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昼間、半ば無理やり青子に連れられて行った紅葉狩り。
赤、橙、黄。あたたかな三色の色が山を彩り、グラデーションをかけているそれに、綺麗だなと素直に感嘆した。
ひらひらと枝を離れて地に落ちる葉。足元にかかったそれを拾って、あの人に見せたいと、そう思った。
名前を教えてくれない彼女は、外に出ることはあるのだろうか。
日焼けを知らない白い肌が脳裏にまざまざと蘇って、同時に彼女の体についた傷まで思い出してしまった。
かぶりを振って思考を払う。気持ちを切り替えた快斗は、彼女に見せるために、散って地上に落ちる前の紅葉をいくつか手にした。
□ 深淵を覗く 4 □
今日はやめておいた方がいいかもしれない。
いつものように彼女が住む高層マンションの屋上で待機していた快斗は、唐突にそう思った。
何だろう、嫌な予感がする。どこかざわざとして落ち着かない。
(でも、今日を逃したら嘘ついたことになっちまうよな…)
ちらりと目を向けた空に浮かぶ、ひと筋の細い月。明日には溶けて消えてしまう。
学校行事やキッド業で忙しく、今日までどうしても時間が取れずにいた。だから、今日彼女に会いに行かなければ「月が闇夜に溶けきる前に」と言ったのに嘘をついたことになる。嘘をついたことになれば、彼女がどう思うかは分からない。おそらくどうとも思わないのかもしれないが、快斗自身が彼女に嘘をつきたくはなかった。
「…風も強ぇし、今日は早めに切り上げるとするか」
嘘にならないよう彼女にひと目会って、また、と再会を願う言葉を残せばいい。紅葉はどうしても見せたいが、次の機会へ取っておこう。それか、彼女を連れ出して直接見に行けばいい。
自分の結論にうんと頷き、双眼鏡でベランダを覗くも彼女の姿はなく。しかし落胆はしない。
快斗はまずキッドの衣装を纏い、黒い布で体を覆うと、初めて彼女と対面したときのようにワイヤーを屋上に引っ掛けて滑り降りた。目的地よりやや上方で止まり、壁に足をつけてベランダを覗きこむ。
残念なことに窓は厚いカーテンに覆われていて彼女を見ることはできなかったが。
(…人の気配はする、と)
となれば、それは間違いなく彼女だ。
ノックして存在を知らせようかとも思ったが、逆にそのまま出て来なくなられては困るし、他に誰か人間─── 彼女の体を傷つけた者がいるとも分からないのでやめておく。
このままぎりぎりまで待って、出て来ないようならカードをひとつ置いて去るとしよう。
高層マンションで夜気に晒されるが、黒い布で体を覆っているし、マントにもひとつ仕掛けを施してあるから寒いとは感じない。
(……ん?)
暫く待ち、そろそろ腕が疲れてきたからベランダに座って待ってようかと思ったそのとき、ふいにカーテンが揺れた。
そこから見えたのは、待望の彼女。今日は疲れた様子はなく、首の傷も殆ど痕を残さず癒えていて無意識にほっと息をつく。
彼女はカーテンを開け、カーディガンを羽織ると窓を開けてふらりとベランダへ出て来た。いつものように手すりに凭れ、じっと細い月を見上げる彼女はキッドに気づいていない。
そしてふと、地上へと視線を落とした。その隙に音を立てないよう黒い布を仕舞って手すりに腰掛ける。
ワイヤーを回収し、彼女へ声をかけようとすれば、それよりも早くに彼女がぽつりと呟いた。
「…キッド…」
瞬間覚えたのは、歓喜ではなくどうしようもない、全く予想していなかった嫉妬だった。
彼女はキッドの名を呼んだ。構わない。むしろ嬉しい。それなのに、彼女が“快斗”ではなく先に“キッド”として自分を呼んだことが悔しかった。
名前を呼ぶならオレを─── “快斗”を呼んでよ、と理不尽な想いを抱く。彼女は“快斗”のことなど何も知らないのに。
しかし、今は自分自身に嫉妬している場合ではない。
半ば無理やり思考を切り替え、足を組んでいつもの涼やかな笑みを刷いて声をかける。
「呼びましたか、美しいラプンツェル?」
「!」
