煌々と明かりに照らされた部屋に、苦しそうな嬌声が響いている。
 ぎしぎしと鈍く軋むベッドの上でやや乱暴に揺さぶられながら、ひじりは震える手を伸ばして蛍光灯の光に煌めく銀髪をぐいと引っ張った。


「ジ、ン…まっ、て、んぁ、あ!」


 うるさいと言わんばかりに一層強く揺さぶられる。
 銀糸を掴んでいたひじりの手首をベッドに縫いつけ、男は荒い息をつく唇を塞いだ。





□ 白との邂逅 2 □





 シャワーを終えて部屋に戻ったひじりは、髪を乾かす気力もなく肩からタオルをかけたままベランダに出た。
 眼下遠くに見える光を浮かび上がらせる闇は、深い。冷たさを増していく風がこもる熱を払って、情事後のひどい気怠さが少しだけ晴れた。思わず深いため息をついて見上げた月は半月よりもふっくらとしている。


(…何か今日、機嫌悪かったな…)


 ベランダの壁に凭れ、ずるずると座りこみながら今もうここにいない男の冷えた深緑の目を思い出す。
 たとえ表に出る感情が薄くても、5年も傍で見てきたのだ、それくらい読み取れる。
 思いやりも優しさもない、まさしく奪うように事を進めるのが彼の常だが、ここまでされたのは久々だと手首についた痛々しい指の痕をさする。
 首にあるのは鬱血痕など可愛いものではなく、血の滲む歯型だ。傷は残らないだろうが、あとで絆創膏を貼らなければ。
 長ズボンに覆われた足を投げ出してぼうと夜空を見上げていれば、ふと視界に白が走った。それは呼吸を繰り返すたびに大きくなり、やがて人の形を成すと優雅にひじりの隣へと降り立つ。


「こんばんは、美しいレディ」


 白はシルクハットに手を添え形の良い礼をした。確か前も同じ言葉を言っていたな、と纏まらない思考で思い出す。
 名前は確か─── そう、怪盗キッドと名乗っただろうか。


「10日ぶりですが、ご機嫌麗しゅう…というわけではないようですね」


 無表情にキッドを見上げていればひじりの様子を見てキッドが苦笑する。だがひじりはそんなことよりも彼が言った日数にため息のような声をこぼした。


「ああ…10日も経っていたんですか」

「お忙しく、忘れていましたか?」

「逆ですよ…ゆったりとしすぎて、日付の感覚がなくなってる…」


 取れない倦怠感から細いため息を吐き出し、気づけばそう言っていたひじりは、まぁいいかとすぐに思い直した。
 キッドを見上げればカーテンの開かれた部屋を見ていて、生活感はあってもカレンダーや時計の類がひとつもないことに気づいただろうか。
 思いながら見ているとひじりの視線に気づいたらしいキッドが少し苦みのある笑みを浮かべ、ひじりへと顔を戻した。
 半ば倒れこんでいた体を起こし、けれど立ち上がる気力はないので姿勢を整えたひじりは、吹きこんでくる風に遊ばれる髪を雑に払ってぽつりと口を開く。


「怪盗キッド…8年前に姿を消して以来一度も現れることはなかったから、死んだか辞めたものかと思ってましたけど…」

「あなたのような美しい人に覚えてもらえていて、光栄ですね」

「名前を聞いてから暫くして思い出したんですけどね」


 キッドを見上げるのが首の負担になってきたので顔を正面に向ける。
 以前キッドが現れた、彼の言葉が正しければ10日前、名前を聞いて彼の姿と照らし合わせれば、頭の中の古い記憶から情報が出てきた。

 闇夜を裂く白い姿。警察を翻弄する奇術。
 18年前、突如として現れた大怪盗は、しかし8年前に同じように忽然と姿を消した。
 死んだのか辞めたのか。結局怪盗キッドの正体は明らかにならないまま、時間と共に人々の記憶から薄れていった。

 ぼんやりと記憶を辿っていたひじり同様、距離をあけてベランダの床に腰を据えたキッドをちらりと見やる。
 18年前に現れ8年前に消えたキッドと自分の目に映るこのキッドは、果たして同一のものなのだろうか。
 察せられる年齢は20代よりもっと若い。だがその顔が素顔とは限らない。本人か、模倣犯か、ただ怪盗キッドを名乗っているのか、それとも。
 ちらりと覗いた知的好奇心を、しかしひじりは意志をもって抑えこんだ。


(それを知って…何になる)


 知ったところで、ひじりには何の関係もない。同じく影響もない。
 これからも今も、ただこの檻の中で停滞した時を過ごしていく。それに怪盗キッドは必要ない。
 横にいるのはただの白い不審者。現れるのはこれで二度目。それだけでいい。

