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名前を聞き忘れたことに気づいたのは、邂逅を終えて帰宅し、彼女との会話の余韻にひたりながらベッドに横になったときだった。
己の失態に頭を抱えて舌を打ったが、何とか落ち着かせる。焦ることはない。また会いに行けばいいのだ。
「次はいつ行けっかなー」
弾む声を隠すことなく自室に響かせて、快斗は笑った。
□ 深淵を覗く 3 □
次に彼女のもとまで会いに行くまで、10日はかかった。
キッドとしての仕事は数日前に終えていたが、やはり彼女は毎日ベランダに出るわけではないのか、それともキッドと出会わないようにしているのか、姿を現すことはなかった。できれば前者でいてほしいとは思うが。
秋も深まりつつあって外は寒く、夜となれば尚更だ。
今日こそ会えるといいな。そんなことを思いながら、今日もまた快斗は双眼鏡で目的のベランダを覗く。何かオレ、ストーカーじゃね?とちらりと思ったことは考えないようにした。
暫く待つと、前回よりかはずっと早く彼女が姿を現した。そのことにぱっと顔を明るくさせて早速キッドの衣装を纏おうとすれば、ふと彼女の白い肌に目がいって思わず動きを止める。
「…何だよ、あれ…」
双眼鏡の倍率を上げて彼女の痩躯─── 特に首元を見て、呟かれた声は掠れて夜気に消える。
ベランダの壁に凭れ、足を投げ出して気だるげに座り込む彼女。月光に照らされる白い首にあるのは鬱血痕など可愛いものではなく、血の滲む歯型。彼女がおもむろに手首についた痛々しい指の痕をさすっているのを見て、ざわりと全身の血が沸騰するような怒りを覚えた。
「誰が…あの人に、あんなこと」
思わずぎちりと奥歯を噛み締め、眉をきつく寄せて唸る。
もしかすると彼女は、誰かに暴力を受けているのか。だから、あそこまで表情を消してしまっているのか。
だとしたら、おそらく彼女は日常的に誰かから暴力を振るわれているに違いない。
助けなければ。あそこから彼女を連れ出して、彼女に笑顔を取り戻さなければならない。
双眼鏡を外してざわめく心を何とか無理やり抑えつけ、深く深呼吸を繰り返した快斗は、瞬時に白を纏ってちらりと眼下を一瞥すると躊躇いなく屋上から飛び降りてハンググライダーを広げた。
今日はワイヤーは使わない。何度も同じ手を使っては面白くないからだ。
「こんばんは、美しいレディ」
ハンググライダーで大きく旋回してベランダに入り、彼女の隣へ降り立って声をかける。
彼女は前回と違い、無表情ながら億劫そうに見上げてきた。そのためその首に残る痕がはっきりと見えて苛立ちが増し、けれどそれを苦笑で覆い隠して気遣わしげに見下ろす。
「10日ぶりですが、ご機嫌麗しゅう…というわけではないようですね」
それに、彼女は吐息のようなため息をついて「10日も経っていたんですか」と淡々と返す。抑揚のない声はやはり力無く、どうやらひどく疲れているようだ。
その原因が決して暴力だけでないことを悟りながらも内心を口にはせず表にも出さず、「お忙しく、忘れていましたか?」と問いかけると、逆ですよと言葉が返ってきた。ゆったりとしすぎて日付の感覚がなくなってる、と続いた言葉の意味は何だろう。
キッドはちらりと部屋の中へと視線を滑らせ、その一見すると普通の、けれど明らかな違和感をもった室内に目を鋭くした。
カーテンが開かれた部屋の中には、生活感はあってもカレンダーや時計の類がひとつもない。更にテレビも電話もなく、乱れたままのダブルベッドがいやに浮いているように見える。
ここが寝室だからか。いや、寝室ならやはり時計のひとつはあるはずだ。携帯電話の類も見当たらず、かといって彼女が持っている様子もない。
(何だ、この感じ)
ざわざわと直感的な部分がざわめいて落ち着かない。
今、自分は決して手を出してはならないものに手を伸ばしてはいないか。そんな不安と警戒が呼び起こされ、警鐘となって頭の中に鳴り響く。
しかし、ふと視線に気づいて目を動かすと無表情に見てくる彼女と目が合い、少し苦みのある笑みを浮かべて彼女へと顔を向け直した。
彼女は半ば倒れ込んでいた体を起こし、しかし立ち上がる気力はないのか、姿勢を整えただけで動きを止め、吹き込んでくる風に遊ばれる長い髪を雑に払ってぽつりと口を開く。
「怪盗キッド…8年前に姿を消して以来一度も現れることはなかったから、死んだか辞めたものかと思ってましたけど…」
「あなたのような美しい人に覚えてもらえていて、光栄ですね」
「名前を聞いてから暫くして思い出したんですけどね」
淡々と抑揚なく言葉を返され、ひとつの事実を知る。
彼女は、キッドが最近蘇ったことを、知らない。
あれだけメディアを騒がせているのだ、テレビや新聞を見れば嫌でも目に入る。余程興味が無い人間なら知らずともおかしくはないが、8年前にキッドが活動していたことを知っている人間が知らないはずはない。
ならばなぜ知らないのか。知るための媒体を持っていないからだ。テレビ、新聞、携帯電話。そして外の情報を与える人間。