勢いよく彼女が振り返る。その顔はやはり無表情で、しかし僅かながら目が瞠られていて、驚いているのだと判った。それにくすりと笑みを深めれば「いつの間に…」と呟かれ、だがそれに答えずベランダへと足を踏み入れる。
「本当に来たんですね」
「もちろん。本当はもっと早くに、ラプンツェルに会いに来たかったのですけれど」
風に遊ばれる髪を押さえながら彼女が言い、それにキッドは本音と笑顔を返す。
さて、あまり長くここにいては彼女の体が冷えるし、未だ胸の奥のざわめきが止まらないから、大変名残惜しくはあるが早々に立ち去ることにしよう。
「ですがもう夜は冷える。ラプンツェルのぬくもりが風にさらわれぬうちに去ることにしましょう」
「冬も近いですからね…ああ、あなたのマントを貸してくれたら暫くここにいれますけど」
あっさりと頷かれると思っていただけに、返って来たその言葉に目を瞠った。
「…私にお付き合いしてくださると?」
「私に会いに来たんでしょう、あなたは」
違う?と首を傾げられ、表情の一切が無いはずなのにどうしてか可愛らしく映り、あざといな、と思わず内心でため息をついた。
前回はともかく、前々回─── 初めて会ったときは問答無用で部屋に入ろうとしていたくせに、今はキッドを引き留めるかのような言葉を紡ぐ。期待してしまう。触れてもいいのかと、許されたのかと。
「…ありがとうございます」
湧き上がるままふわりと優しい笑みを浮かべて彼女に手を伸ばすが、それはさっと両手を引っ込められたことで拒絶された。
やっぱりダメか。残念ではあるが、会いに来たことを彼女はどうやら許しているようだし、もう少し逢瀬を重ねれば、せめて触れることくらいは許してくれるかもしれない。
小さく苦笑して言われた通りマントを外して渡す。気をつけて手に触れないよう渡すと、彼女はマントを体に巻いて白に包まれた。
仕掛けを施しているため、マントは暖かいはず。彼女は物珍しそうにマントを見下ろしたが、結局その仕掛けが分からなかったようだ。
(さぁて…せっかくラプンツェルがくれた機会だ。これを逃す手はねぇ)
彼女に見せたかった紅葉。それを披露するための前振りとして、外はもう紅葉も散る頃だと話題を提供する。そうですかと頷いた彼女は、「今年は見る機会がありませんでしたけど、きっときれいだったんでしょうね」とほんの少し遠い目で呟いた。
今年は見ていない。ならばちょうど良かったかもしれない。キッドはすかさず問うた。
「見たいですか?紅葉」
「え?…まぁ、そうですね」
見たい、かも。彼女の小さな呟きが吐息に混じって消え、曖昧に頷いたのを見て、キッドはにこりと笑った。途端彼女の体が警戒するように微かに強張る。大丈夫、あなたには絶対に触れたりしないから。
内心の思いは言葉にせず、キッドは目を閉ざすとゆっくりと指を振った。
「スリー、ツー…─── ワン!」
ポンッ!
キッドの合図と共に、軽快な音と煙が彼女が纏うマントの下から弾けた。
マントが大きく翻って彼女の視界を遮り、弾けた暖かな風がその長い髪を煽って黒曜の目を伏せさせる。
さすがに驚いたらしい彼女は、しかしすぐに目を開け、瞬間白から鮮やかな赤へと変えて視界を覆うそれに目を瞠った。
「…え…」
ひらり、ひらり
呆然と彼女が声を発する。
夜風に吹かれながらゆっくりと散るのは、昼間に集めた紅葉。彼女の、下げることを忘れた手の平に赤が滑り落ちた。
夜の闇と、細い月と、鮮やかな赤。更に橙色と黄色も混じる葉がひらひらと時折ゆるく回りながら散りゆく様子は幻想的で、彼女も言葉を失って紅葉に視線を奪われている。彼女の黒曜が、ふるりと震えた。
「…ラプンツェル、あなたにどうしても見せたかった」
静かな優しい声音で半ばひとり言となった言葉を呟けば、彼女は導かれるようにキッドを振り返った。
鮮やかな赤と黄が織りなす御簾がキッドと彼女を別つ。それに少しばかり感謝する。美しい紅葉に彩られた彼女はため息をつきたくなるほど綺麗で、儚い御簾がなければ衝動的に抱きしめていただろう。
(うつくしい、ひと)
