こぽり、こぽりと耳の奥、心の奥底から小さな気泡が浮かび上がるような音が聴こえる。それはあの日から眠り続けている“人間”で、それが立てる微かな音は確かな警告音だった。

 分かっている。理解している。
 けれどあの白は夜闇を羽ばたく鳥で、勝手に来るのだから仕方ない。日課は何かすることもないし暇と言えば暇で、だからその間少し話をすることくらい、いいじゃないか。

 暖かなぬくもりはもう残っていないけれど、優しさは消えずに残っている。
 だから、名前を答えられない自分をラプンツェルと童話になぞらえて呼ぶ鳥の声をもう一度聞くことくらい構わないだろうと、警告音から顔を背けた。





□ 白との邂逅 3 □





 ベッドの上で丸まり熟睡している猫の背を撫でていたひじりは、ふいにカーテンの隙間から夜空を見上げた。
 今日はジンはいない。一度ここへは来たがひじりを抱くこともなく、無言で抱き枕にして僅かな仮眠を取ると出掛けて行った。

 そろそろ冬になるし、ウォッカも引き入れて無理やり鍋でもするか。
 あたたまるし栄養も取れるし腹も膨れて用意も楽。酒も置けば最近の機嫌の悪さも少しはほぐれるかもしれない。材料も酒もウォッカが準備することは当然だが、その分外れることがないことは5年も過ごせば分かっている。
 図太いわね、とひじりを評したのは誰だったか。そんなこと1年目から自覚していたことだ。


「にぃ」


 ふいに小さく猫が鳴き、見れば今まで閉ざしていた目を開けてヘーゼル色を覗かせると窓の外へ顔を向けていた。
 何かを聞き取るようにエアコン以外の音が殆どしない静寂の中で耳をぴくぴくと動かし、やがて興味がそれたのかゆっくりと目を閉じると再び顔をベッドにうずめた。


(そういえば…)


 ひじりは眠る猫の頭を撫で、もう一度カーテンに覆われた窓を見ると、おもむろに立ち上がった。カーテンを人ひとり分開けて空を見る。夜の帳に覆われた空は暗く、そこにひと筋の細い月が浮かんでいた。
 明日には闇に溶けてしまうだろう月を見上げ、前にキッドと会ったときのことを思い出して、カーディガンを羽織り窓を開けるとベランダに出た。ひゅうと鋭くなりつつある冷たい風が頬を刺す。


「…キッド…」


 ぽつり、呟く。眼下の街は日々明るさを増し、冬の訪れと年の終わりをほのめかしている。
 あの街を抜けこのマンションを昇り、ひじりをラプンツェルと呼ぶ白い鳥は、果たして本当に来るのだろうか。
 キッドは月が闇夜に溶けきる前にと言った。今の今まで忘れていたが、前回を最後に訪れなかったから、本当に来るとしたら今日だろう。
 細い月を見上げる。初めて会ったときは、確か満月だった。


「呼びましたか、美しいラプンツェル?」

「!」


 妙に耳に馴染む声が優しく耳朶を打ったと同時、ひじりは声がした方を振り返る。先程まで誰もいなかったはずの手すりの上に、マントをはためかせる白が腰かけていた。
 音もなく気配すら感じられなかったことに驚く。否、それとも自分が気づけずにいたのか。


「…いつの間に…」


 足を組んで涼やかな笑みを浮かべているキッドは、ひじりの無表情に驚きが差しているのを読み取るとくすりと笑みを深めた。
 笑みを受けてそろそろと息を吐く。ベランダに足をつけたキッドと向き合いながら風に遊ばれる長い髪を押さえた。


「本当に来たんですね」

「もちろん。本当はもっと早くに、ラプンツェルに会いに来たかったのですけれど」


 私もなかなか忙しくて、と僅かに肩を竦めたキッドは、やはりひじりから一定の距離を取って詰めてこない。
 それは、初めて会ったときに警戒してひじりから取った距離と同じだ。たとえ詰めてもすぐに離れる。無理強いはしない。
 キザな台詞には優しい響きがあり、その声はなぜだか染みこむように耳に馴染む。物腰はやわらかで紳士的。深めにかぶったシルクハットとモノクルではっきりしない顔はしかし整っているようで、これはさぞ女性にモテそうだなと斜めなことを思った。


「ですがもう夜は冷える。ラプンツェルのぬくもりが風にさらわれぬうちに去ることにしましょう」

「冬も近いですからね…ああ、あなたのマントを貸してくれたら暫くここにいれますけど」

「…私にお付き合いしてくださると?」

「私に会いに来たんでしょう、あなたは」


 違う?と首を傾げる。
 ひじりが風邪をひかないように気遣ってくれたらしくキッドはすぐに帰ると言うが、会いに来ると分かって敢えてベランダに出たのだから、その事実を素直に読み取って甘えればいいのに。
 いなくなってほしいわけではないが、会いに来たとはっきり口にしておいてはいさようならとさっさと背を向けられるのも面白くない。
 いたいならいればいい。ひじりはジンの“人形”ではあるが、ジン以外の他人と言葉を交わすのが嫌というわけでないのだ。


「…ありがとうございます」


 しかし、触れていいわけではない。
 ふわりと優しく笑われて手を取られそうになり、ひじりはさっと両手を引っ込めた。
 キッドが苦笑し、マントを外してひじりに渡す。やはり手に触れないよう受け取ったそれを、ひじりは体に巻いた。
 やはり暖かい。一体どんな仕掛けがあるのだろうとまじまじと見下ろすが、判らなかった。


