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白いスラックスを穿いて皺ひとつない白いシャツに腕を通し、きっちりと全てのボタンを留める。次にサスペンダーへ手を伸ばそうとすれば、簡素なベッドの上でサスペンダーのベルト部分にじゃれていたハリネズミがきょとりとつぶらな黒い瞳をこちらに向けた。手の平よりは少し大きい体躯のハリネズミの額を指で撫で、その指に短い前足を伸ばした隙にサスペンダーを取り上げてさっさと身につけると、サスペンダーと指を取り上げられたハリネズミが不満そうに「きゅぅい」と鳴く。
厚めの白いウェストコートを着て背部の裾が長い白ジャケットをまとう。ハリネズミに次の標的として狙われた白いタイを取られる前に身につけてポケットチーフを胸ポケットに入れ、最後に白手袋をはめれば、鏡には全身真っ白な燕尾服を着た
クオンの姿が映った。
「随分時間がかかってしまいましたね」
左手で白いなめらかな首を撫でてため息混じりに呟く。きゅう、と同意するようにハリネズミが小さく鳴いた声が聞こえた。
“出稼ぎ”に出る前の主の顔を思い出しながら、ベッドの脇に置かれていたサイドテーブルの上にある、これまた白く丸いものに手を伸ばす。上部には三角形が2つ、頬部分には左右対称に3本の線が、そして黒い2つの目とωな口元だけを描いた猫を模した被り物は少々間の抜けた顔で
クオンを見た。
「姫様も痺れを切らしてあの町を飛び出してもおかしくはありませんから、早めに帰りましょうね、ハリー」
きゅっきゅーい!と鳴く愛らしい相棒に微笑みかけて被り物を被った執事が主のもとを離れてから、10日が経とうとしていた。
† 東の海 1 †
あの嵐の中を何とか逃げ延び、無我夢中で“
凪の帯”を抜けて一番近くの島を目指して上陸したここは、“
東の海”、ローグタウン。別名始まりと終わりの町。かの海賊王、ゴールド・ロジャーが生まれ、そして処刑された町だ。
“
偉大なる航路”へ至る前にほぼ全ての海賊が立ち寄るこの町は大きい。それでなくともこの“大海賊時代”の幕を開けさせた海賊王の死刑台は観光名所としても有名で、地元住民、観光客、たまに海賊、そして海軍派出所が構えられているためにたくさんの海兵と、とにかく人が多く集まりいつだって賑わっていた。
どこか愛嬌があるようで間の抜けた猫の被り物をした、肩にハリネズミを乗せた全身真っ白執事服の
クオンは、すれ違う人々に驚きからぎょっと二度見されながらもその視線を意に介さずコツコツとブーツを鳴らして歩く。
“出稼ぎ”の目的である賞金首は町にいたのをさっくり狩って海軍に引き渡し金を得ている。あの嵐から逃げ延びつつも懐に忍ばせておいた宝石の類は無事で、懐はあたたかかった。適当に船を買って主のもとへ戻るには十分すぎるほどだ。
この町には、当然のように船を売っている店もある。事前に手に入れていたカタログからピックアップしていた船の下見を今日中に終わらせて、必要物資を買ったら明日にはここを出たかった。
「きゅーぅい、はりー」
「ハリー?どうしました」
肩に乗ったハリネズミが小さく鳴く。被り物越しのくぐもった声は抑揚が削がれて感情が読み取りにくかったが、ハリネズミは気にせず鼻先をあらぬ方へ向ける。その先にあるものを察した
クオンが被り物を一度縦に揺らした。
「死刑台を見てみたいのですね。下見が終われば買い物ついでに寄る予定でしたから、後で一緒に行きましょう」
「はりぃー!」
クオンの言葉に、ハリネズミが嬉しそうな声を上げる。この町に来て数日経つが、暫くは何だかんだと動けなかったので観光は後回しにしていた。
そもそも“出稼ぎ”に出る際は“偉大なる航路”を出るつもりがなかったし、本来はこの町に来る予定もなかったのだが、有名すぎるこの町に来ることがあれば一度くらい見てみたいとは思っていたのだ。
「てめぇ!!見つけたぞコラァ!!!」
ほのぼのとしていたところにふいに怒声が響いて思わず振り返れば、いかにも海賊ですと言わんばかりのいかつい顔をした男が2人、そこにいた。ガタイはよく、背が低くはない
クオンよりもさらに高い男達は青筋を浮かべて足取り荒くこちらへ向かってくる。
「そこの被り物した白い奴、てめぇだ!!」
そのご指名と殺気に満ち満ちた形相に慌てて横に人が避け、男2人と
クオンの間に一本の道ができた。
被り物をした白い奴、となれば自分しかいないことは自覚している。が、はてさて。いったい何の用だろうか。無言でことりと首を傾げると、右の男がぎりぎりと歯を食いしばって唸るように言った。
「ふざけたナリしたクソ野郎が!よくもうちのお頭を海軍に突き出してくれやがったな!」
「落とし前キッチリつけてもらうからなァ!!」
右の男に続いて左の男が言った言葉に、ああと合点がいく。この男達、
クオンがさっくり狩った海賊の部下らしい。
