招いたルフィの顔をクオンは思い出す。
 “記録指針ログポース”、無事だといいですね、と思いながらもあまり期待はできそうになかった。


「ところで、クジラ捕獲任務ですが。本当に私が町を出た3日後に下されたものなのですね?」

「あ、ああ」

「……ついこの間買い足したばかりですので、町の食糧は足りているはずですが。定期輸送の契約も生きているはず。お金も私の“出稼ぎ”で上納分以外を貯めてきたので困っているわけでもないでしょう。それに、あれだけ大きなクジラの肉など量が多すぎて保存食にするとしても無駄が出ます。食糧確保のためといって捕鯨を命じられる意味が分かりませんね」

「それは…そうだが」


 クオンの言葉に、Mr.9が口をもごもごさせながら頷く。
 彼らもこの任務を不審には思っていた。クオンがひとり稼ぎ回ってくれていたから、根城としている町には何の不足も不満もない。それについてはきちんと報告をしているし、何より今まで食糧難に陥ったことなど、たったの一度もない。
 なのになぜ今更、そんな任務が下ったのか。そうは思いつつも、上からの指令は絶対であるため逆らえなかった。


(……足止め、または任務の失敗を前提としているとみて間違いないでしょうね)


 あるいは、成功したとしても難癖つけるつもりなのか。クオンは内心で小さく唸る。
 ミス・ウェンズデー個人の執事が“出稼ぎ”に出ている旨は以前から上に伝えていて、その証拠として定期的に金銭を送っている。そうして時に町へやってくる海賊を狩りながら、ウイスキーピークに住む人々を騙しながらも密かに水面下で動き回っていた。

 だが、最近妙な任務が多く、求められる金も額がどんどん上がっている。いつものペースでは間に合わず町が飢える予測を立てたクオンが急ぐようにして海へ飛び出ている間に彼らに下された任務は、クオンがいてはこなされてしまうからだろうと思われた。今回のクジラの件も、クオンが目を通したら理路整然と返していつもより上乗せした金も突きつけ、何とかしてしまっただろうから。


(となると、ウイスキーピークへ戻ったらすぐさま荷物をまとめる必要がありますか)


 できればすぐにでもウイスキーピークに留まっている“彼”に連絡を取って逃亡の準備をしていてもらいたいが、ここからでは電伝虫の電波は届かないし、そもそも電伝虫自体がない。早く町に戻るためにも“記録指針”の確保は最優先だった。
 と、ふいに遠くから響く空気を切る鋭い音が耳朶を打って、クオンは顔を上げて空を見た。被り物越しに、その目が飛来するハゲタカとその背に乗るラッコを認める。遅れて気づいたミス・ウェンズデーとMr.9が顔色を変えて空を見た。


「ま…まさかあれは“アンラッキーズ”!!」

「しまった、手遅れだった!!」


 クジラ捕獲完了推定時刻はとっくに過ぎていたらしいし、任務失敗者への仕置きを請け負う1羽と1匹の標的は間違いなくこちらだろう。
 ハゲタカがその口に四角形の何かを咥えている。それから伸びるロープ─── おそらく導火線に、カチカチと貝を鳴らして火を点けようとしているラッコがいた。

 ふむ、と恐怖から主に抱きつかれたクオンは考える。ハゲタカもラッコも、撃ち落とすのは簡単だ。だがこのまま彼らを仕留めてしまって言い訳が利かなくなるのは困る。できるだけ動ける時間を稼ぎたかった。

 これには理由がある、海賊達の邪魔が入って、だとかこれから社長ボスには報告する、裏切ったわけじゃない、だとか慌てて叫ぶ2人の言い分を1羽と1匹の仕事人は聞き入れず、導火線に火を点けた四角い箱をこちらへ向かって投げてきた。


「助けてクオン~~~!!!」


 泣き混じりに叫ばれたクオンは、首に手を回してしがみつくミス・ウェンズデーの体をひょいと抱える。ここは海の沖合だが、海を駆ける・・・ことができるクオンにとっては何ら問題がない。
 左腕に主を抱え、右手にアタッシュケース、右腕に浮き輪を通して脇で挟むように右腕でオールを持てば、手を伸ばして助けを求めるMr.9のためにできることは何もなかった。


