夏が終わり秋が始まってすぐのため、昼間はまだ汗をかくほどの暑さは残しつつも、夜となればそれなりに冷えるその日、少年は白を纏って“仕事”を終え、満月を背に空中を飛んでいた。
 警察の追っ手を振り切り、10階建てのビルの屋上に足をつけて獲物を月に照らす。月の光に透け、七色に煌めくダイヤモンド。その美しさに誰もが感嘆の息をつくのだろうが、彼は宝石の中に望むものがないと知ると小さく落胆のため息をついた。
 分かっている。そう簡単に命の石は手に入らない。だからこそ、自分の父を殺したあの謎の組織はどんな手を使っても手に入れようとしている。

 宝石を丁寧にポケットに仕舞い、再び夜闇に白い翼を広げようと数多の光で彩られた街を見下ろしてもう一度月を仰いだ彼は、ふと、ある高層マンションのベランダに佇む女がいることに気づいた。

 そしてその瞬間─── 覗いてしまった深淵が、ひとりの少年を手招いた。





□ 深淵を覗く 1 □





 ビル近くに建つ、25階建ての高層マンション。上流家庭御用達のそれは、外観から他のものと格が違う。
 その15階。とある一室のベランダに、ひとりの女が手すりに凭れて街を見下ろしている。
 カーディガンを羽織った体は痩躯だ。長い髪はそのままに風になびき、それを女は軽く手で払う。年上だと判る整った顔からは表情というものが完全に抜け落ちていて、何を考えているのか皆目見当もつかない。
 そして、その眼。深い漆黒の闇そのものをはめこんだような眼は、やはり何の感慨もなく、静かに光る街を見つめるだけだ。


「…誰だ…?」


 どうしてか視線を逸らすことはできないまま、思わずぽつりと呟く。小さな声はすぐに風にさらわれて彼女には届かない。消えた問いに答える者はいない。
 キッドはゆっくりと体を女へと向け直した。女はキッドの視線に気づかず、ただただ静かに、凪いだ目と一切の表情の無い顔を街へと向ける。たまに瞬きをしなければ精巧な人形かと思うほど、彼女からはどこか人間らしさというものが欠けていた。


(青子とは正反対な人だな)


 思わず毎日のように顔を合わせる幼馴染を思い浮かべてしまう。
 幼馴染は彼女と違い、くるくると忙しなくたくさん表情を変える。ひとりでいるときでさえ、その変化は顕著だ。そんな人間を長い間見てきたせいか、あそこまで表情の無い人間は珍しい。だから目が離せないのだろうか。

 街を見下ろしているために俯き、その漆黒の目の色が更に深みを増している。
 距離がそれなりにあってはっきりとは見えず、思わず足を一歩踏み出して近づき、更に一歩と近づく。
 こつりこつりと小さな靴音が鳴る。けれど女は気づかず、決してこちらを振り返ることはない。そのことに、どうしてか微かに苛立ちが湧いた。


(あんたは、どこを見てんだ)


 街を見下ろしているのに、その目はどこも見ていない。何も映していない。
 思わず眉をひそめると風に吹かれてモノクルの飾りが頬に当たり、その存在を思い出してすぐに調整ダイヤルへと指を伸ばす。
 倍率を上げて女を見る。先程よりはっきりとその姿が見えて、同時にその瞳も更に奥深くまで覗けた。
 ─── 覗いて、しまった。


「……!」


 瞬間、ぞくりと背筋が凍るような震えを覚えた。
 静かな漆黒の瞳。黒曜石に似た煌めきは美しく、けれど割れれば瞬時に凶器へと変わる鋭さもあるようで。
 思わず一歩下がりかけ、けれど白い肢体は動くことはなく、息をすることさえ忘れて女の目を見つめる。
 女がまたひとつ瞬く。薄い瞼に一瞬その目が覆われて姿を消し、呼吸を思い出してゆっくりと息を吐いた。


