彼女に告げた「次の満月の晩」は、奇しくも12月25日。クリスマスの日だった。
 クリスマス会をするのだとうるさい青子を振り切り、住み慣れた街を抜け、ここ数ヶ月ですっかり慣れた土地へと足を踏み入れる。そうして、いつものように高層マンションへと忍び込んで屋上へ。

 今日この日まで、ずっと考えていた。
 彼女が紡いだ数少ない言葉から読み取れる事実を、その意味を。

 それでもやはり、あの黒曜の目が欲しいという想いが消えることは、なかった。





□ 深淵を覗く 5 □





 双眼鏡で覗いていたベランダに彼女の姿が見え、現れてくれたことにほっと安堵の息をついた快斗はキッドの衣装を身に纏うと屋上にワイヤーを引っ掛け、初めて対面したときと同じ現れ方でベランダの手すりへと降り立った。


「…こんばんは、美しいレディ」


 声は震えていなかっただろうか。ちゃんと笑っていれているだろうか。父親に言われたポーカーフェイスも、何だかぎこちない気がする。
 たぶん、直感的な部分で分かっているのだ。彼女との逢瀬は、これが最後になるということを。

 きれいな一礼をし、彼女の雰囲気がベランダに入ることを許さないのでそのまま手すりに留まる。彼女はこの真冬のように冷えた目に突き放すような色を浮かべ、キッドを射抜いた。


「…キッド、前にも言ったように、あなたはもうここに来てはいけない」

「なぜ?理由を聞かせてください」

「私はあなたと行くことはできません。あなたの手は取れない。そして最初に言ったでしょう、『死にたいんですか?』と」


 風が吹く。冷たく、2人を切り裂くような風が。
 それに身を切り裂かれるような痛みを覚えた。ぎしぎしと胸が軋んで痛む。表情の一切が抜け落ち、恐ろしいほど静かな黒曜の目に射抜かれて呼吸もままならない。

 風に煽られた長い髪を雑に後ろへ払い、彼女は冷え切った空気を短く吸うとおもむろに右手を動かした。
 彼女の目からその白い手が握る武骨なものへと視線を動かして認め、キッドは音もなく息を呑んで目を見開く。


(─── なん、で)


 彼女が静かに照準を合わせて向けて来るのは、月光を鈍く反射する黒塗りの銃。
 モデルガンではない。正真正銘の本物だと判ってしまった自分が少しだけ恨めしい。
 だが、どうして彼女はそれをキッドに向ける。「死にたいんですか?」と彼女に問われたとき、「そのたおやかな指にかかって死ねるのならば、本望ですよ」と、確かに自分はそう答えた。
 だから、彼女はキッドに銃口を向けるのか。決意に満ちた、冷ややかな目で。


「あなたがここへ迷いこまなければ、私はあなたを撃たずに済んだ」

「…何を…」

「動かないでください。外せば、他の人に殺されてしまう」


 彼女の瞳は揺らがない。静かな夜の湖面に似た黒曜が真っ直ぐキッドを見つめている。それに射竦められて身動きひとつ取れず、キッドはただ己の浅はかさに唇を噛んだ。


(どうやらオレは…絶対に手を出しちゃいけねーやつに、手を伸ばしちまってたらしいな)


 固まる体とは裏腹に、才能に溢れた知能は素早く回転して瞬時に状況を把握していく。
 彼女が撃たなければ他の人に殺される。それはただの脅しではなく、事実だ。
 ここで逃げれば、この白い衣装は間違いなく赤く染まる。そうさせないために彼女はキッドへ銃を向けていて、そうさせている自分が腹立たしかった。


「…私に優しさをくれて、ありがとうございます。けれどそれは、あなたを追い詰めるだけのものでした」

「……あなたは」

「何も知らず、私のことを忘れ、二度とここへは来ないよう」


 動かない無表情で淡々と言い、彼女は照準をキッドの心臓に合わせた。ぶれない照準とその構えに、彼女が銃の訓練を受けた人間なのだと判る。
 おそらくこの部屋に監禁され、逃げ出す能力のひとつはありながらここに留まり、助けようと手を伸ばした者を彼女自身の意志でもって振り払う。
 何が彼女をそうさせている。誰が彼女の後ろにいる。彼女を取り巻く闇が、ざわりと牙を剥いた。


(くそっ…!)