「グッドラック」


 ひとつ幸運を祈る声を残して、肩に乗るハリネズミが小さな手で親指を立てる様子を視界の端にクオンは降ってきた爆弾が爆発する前にその場を跳んで離れた。残像も残さず一気に海岸へと近づき、2,3度海面を蹴って跳ねればすぐに地面に足がつく。
 右手の荷物を下ろして優しく主の足を地面に触れさせ、ありがとうクオン大好き!!!と抱きつかれて「知ってます」と冷静に返しながら左手で首を撫でた。


「Mr.9、大丈夫かしら」

「爆発する前に海に蹴り落としましたので、大丈夫でしょう」


 多少爆発の余波は食らっているかもしれないが、死ななければ安いものだ。
 少し待つと、海から3つの顔がざばりと飛び出した。なぜか海に落ちていたルフィと、それを抱えるサンジと、余波を受けて全身を多少焦がしているMr.9である。前者2人がいったいなぜ海にいたのかという疑問は考えないことにした。どうせまた何かやらかしたのだろう。


「あれ?クオンじゃねぇか!さっきぶりだな!!」

「ええ、先程ぶりですね船長殿」

「何でここにいやがる。二度と会いたくねぇっつったのはお前だろ、真っ白執事」

「私としてはそのつもりだったのですが」


 海から上がりながら眉を寄せるサンジにそう言って肩をすくめたクオンはMr.9へ手を貸す。腕を引っ張り岸へと引き上げて、こちらはサンジに引き上げてもらったルフィへと向かい合った。


「お願いがあります、船長殿」

「んあ?いいぞ」

「うーんせめて詳細を聞いてから返事をしてください」

「別にクオンなら問題ねぇし」

「問題があるかもしれないでしょう」


 内容も聞かず即答で頷いたルフィになぜか頼み事をする立場にあるクオンが懇々と諭すように言い、面倒くせぇなぁ、と心底面倒そうにぼやかれて「あれ?私が悪いのでしょうか」と理不尽な困惑を抱いた。おれがいいって言ったんだからそれでいいじゃねぇかと言わんばかりの態度に何が正しいのか分からなくなる。


「ま、その話はとりあえずナミさん達も入れて聞かせてくれ。ささ、お手をどうぞ、ミス・ウェンズデー」

「まあ、ありがとう」


 船長のマイペースぶりを止める気にもならないのか、上へ登る梯子を顎で差してサンジが言い、クオンの傍らにいたミス・ウェンズデーに紳士的に手を差し出した。良い育ちをしている彼女は思わず反射的に手を取ってエスコートされるがままついていく。ちらりと視線を向けられて頷きを返せば、そのまま何も言わずに彼女はサンジの後に続いた。


「なぁクオン、お前の頭って取れんのか?」

「……。ああ、これは被り物ですからね。取れますよ」


 じぃと猫を模した被り物に視線を注がれながら問われ、一瞬何のことを言われたのか分からずに沈黙を挟んだクオンはルフィの言葉を理解すると同時に頷く。ミス・ウェンズデーが1週間はクオンの素顔を見れずに嘆いていたから、素顔がどんなものなのか気になったのだろう。


「じゃあ、その変な頭おれにも貸してくれよ!」


 訂正、気になったのは被り物の方だったらしい。
 目を輝かせるルフィに、まあスペアはあるからいいかと胸元に手を入れて自分が被っているのと同じものをにゅっと取り出す。その質量保存の法則をガン無視した懐は何なの?と言いたげなMr.9の視線を無視したクオンが被り物をがぽんと麦わら帽子ごとルフィの頭にはめてやれば、「おお~!」と被り物越しに歓声が上がった。


「すっげー!うわ何だこれ、おれの声か?」

「少々特殊な作り方をしているので、自分の声が少し変わって聞こえるでしょう。それに、視界も狭くはないはずです」


 ルフィの常の声が被り物を通して変化し、その声を被り物越しに聞いたルフィが不思議そうに目を瞬かせる。
 被り物をすることで声は低くなってくぐもり、その声に乗る感情の色を削いで、けれど外から入ってくる音は被り物を通して発されたままのそれだ。
 その奇妙さと、クオンの言う通り被り物をしているというのに内側からは多少紗がかかっているように見えるが意外と明瞭な視界に、「不思議頭だなー!!」と被り物越しでも判る楽しそうな声が上がって、クオンもまた被り物の下で小さく笑みをこぼした。





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