あの男、船長だったのか。あんまり弱かったから適当な下っ端だと思った。その部下となればもう話にならないだろうに、よくもまぁわざわざ探し出して敵討ちをしに来られるものだと感心してしまう。一応2人の顔を見るが、頭の中に叩き込んだ賞金首リストには掠りもしない。相手をする意味がありませんね、と
クオンは戦意のない瞳をひとつ瞬かせた。
「どうぞ、お帰りなさい」
「あァ!?」
「懸賞金もつかない者を相手にしても、どうしようもないでしょう?」
時間の無駄で、手間で、既に“出稼ぎ”の目的は終わっているから
クオンには彼らを相手にする理由がなかった。
言っておくと、
クオンは煽っているわけではなく、心からの親切心で言ったのだ。悪意があったわけではない。何の意図もなく言葉通りに、無駄に怪我をさせる理由もないしと困ったような顔すらしたのだが、表情は被り物で隠されていて、声もくぐもって低くなり抑揚が削がれたせいで感情が伝わらない。つまりは、ただただ下っ端海賊2人の神経を逆撫でしただけだった。
「死ねやクソがァ!!!!」
激昂した男2人がそれぞれ剣を手に
クオンへと飛びかかる。船長思いな方達ですねぇとどこかのんびり感想を抱きながらそれを見ていた
クオンは一歩後ろに足を引いて2人の斬撃を躱し、次いで一歩前に出て元の位置に戻り、前のめりに体勢を崩した男の顔をそれぞれ片手で掴んだ。
「誰かに海軍を呼ばれて捕まる前に目が覚めるといいですね」
その言葉が、
クオンにできる最大限の温情だった。彼らを殺す理由はなく、相手にする理由もなく、けれど刃を向けられればこちらは迎え討つしかない。
男2人の顔を掴み、ぐっと前へ─── 男達にとっては後ろへと力をこめる。男達の体は抵抗する間もなく地から足を離して宙に浮き、
クオンはそのまま2人を後頭部から地面に叩きつけた。
ゴォオン!!!
大きな音と共に通りの地面がひび割れる。頭から血を流して気絶した男達から手を離した
クオンはどう見ても男達より小柄で痩躯であるのに、彼らをいとも簡単に地に叩きつけた事実に、彼らを遠巻きにしていた人々が目を見開いていた。
背筋を伸ばして手袋をはめた手を払った執事の肩の上で、ハリネズミが欠伸をひとつ。短い前足で目許をこするハリネズミの顎を撫で、
クオンは通行人に向かってぺこりと丁寧に被り物をした頭を下げた。
「どうも、お騒がせしました」
左手で首を撫でた執事はそう言って踵を返し、気絶する男2人と呆然とする人々で静寂に満ちた通りを去って行った。
「執事の兄ちゃん、出航するなら今日はやめときな」
下見を済ませて買い取る船を決めた
クオンが一括で金を払うと店に立つ老人にそう言われ、無言で被り物越しに視線を返せば「もうすぐ嵐がくるぞ」と続けられる。
下見ついでの雑談で元々船乗りだったと言った老人は西の空を見て目を細めた。
クオンも同じように空を見上げるが、雲は多少あるものの天気は晴れ、雨すら降る気配はないように思える。
「気圧が落ちてる。これからどんどん下がるぞ」
「成程。出航の予定は明日なのですが…」
「明日なら、まぁ大丈夫だろうよ」
明日は晴れだ、船出日和だな。そう言って視線を前に戻した老人に忠告の礼を言い、少しばかりチップを添えた。ふんと鼻を鳴らした老人が口の端を吊り上げる。
「中古だとしても大きな船を一括で買ってくれたんだ、“
記録指針”ぐらいはつけてやろう」
「おや、そんな貴重なものまで?」
「据え置き型だがな。旧式の」
「十分です」
旧式といえど、“記録指針”は“
偉大なる航路”を航海する上での必須アイテムだ。“記録指針”の存在すら知らない者が少なくないことと、この“
東の海”が最弱の海と呼ばれることを考えれば、破格すぎる申し出だった。
老人の言った通り、誇張抜きに大きな船を買った甲斐がある。10人は余裕で乗れる船は1人と1匹で乗る分には大きすぎるが、最近の主の身の周りを考えれば決して小さくはない。そろそろ
上の連中には主の素性がバレていてもおかしくはない頃だから、色々と積めるだけ積んでおきたいのである。
「執事の兄ちゃん、船を出すときにはこれを持って来な」
老人から何かを書きつけた紙を渡される。受け取って見てみれば“引換券”の文字と船の番号、そして老人の名前らしきサインが小さく書かれていた。大きな買い物の割には随分と薄く軽い紙だったが、その妙なアンバランスさが気に入った。
「その紙を持ってくればおれは船を出す。だが、その紙がなきゃ何を言ったって船は出さねぇ」
「分かりました」
話はそれで終わり、
クオンは紙をジャケットの内ポケットに仕舞って踵を返した。
店を離れ、通りすがる人々に奇異の目で見られながら大通りに戻ってきたところでふと空を見上げる。雲が多くなっていた。老人の言う通り、じきに嵐がくるのだろう。
「ハリー」
「きゅ?」
「嵐が来る前に、死刑台を見ましょうか」
買い物は明日でもいい、どうせ明日は晴れるのだから。
肩の上に乗っていたハリネズミが嬉しそうにひと鳴きした声に押されて、
クオンは死刑台の方へと足を向けた。
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