(おいおい、これじゃまるで…この人は)
ここに、監禁されているみたいじゃないか。
突拍子もないその仮説は、しかし彼女の肌に刻まれた傷と、彼女が呟いた情報から事実へとすり替わろうとする。
落ち着け、それは早計すぎる。だって彼女は、監禁されているにしてはあまりにも“普通”だ。逃げ出す素振りは一切無く、むしろ“外”からの来訪者であるキッドをひどく警戒した。
(この人は、何なんだろう)
本当に監禁されているのか、それともたまたま現代に蘇った怪盗キッドを知らないのか。
それを判断する材料は今の時点で揃っておらず、ひとまず考えないことにして、静かに紡がれた彼女の声に耳を澄ませた。
「…で、あなたは何の用でここに?迷いこんだ、という言い訳はもう聞きませんよ」
「あなたに会いに」
にっこり。暗がりでも判る笑顔と共に即答したキッドへ、少しだけ沈黙を挟んで彼女は物騒な問いをした。
「…死にたいんですか?」
「そのたおやかな指にかかって死ねるのならば、本望ですよ」
涼やかな笑みを崩さぬままでいれば、彼女はまたため息をつく。
その無表情を笑顔で見つめながら、キッドは考える。さて、今の問いはただの物騒な脅しか、それとも真実か。
後者へと思考が向きかけたところで、ふいに「っくしゅ」と小さなくしゃみが聞こえて思考を止めた。
彼女の白い顔が更に白くなり、水分が残っていた髪も頬に貼りついている。薄手の長袖に包まれた腕をさすって、どうやら寒いらしい。
もしかしたら彼女は風呂上がりだったのかもしれない。だとしたら湯冷めして風邪をひいてしまう。
一刻も早く部屋に戻した方がいいことは判っていたが、もう少し話したいという気持ちの方が勝って、彼女に触れないよう、マントを取り外すと彼女にどうぞと言いながら優しくかけた。
「本当はあなたを部屋に戻らせた方がいいのは分かっていますが、私はまだあなたと話がしたい」
じっと見つめられ、このまま距離を詰めた状態では部屋に戻られかねないとすぐに元いた場所へと戻る。
彼女は触れることを許さず、また傍に寄ることさえも許さない。もどかしさは感じるが部屋に戻られては困るので、彼女が許すまではその意志に従うことにした。
「……あり…がとう、ござい、ます」
妙にたどたどしく礼を言われ、しかしそれに突っ込むほど野暮ではなく、ただ静かな笑みを返す。
しかし、礼を言われたということは、少しくらい警戒心を解いてくれたのかもしれない。
キッドは「ではひとつだけ」と指を立てた。
「美しいレディ、どうかあなたの名前を、この愚かな泥棒にお教え願えませんか」
「……」
彼女はそれに、答えなかった。視線を僅かに下げてマントを握り締め、唇を固く閉ざしたまま黙り込む。
答えないのか、答えられないのか。その判断はつかないが、美しいその目を曇らせるわけにはいかない。
(…光る街の森に、閉ざされた天高き塔…ね。オレもうまいこと言うよな)
内心で自画自賛して軽やかに立ち上がり、この塔に閉じ込められているかもしれない彼女へ微笑みを浮かべて口を開く。
「では、あなたのことは“ラプンツェル”と」
「……?」
「光る街の森の中、閉ざされた天高き塔に閉じ込められた美しい娘。まるであなたのようだ、“ラプンツェル”」
「……私は、あなたを招き入れたりしませんが」
「確かに以前ここへ迷い込んだ私ですが、私は王子ではなく泥棒。あるいはただの白い鳥。人間の王子と違い、直接あなたへ会いに来る羽をもっている」
光る街の森。容易に出ることはできないマンションは天高き塔。許しもなく入って来たのは白い鳥。王子はいない。魔女は、彼女をここに閉じ込める人間。
白い鳥は優しくさえずり続けよう。彼女のことを知るために、白い翼を広げて会いに来る。
そしていつか、あなたをこの塔から攫い出す。彼女にキッドの手を取ってもらい、そのふたつの黒曜石を手に入れる。
(オレなら、この人をこんなに傷つけたりしない)
無表情は揺るがず、静かな黒曜の目も凪いだまま、彼女はひとつ息をつくと腰を上げた。
今日の逢瀬はこれで終わり。まだもう少し、とは思うが、彼女の機嫌を損ねてしまうわけにはいかない。
彼女の手に触れないよう気をつけてマントを返してもらい、一瞬で装着すると綺麗な一礼をした。そして体重を感じさせない身のこなしで手すりに足をつける。視点が高くなったため、彼女が静かに見上げてきた。
「それではラプンツェル、月が闇夜に溶けきる前にもう一度お会いしましょう」
またここに訪れることを示唆する言葉を残し、キッドは躊躇いなく手すりから飛び降りた。その瞬間でも彼女は無反応で、それを少し残念に思いながらハンググライダーを広げる。
ひゅぉうと風を切りながら高層マンションに背を向け、ちらりと振り返れば、彼女はじっとキッドを見つめていたが、すぐに踵を返して部屋へと入って行った。
それを見送ったキッドもまた、帰路につくために闇夜へと消えた。
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