 何か手はないのか。彼女をここから連れ出す手は。
 内心で自問するが、今この場で思いつけるはずもなく。

 もう一度悪態をつきかけたそのとき、ふいにちらりと白が視界に降って来た。
 はっとして空を見上げる。空を覆う薄雲からちらちらと雪が降ってきていて、気づけば月は雲に隠されていた。


「…ホワイトクリスマス」


 ぽつり、キッドが降りしきる雪を見て呟く。
 すると、銃口をキッドに向けたままの彼女はほんの僅かに唇を歪ませた。それは、笑みというにはあまりに歪な。
 それがどういった意味をもっているのか、正確には分からない。けれど、彼女が意志を更に固くしたことだけは確かだった。
 彼女の血の気をなくした白い指が、ゆっくりと引き金に触れる。

 それを見て、キッドは我を通そうとすることをやめた。
 殺意も害意もない彼女がなすことを、見届けよう。たとえ殺されたとしても。
 きっとそれが、愚かな道化師になりかけた自分のなすべきことなのだろう。


「子供達は明日の朝、プレゼントをもらい喜ぶのでしょうね」

「あなたももらうんですか?キッド、その名前が示す通りに」

「そうですね…ですが私はあくまで泥棒。欲しいものは、自分で手に入れたいのです」


 雪舞う空を背景に、キッドは綺麗に笑う。けれど、どうしても抱く切なさは抑え込めそうにない。
 欲しかった。今も欲しいと思っている。心奪われた。その黒曜石に、どうしようもなく。
 けれどそれはもう、手に入らない。諦めることはまだ、できそうにないけれど。
 彼女が細く息をつく。吐息は寒さに負けて白く染まり、瞬時に夜気へ溶けた。


「……ひとつだけ、あなたに約束をします」

「え?」


 思ってもみなかった言葉に思わず目を瞬く。
 彼女の顔を改めて見て、その黒曜の瞳から冷たさがなくなっていることに気づいた。


「今度は、私から会いに行きます。待っていてください。どんなに遠くても、あなたが私を分からなくなっても、必ずあなたに会いに行きます」


 それって。キッドが何かを言おうと口を開きかける。
 しかし、それを遮るように彼女は言葉を続けた。


「そして最後に、問いを残します。私が約束を果たしたときに、その答えを教えてください」


 長らく冷えた空気に晒されていた白い指が引き金にかかる。
 そして彼女は、躊躇いなく引き金を引いた。


「─── あなたは私のために、死ねますか」


 甲高い音と共に、キッドの首横数cmのところを弾丸が通り過ぎていく。
 約束と問いと弾丸に押されたキッドは、ぐらりと体勢を崩して手すりから滑り落ちていった。
 冷たい風が耳の横を切る音を聞きながらベランダへ手を伸ばす。当然のこと、届くはずもない。

 彼女との一方的な“約束”。
 決して果たされることのないそれが、キッドの顔を大きく歪めさせた。

 ハンググライダーのスイッチを入れて宙に浮く。
 そのまま風に乗って高層マンションから離れ、ビルの合間を縫って闇に紛れながら、二度と来ることのない地へと背を向けた。


 ─── あなたは私のために、死ねますか。


 頭の中で何度も何度も繰り返される彼女の問い。
 ああ、そうかあなたは。死を覚悟しろと言うのか。あの黒曜石に手を伸ばすのなら、相応の覚悟をしろと。
 今すぐに答えは出ない。彼には、大切なものがたくさんありすぎる。それら全てを投げ打って彼女に応えるだけの覚悟は、まだ、ない。

 けれどやはり、それでも。


「名前も知らない、あなたのことは何も分からない、それでもオレは─── あなたが、欲しい」


 手に入らない。諦めなければならない。
 解っていても、どうしても、その想いは到底消せそうにない。
 あの黒曜石に心を奪われた。オレを見てほしい。オレだけを。

 “約束”が果たされる日はくるのだろうか。
 けれど、いつか彼女が自分の足でやって来るのを待って、問いの答えを用意しておこう。それまでは、自分は怪盗キッドとして闇夜を駆け抜けよう。


 愚かしくも愛してしまった、あの人を待つために。



 top