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次は、と決意したはいいものの、彼女がいるこの街は江古田から離れていて距離があるため、毎日通い続けるのは難しい。
更に学業にキッド業が重なって少々忙しい毎日を過ごしている快斗が何とか隙を見つけて再び高層マンションにやって来たとき、彼女はベランダに出ていなかった。
(今日もいねぇ…)
目立たぬよう黒い服を纏って闇に紛れ、いつでも白を纏って降り立てるよう忍び込んだマンションの屋上から彼女の部屋を双眼鏡で見てみるが、どうやら今夜もまた外に出て来ることはなさそうだ。
□ 深淵を覗く 2 □
未だ名前も知らない彼女の眼にどうしようもなく惹かれてしまっていることに、面会を果たせぬまま2週間が経った頃には、快斗は自分の気持ちを自覚していた。
おそらくこれはひと目惚れ。あの美しい黒曜石に、心を奪われてしまった。
オレはあの人の名前も声も知らねぇんだぞ、と自分に言い聞かせても、だからどうしたと別の自分が言い返す。だから会いに行くんだろう、と。
(表札もなかったから、苗字すら知らねぇんだよな、オレ…)
プライバシーだの何だのとうるさい今の時代では、表札がないのはそこまで不自然ではない。
寺井にも協力してもらって調べることは考えたが、そんな無粋な真似はしたくない。
自分は怪盗紳士。できることなら彼女自身の声で名前を教えてもらいたかった。
「…今日もダメ、か」
落胆を隠せぬ声音で呟き、ため息をついて肩を落とす。
明日も学校があるし、近々予告状を出す獲物のための準備もある。帰らなければと思いながらも双眼鏡を目から離せず、ぎりぎりまで未練たらしく見ていると、ふいに何かが動いた。
風に吹いてなびく長い髪、月光に照らされた白い肌、カーディガンを羽織った痩躯が、静かにベランダに現れる。
「来た…!」
思わず歓喜の声を短く上げ、唇が弧を描く。心臓が一度大きく跳ねて早鐘を打ち始め、少しうるさかった。
以前見たときのようにベランダの手すりに凭れる女を見下ろしながら、どくどくと脈を打つ心臓を何とか宥める。
落ち着け、落ち着け、落ち着け。親父の言葉を思い出せ。
マジシャンが客に接するとき、そこは決闘の場。
決して驕らず侮らず相手の心を見透かし、その肢体の先に全神経を集中して持てる技を尽くし、尚且つ笑顔と気品を損なわず───
「いつ
何時たりとも、ポーカーフェイスを忘れるな」
さぁ、笑顔を浮かべろ。今この瞬間、オレは“怪盗キッド”だ。
怪盗の心を知らぬ間に一瞬で奪い取ったあのレディとの邂逅を果たそうじゃないか。
しかし、何と言って声をかけよう。
怪盗キッドについてはメディアで大々的に取り上げられているから知らないということはないだろうが、それでも急に現れれば驚いて警戒されてしまう。
常ならばぽんぽんと飛び出るはずの甘ったるいキザな台詞も、彼女を見ていると何も思い浮かばないのだ、面と向かえば舌がもつれてしまうかもしれない。
(幸か不幸か顔が見れねぇのが、救いか)
だからこうして、自分を落ち着かせることができる。
ゆっくりと深呼吸を繰り返し、ようやく双眼鏡を外して一瞬で白いスーツとシルクハットを身に纏ってキッドとなる。
咳払いをひとつ。モノクルの倍率を上げてもう一度彼女の方を見れば、先程まで地上を見下ろしていたはずの彼女が顔を上げていてぎくりと体が強張った。
気づかれたのか。しかし彼女とは目が合うことはなく、どうやら月を見上げているようだと判った。
前に見たときと変わらない、表情の一切が無い人形のような顔は揺らぎなく、月光を浴びて煌めく深い黒曜が、まるで森の奥深くで静かに息づく夜の湖面のようだと思った。
そして彼は、気づいてしまう。
(…何だろ、あの眼…)
表情と同様、その瞳からも感情は一片たりとも窺えないのに、その煌めきには確かな意志が宿っている。
感情が無いわけではない。けれどその全ては彼女の心深くに沈んでいて、しかし虚ろではありえない。
どこか奇妙なアンバランスささえ宿した眼。その奥に、深みに、何を宿して─── 眠らせて、いるのだろう。
考えてみても分からない。ならば直接聞くしかない。
今宵は満月。月に隠された影の全てがあらわになっているように、彼女の剥き出しの心に触れてみたい。
いつまでも彼女を見続けていたい気持ちを抑え、呼吸と脈動を整える。
袖から出したワイヤーを屋上に引っ掛け、キッドは軽やかに屋上を飛び降り、真っ直ぐに彼女のいるベランダへと体を滑らせた。
キッドが降り立つ前に、どうやら部屋に戻るらしい彼女がキッドに気づかぬまま背を向ける。待って、と内心で叫んだ。
「こんばんは、美しいレディ」
彼女が凭れていた手すりに降り立ち、ワイヤーを瞬時に回収する。
キッドの声とマントがばさりと夜闇を裂いた音を聞いて振り返った女の黒曜に自分が映り、その深みにぞわりと背筋が震えた。
「…あなたは、誰?」
「今宵は満月。空に浮かぶ