「……あなたは、誰、ですか」


 思わず呆然と女へかけた問いは、果たして“快斗”としてのものか、それとも“キッド”のものだったのか。
 自分でも分からないままひたすら女を見つめているのに、彼女は問いにもこちらの存在にも気づく素振りは全くなく、そのことでいつの間にか消えていた苛立ちが再び湧き上がる。


(オレを───)


 オレを見て、と、半ば無意識に呟いた。
 しかし唇だけで紡いだ言葉は音を伴わず、小さな息となって夜気に溶けて消える。

 直接彼女の前に現れれば、彼女は否応なくこちらを見るだろうか。そう思ってハンググライダーのスイッチに手をかけるが、こちらは10階、向こうは15階。無理だ。
 彼女のもとへ辿り着くすべはなく、ただ見上げていることしかできないという事実が歯痒くて奥歯を軋ませる。ごくりと唾を飲み込めば、幾分か考える余裕ができた。


(何でだ、どうしてオレ、こんな焦ってんだよ。たかだか女ひとりに、どうして)


 自問するが答えは出ず、女を見上げたまま唇を歪めた。


(あの人の眼が悪い…オレを見ないから、だから)


 それに、どうしてだろう。あの黒曜の眼は、決してそれだけではない気がする。
 美しい煌めき。ともすれば剥き出されるかもしれない鋭さ。その奥にある更なる深みが、どうしてもキッドの目を捕えて離さない。
 どこか遠くで警鐘が鳴る。ダメだ、それ以上深入りしてはいけない。覗こうとしてはいけない。やめておけと止める自分の声に、うるせぇと返した。
 もう少しで何かが見える。何かが判る。だから邪魔するなと、漆黒の目の深みを見極めることだけに集中しかけた、そのとき。
 ふらり、女が唐突に背を向けた。


「あっ…」


 思わず声を上げて手を伸ばす。だがやはり女はついぞキッドの存在に気づくことはなく、淀みなく足を動かして室内へと消えた。
 その呆気なさに呆然として、食い入るようにベランダを見つめるが女が再び出て来る様子はなく、大きく落胆のため息をつくと腕を下ろした。


「…誰、だったんだろ…」


 女の無表情とその眼が、まだ脳裏にこびりついている。当分は消えそうにない。
 名残惜しげに暫くじっとベランダを見ていても女が再び出て来る様子はなく、キッドはもうひとつため息をついてモノクルの倍率を戻した。

 不思議な人。今までに出会ったことのないタイプの人間だ。
 顔は整っていたが特別美人というわけではなく、けれどあの眼だけがいやに強烈で、いないと分かっていながらもう一度彼女がいたベランダを見上げる。


(欲しいな)


 内心で呟いたのは、無意識な衝動だった。
 あの黒曜の眼が欲しい。オレを見てほしい。あの眼が意味するところを、その奥を知りたい。
 無理やり黙らせ、鳴りを潜めていた警鐘が再び頭の中に響く。しかしそれを、やはり彼はうるせぇと突っぱねた。


(…どうにも手強そうな気がするが、関係ねぇ)


 オレは誰だ。怪盗キッドだ。月下の奇術師。主に宝石を狙う泥棒。
 狙った獲物は逃さない。どんな手を使ってでも、必ず手に入れる。
 あのふたつの黒曜石が欲しい。だから盗み出そう。オレのものにしよう。

 単純な想いはあまりに純粋で真っ直ぐで、けれど微かな狂気をはらんでいることに彼は気づかない。気づかないまま、少年はうっそりと口の端を吊り上げた。
 やわらかく目を細めてシルクハットを目深にかぶり直し、綺麗な礼をひとつ、名も知らない女へと向ける。


「今夜はこれにて失礼すると致しましょう。ですが今度は、淡い月下のもとで相見え、その美しい黒曜に私を映してくださいね、レディ」


 口にすれば気分が高揚していく。
 次は直接顔を合わせよう。
 オレを見て。オレを知って。そしてオレは、あなたを知る。あなたを手に入れる。

 そうしてまだ何も知らない1人の少年は、ほくそ笑む深淵が手招くまま、笑顔で深みへと足を踏み入れることになる。



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