「外はもう、紅葉も散る頃ですよ」

「そうですか。今年は見る機会がありませんでしたけど、きっときれいだったんでしょうね」


 5年間、紅葉を一度も見なかったわけではない。直接触れたことはないものの、外に連れ出されたときに車内から見たことが何度かある。それに焦がれたことはないけれど、毎年色づいては散り、そしてまた葉を茂らす紅葉がきれいだと思った。今年は見る機会もなく過ぎてしまうことが少し残念だが、仕方がない。


「見たいですか?紅葉」

「え?…まぁ、そうですね」


 見たい、かも。小さな呟きが吐息に混じって消える。
 どうしても見たいと言うわけではない。けれどもし見れるのなら見てみたい。どんな些細なことでもいいから、この長く停滞した時の中で季節を感じてみたいのだ。

 ひじりが曖昧に頷けば、キッドはにこりと笑った。その笑みに、何をする気だと身構える。まさか紅葉の樹をここへ現すのは無理だろうし、かと言って連れ出されるのは全力で拒否する。ひじりはこの檻を出るつもりはない。
 しかしそんなひじりを意に介さず、目を閉ざしたキッドはゆっくりと指を振った。


「スリー、ツー…─── ワン!」


 ポンッ!


「!」


 キッドの合図と共に、軽快な音と煙がひじりが纏うマントの下から弾けた。マントが大きく翻って視界を白く染め上げると冷たくはない暖かな風が髪を煽り、思わず一瞬目を閉ざす。だがすぐに目を開けると、今度は白ではなく鮮やかな赤が視界を覆った。


「…え…」


 ひらり、ひらり


 夜風に吹かれながらゆっくりと散るのは見紛うことなく色づいた紅葉で、下げることを忘れた手の平に赤が滑り落ちた。
 夜の闇と、細い月と、鮮やかな赤。よくよく見れば橙色も混じる葉がひらひらと時折ゆるく回りながら散りゆく様子に、言葉を忘れた。


「…ラプンツェル、あなたにどうしても見せたかった」


 静かな優しい声音に導かれるようにキッドを振り返る。鮮やかな赤と黄が織りなす御簾の向こうで微笑むキッドに、一瞬息が止まった。


 どくり


 一度だけ心臓が大きく跳ねる。あのとき、瞳の奥を見抜かれたときとは違う、どこか切ない痛みすら覚えた。それに呼応するように、心の奥底で眠り続けているものの瞼が震える。

 ああ、だめだ。これは─── だめだ。

 何に対する恐怖か、いやそもそもこれは恐怖なのか、それすら分からず黒曜の瞳を震わせて後退る。
 紅葉が散る。赤が黄が、御簾のように白とひじりを分け隔てる。だが御簾はすぐに散り落ちた。
 微笑むキッドの白が眩しい。無意識に握り締めた指が紅葉をくしゃりと潰した。

 ふ、とキッドが腕を伸ばしてくる。手袋に包まれた白い指が迫って、思わず身を竦めるとかさりと小さな音を残して白が離れた。


「最後まであなたから離れたくないと…嫉妬してしまいますね、こんな小さな紅葉に」


 ひじりの髪に引っかかっていた紅葉を触れることなく掬い取り、風に吹かれて消えてしまいそうな言葉をこぼして、キッドは恭しく紅葉に口付けを落とす。
 キッドはそれをひじりの唇へ触れさせると指を離した。紅葉は夜風に吹かれて舞い、光る街の森へと消えていく。
 それを見送り、パチンとひとつキッドが指を鳴らせばもう一度ポンッと音を立てて煙が上がり、たくさんの紅葉が一瞬で消え、ひじりが纏っていたマントはキッドの手の内へと戻っていた。ひゅぉうと冷たい風が肌を刺してぬくもりを奪っていき、小さく体が震える。


「ラプンツェル」


 ひじりを童話の娘の名で呼んで、キッドは微笑みと共に手を伸ばす。
 その意味が分からなかった。いいや、分かりたくなかった。
 目の前のキッドは白い鳥。そして、泥棒である。


「だめ」


 無意識に、ひじりは弱々しくそう言うともう一歩後退った。目を瞠るキッドを睨みつけるように見て、首を振る。


「言ってはいけない。そしてあなたはもう、ここに来てはいけない」

「ラプンツェル、何を」

「それは私の名前じゃない。私は閉ざされたんじゃない、自分からここに入った」


 風が吹き、ひじりの長い髪を煽る。“人形”の証。そう、私は─── “人形”。
 ジンの“人形”。望まれて檻に鎖で繋がれた。


「あなたと共に行くことは、できない」


 はっきりとした声音で言い切り、ひじりはキッドに背を向けると振り切るように部屋へ入った。
 窓を閉め、鍵をかけ、カーテンを閉め、座りこんで俯き白を視界から追い出す。


「─── 次の、満月の晩に」


 窓越しのせいで少しくぐもった声が耳朶を打つ。
 ああ、耳を塞がなければならないのに、この両手はカーテンを閉ざしていて叶わない。


「もう一度だけ、あなたのもとに参ります」


 優しい声が、いやに耳に馴染む。
 頭の中に浮かんだ白が赤く染まったさまを想像して振り払った。
 振り返ってはいけない。見てはいけない。目を合わせてはならない。その伸ばされた手を、取ることは許されない。
 耳を塞げない代わりに聞かなかったふりをして、消すことを忘れ去られていた手の中の紅葉をぐしゃりと握り潰した。



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