真の月に導かれて美しいレディのもとへ迷いこんだ、ただの憐れな白い鳥ですよ」
初めて聞いた彼女の声は抑揚がなく淡々としていて、しかし鼓膜を震わせる音がじんわりと染み入る。
どんな反応をするかを確かめたくて敢えて抽象的な言い回しで答えたが、彼女は無言無表情のまま、ひとつ目を瞬かせただけだった。
それでも、彼女が自分を見ているという事実に気分が高揚していく。湧き上がって止まらない笑みを何とか優しげに見えるものへとすり替え、頭の先から爪先まで滑る視線に凛とした気配を返した。
(…もっと近くで見てぇな)
ベランダは高級マンションのためそこそこ広いが、それでも2人が並ぶと距離が狭まる。
見たい、そして触れたい。無意識の衝動に急かされるままベランダへと足を踏み入れると、途端、彼女は自室を振り返りほんの微かに固くなった声音でキッドを拒絶した。
「それ以上近づかないでください。人を呼びます」
なるべく自然な動作で手を取ろうと伸ばされた手は素早く躱され、更に腕を伸ばしきっても届かない所まで距離を取られる。
空を切った手に軽くショックを受けたところで警戒されているという事実を察し、内心ひどく焦ったキッドは得意のマジックをひとつ披露した。
ポン、と軽い音と共にキッドの手の内に1輪の赤いバラが咲く。
「ご安心を、あなたに危害を加えるつもりはありません。ただほんの少し、夜闇の迷宮の先に佇むレディとお話がしたいだけ」
なるべく優しい声音で告げるが、彼女は「話?」と僅かに眉根を寄せただけでバラを受け取ろうとはせず、それに内心肩を落としながら、決して悟られぬようポーカーフェイスを貼りつけたままバラに口付けを落とした。
会いに来たのは、その美しく輝く黒曜の眼がどうしても頭の中から離れなかったから。しかしそう正直に言っても彼女の表情は揺らぐことはなく、ではもうひとつ踏み込もうかと、キッドは真っ直ぐに彼女の眼を見つめる。
「あなたの黒曜の瞳は、森の奥深くで静かに息づく夜の湖面。その
水面の奥底に─── 何を眠らせているのです?」
「!」
ほんの微かに見えた動揺は、何とか認めることができた。彼女は確かに動揺したのだ。初対面の男に、見抜かれたことを。
夜の湖面にたとえられた目が小さくさざ波を立てる。しかしそれはすぐに凪いで、波紋ひとつ残さない湖面へと還った。
「あなたには…関係ない」
はっきりとした拒絶の言葉に、少しだけ失敗したことを悟る。
いけない、このままでは彼女は部屋へと戻ってしまう。何とかして止めなければ。
まだ、もう少しだけ。オレを見て、と内心で願いながら手に持ったバラに軽く力をこめた。
「私はここへ迷いこんでしまった白い鳥。この声が不愉快でしたら、目を閉じ耳をふさぎ口を閉ざしていただいて構いません」
言いながらバラを両手で隠し、一瞬で一羽の鳩へ変えて軽く指を振り指示を飛ばせば、鳩はばさりと羽を広げて宙に舞うと彼女の左肩へと降り立つ。
しかし彼女は大した反応は見せずに鳩を一瞥しただけで、腕を上げかけたかと思えば肩に乗った鳩がその身を彼女へこすりつけて甘え、その意外性に思わず目を瞬く。
(おいおいお前、とんだじゃじゃ馬娘だったじゃねーか)
飼い主であるキッドでさえ、最初のうちはよくつつかれたり蹴られたりしたというのに。
思わずその鳩がじゃじゃ馬娘であることを明かし、鳩が彼女にじゃれついて頬をつつきだしたところで、鳩を指笛で呼び寄せる。
指に止まった鳩が名残惜しげに彼女を見つめる。いいじゃねーかお前はあの人に触れたんだから、とは言わなかった。
「…私の、眼でしたっけ」
「うん?」
「それを教えたら、あなたはもうここには来ませんね?」
鳩のお陰か、先程より警戒心を緩めはしたが拒絶は残したままの言葉を紡ぐ彼女に、まさかと内心ですぐに首を振る。
確かに彼女がその瞳の奥に何を眠らせているのかは知りたい。が、そうしたら彼女と話せなくなるのなら必要ない。
だからキッドは、冷ややかに煌めく黒曜に向かって、あっさりと首を振った。
「いえ、それでしたら結構です」
は?と彼女が間の抜けた声を上げる。余程意外だったらしい。その反応に気を良くし、非常に残念だが時間もあまりないので初対面はこれで終えることにしよう。
マントを翻して再び手すりに乗る。指に止めていた鳩を空へ飛ばし、シルクハットを深くかぶり直して頭を下げ、ひとつ綺麗な礼をした。
「今夜はこれにて失礼すると致しましょう。ですがまた、光る街の森を抜け、閉ざされた天高き塔を昇り相見えることを」
「……あなたは、誰?」
彼女がぽつりと問うた瞬間、ふいに強い風が吹いた。白いマントが闇夜に大きく翻る。
きっと彼女の視界は白一色だろう。覚えていてほしい、この色を。また会いに来るから。
キッドは飛び立つ寸前、もう一度目を合わせた。
「─── 怪盗キッド。煌めく黒曜石に心奪われた、泥棒ですよ」
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