欲しい。どうしても、この人が欲しい。
その黒曜の目に、自分を捉えて離さないでほしい。オレだけを見て、と、ともすれば駄々をこねたくなる。
正面から真っ直ぐに彼女を見つめていれば、彼女もまたキッドを見つめながら、その黒曜を大きく震わせた。ざわりと凪いでいた瞳が波を立て、その奥底に眠っていたものを垣間見させる。恐怖にも似た色をほのかに差し、その白い指が手の平に乗った紅葉をくしゃりと握り潰した。
(…って、お前はよぉ)
ふと、彼女の髪に引っかかる紅葉に気づいて内心でため息をつく。
鳩といいマントといい紅葉といい、どうしてキッドより先に彼女に触れるのだ。誰よりも彼女に触れることを渇望しているのは、おそらくキッド自身だと言うのに。
ふ、と腕を伸ばして紅葉に手を伸ばす。すると彼女はぴくりと反応を示して微かに身を竦め、それを僅かに目を細めて見たキッドは彼女に触れないように紅葉を掬い取った。
「最後まであなたから離れたくないと…嫉妬してしまいますね、こんな小さな紅葉に」
丁寧な言葉遣いで、しかし嫉妬は隠せないまま、風に吹かれて消えてしまいそうな言葉をこぼしたキッドは恭しく紅葉に口付けを落とした。そして、それを彼女の唇へ触れさせる。
一枚の葉を伝った間接キス。彼女の心を揺さぶることが、できただろうか。
大して力をこめていなかった指を紅葉から離せば、紅葉は呆気なく夜風に吹かれて舞い、光る街の森へと消えていく。
(ダメだ、オレ…我慢できそうにねぇ)
ざわざわと治まらない衝動に胸が圧迫されて苦しい。
今すぐに彼女を攫ってしまいたい。紅葉を握り潰した手に己のものと重ね、小さく震える瞳の奥を暴いて。
だが、今乱暴にしようとすれば絶対に逃げられる。逃がさない。彼女が欲しい。大切に、丁寧に、攫う。
パチン
ひとつキッドが指を鳴らすと、もう一度ポンッと音を立てて煙が上がり、散っていたはずのたくさんの紅葉は一瞬で消え、彼女が纏っていたマントを手の内へと戻す。
ひゅぉうと冷たい風が肌を刺してぬくもりを奪う。小さく体を震わせた彼女の熱も、急速に奪われているだろう。
「ラプンツェル」
キッドは微笑みと共に手を伸ばす。
行こう。オレと、ここを出よう。こんな場所にいずに、あなたが傷つけられない場所にいこう。
オレなら逃がしてやれる。美しい娘を天高き塔に閉じ込める魔女から、盗んでしまえる。
何も心配はいらない。だから行こうと、悪魔の囁きにも似た優しい声音を、白い鳥は紡ぐ。
「だめ」
しかし、彼女は弱々しくそう言って後退った。
その確かな拒絶に、この手を取ると半ば無意識に確信していたキッドは目を見開いた。そんなキッドを睨みつけるように見て、彼女はしっかりと首を横に振る。
「言ってはいけない。そしてあなたはもう、ここに来てはいけない」
「ラプンツェル、何を」
「それは私の名前じゃない。私は閉ざされたんじゃない、自分からここに入った」
何を、言っているのだろう。
閉ざされたんじゃない、自分からここに入った?その意味するところは。
やはり彼女は、ここに閉じ込められているのか。暴力を振るわれ、時の流れから置いていかれ、ひとりで。
なのに、逃げ出すチャンスを目の前にして、伸ばされた手を彼女自身の意志で振り払うのか。
「あなたと共に行くことは、できない」
はっきりとした声音で言い切られ、思わず呆然としたまま立ち竦んでいると、彼女はキッドに背を向けて振り切るように部屋へ入ってしまった。
窓を閉め、鍵をかけ、カーテンを閉められる。彼女の姿を目にすることは、もうできない。
「─── 次の、満月の晩に」
気づけばそう声をかけていて、キッドはぎちりと彼女に伸ばした手を固く握り締めた。
諦めない。諦められない。あなたは一体、何を抱えている。何に繋がれてここに閉じ込められている。
「もう一度だけ、あなたのもとに参ります」
そしてそのとき、白い鳥は彼女を無理やり攫おうとするだろう。
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