たそがれ





 白い手がゆっくりと自分に伸ばされるのを認めて、腰を屈めて頭を下げる。包むように頬に触れたやわらかな感触に目を細めれば、目の前の少女が少しだけ不安そうに眉を寄せた。


「できるだけ早く帰ってきて」

「……ええ、努力はいたします」

「1週間よ、それ以上は待てないわ」

「存じております」


 少女の拗ねるような響きに頬をゆるめて目を伏せる。だが視界から鮮やかな水の色が消えたことが惜しくて、再び瞼を開いて少女と目を合わせた。少女は目が合ったことに嬉しそうに微笑み、頬に寄せていた指をこめかみから頭へと滑らせて髪に触れる。感触を楽しむように数度梳かれ、髪の一本一本を愛でるように指で撫でられた。


「怪我はしないでね」

「努力はいたします」

「その綺麗な顔に傷がついたら、私泣くわ」


 至極真面目な顔で断言され、それは困りましたねと返せば、そうでしょう、困るでしょう、と悪戯っぽく笑みを含んだ声がやわらかく耳朶を打つ。
 だから怪我をしないでね、と念を押されて頷く代わりに刷いた笑みを深めると、目の前の少女は顔を赤く染めて声にならない声を上げた。ずるいわ、本当にずるい、と恨めしげな声に、思わず吐息のような笑いがこぼれた。


「あなたは本当に、私が好きですね」

「ええ。好きよ、大好きよ。だから絶対に、私のところへ帰ってくると約束して」

「約束しましょう」


 自分が僅かな時間でも少女のもとを離れるたびに幾度となく繰り返されてきた約束を、なめらかな口調で紡ぎ直す。もう何度繰り返したかも分からない約束をするたびに少女は大きな瞳を揺らして懇願することに、たとえ何度繰り返したとしても毎回必ず真摯に応えた。
 少女の指が頭から頬へと戻る。軽い力で引かれるまま顔を少女に近づければ、こつりと額がぶつかって至近距離に美しい瞳が見えた。


「必ず、あなたのもとへ戻ります」


 少女はそれに応えず、頬から離した手を首に回してかじりつくように首元に顔をうずめた。押しつけた額をぐりぐりとこすりつけられる。
 首元に懐く少女の後頭部にゆっくりと伸ばした手で撫でると、首に回った腕にこめられた力が強まって、口元がゆるむ自分を自覚する。本当にこの少女は、たかだか1週間程度の“出稼ぎ”ごときにこうも強い願いを向けてくれる。


「ネフェルタリ・ビビ様、大切な我が主、私のお姫様。約束は必ず。ですので、あなたも私の言いつけをきちんと守ってくださいませ」

「……分かっているわ、クオン


 だから、と少女は何度だって念を押す。そのたびに頷きを返して、その執事は幾度となく繰り返されてきた大袈裟な一時の別れを、今日もまた繰り返した。





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 黒刀が視界の端に見えた。海は嵐でうねり、人が荒れ狂う波に呑まれていく。船が割れて、怒号と悲鳴と断末魔が聞こえて、鋭いその眼が自分を貫くのを見た。


(逃げなければ)


 頭の中はそれだけだ。もはや本能が命じている。ここから離れろ、逃げろ、あれから距離を取れ。耳朶をけたたましく打ちつける音の奔流よりも、頭の中で鳴り響く警鐘の方がうるさいくらいだった。

 適当に見かけた船団に潜り込み、貯め込んだ財宝少々と大して高くはない賞金首をひとつ確保して撤退するだけだったはずなのに。
 なぜ、ここにこの男がいるのか。それは分からないし、分かりたいとも思わないし、そんなことを考えるくらいよりも逃げるために足を動かして逃げの一手を打った方が早かった。


(約束をしたのだから)


 必ず彼女のもとへ戻ると約束したのだから、約束は果たさなければならない。何度繰り返したって心配そうな顔で自分を見送る主を、帰ってきた自分を見て安堵で顔をほころばせる彼女に笑みを返すために。
 なのにそれを、あの眼が許さないとばかりに斬り捨てようとする。船やその破片、人やうねる波が嵐でミックスされて視界など不明瞭なはずなのに、あの眼は確かに自分だけを見ていた。

 盗み取った財宝はほとんど捨てた。そんなものが何の役に立つというのか。
 賞金首は真っ先に捨てた。肉壁にすらなりはしない。
 己が身ひとつ、嵐にまぎれて逃げるために逆巻く海へ飛び出した。しかし、それよりもはやく。


(─── 姫様)


 黒刀が、見えて。
 見えたらそれはもう、避けることなどできるはずもなかった。



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