 今回は部屋に戻るのは簡単そうだが、疲れ切った体は鈍く積極的に動こうとしない。
 話をしたいと前回言い、また相見えることをと言い残したキッドは、言葉通りまた現れた。キッドに付き合う気はないが今動き出すことの方が億劫で、それを狙って来たのだとしたらとんだ曲者だ。


「…で、あなたは何の用でここに?迷いこんだ、という言い訳はもう聞きませんよ」

「あなたに会いに」


 にっこり。暗がりでも判る笑顔と共に耳に心地好く響く優しい声音で即答したキッドの言葉を理解するのに、少しだけ時間がかかった。


「…死にたいんですか?」

「そのたおやかな指にかかって死ねるのならば、本望ですよ」


 無表情に紡がれた呆れ混じりの淡々とした物騒な脅しに、しかしキッドは涼やかな笑みをくずさない。
 分かってないなともうひとつため息をついた。

 ひじりはジンの“人形”である。つまりひじりのもとへ来るということは、ジンに近づくということ。そうなればキッドは排除対象とみなされるだろう。イコール死だ。
 だがそれを言えばどういうことかと突っ込まれて面倒なことになりそうなので、ひじりはそれ以上口を開かないことにした。

 いきなり目の前に現れ、キザな台詞を吐くキッドはとんだ常識外れの男だが、思い出せばこの5年で出会った数少ない人間達は殆ど常識とは縁遠い者ばかり。
 今更であるし5年間でだいぶ“常識”というものの定義が曖昧になってきているひじりは、疲れているのもあってそれ以上キッドに突っ込むのをやめることに決めた。
 たとえキッドがジンの目に留まり殺されるようなことになろうが─── “人形”には関係のないことだ。


「っくしゅ」


 ひじりはふいにくしゃみをし、ふるりと体を震わせた。風呂上りで火照っていた体はすっかり湯冷めしていて、まだ水分を残す髪もはりついて冷たい。
 思わず薄着の長袖に包まれた腕をさする。部屋に入ろうかと窓に目を向けると同時に、ふわりとあたたかい何かに体を包まれた。


「どうぞ」

「……」

「本当はあなたを部屋に戻らせた方がいいのは分かっていますが、私はまだあなたと話がしたい」


 言いながら、目の前にいたキッドが元いた位置へ戻って腰を据える。
 ひじりは目を瞬かせて自分の体を包む白いマントを見下ろした。どういった仕掛けがあるのか、夜風に吹かれていたはずのそれはほのかに暖かい。
 じんわりと体をあたためていく布と長く与えられてこなかった1人の人間に対する優しさに、何だか収まりの悪さのようなものを感じた。


「……あり…がとう、ござい、ます」


 礼を言ったのすら、どれぐらいぶりだっただろう。分からなかった。
 戸惑うようなぎこちない礼にキッドはやはり静かな笑みを返して、ではひとつだけ、と指を立てる。


「美しいレディ、どうかあなたの名前を、この愚かな泥棒にお教え願えませんか」

「……」


 それに答えることは、ひじりはできなかった。
 自分の名前は工藤ひじり。それを覚えていても、今のひじりはジンの“人形”であり、名無しであることが“人形”の証であるから、口にすることは、できない。
 無意識にマントを握り締めて黙りこむひじりに何を思ったか、キッドは軽やかに立ち上がると、そのいやに耳に馴染む声を発する口を開いた。


「では、あなたのことは“ラプンツェル”と」

「……?」

「光る街の森の中、閉ざされた天高き塔に閉じこめられた美しい娘。まるであなたのようだ、“ラプンツェル”」

「……私は、あなたを招き入れたりしませんが」

「確かに以前ここへ迷いこんだ私ですが、私は王子ではなく泥棒。あるいはただの白い鳥。人間の王子と違い、直接あなたへ会いに来る羽をもっている」


 光る街の森。容易に出ることはできないマンションは天高き塔。許しもなく入って来たのは白い鳥。ならばここへ入ってやるだけやっていく男が王子とでも言うのか。
 銀髪を脳裏に描いて内心で失笑してしまう。ばかな、言うならジンは王子ではなく魔女だろう。
 ひじりは長い髪を垂らさない。だから王子も来ない。そう、優しく囀る白い鳥以外は。
 果たして白い鳥は分かっていて童話になぞらえたのか、それともただのキザな言い回しだったのか。考えようとしてすぐにやめ、キッドが鳥ならばここへ来てしまうのも仕方がないと納得する。


(マントは暖かいし、疲れて思考は散漫気味だし、何かもうそれでいいや…)


 ひとつ息をつき、眠気も出てきたことを自覚したひじりは痛む腰を上げた。
 体を包んでいたマントをキッドへ返す。ひじりの手に触れることなく受け取ったキッドは一瞬でマントを装着し、一礼すると体重を感じさせない身のこなしで手すりへ足をつけた。


「それではラプンツェル、月が闇夜に溶けきる前にもう一度お会いしましょう」


 またここに訪れることを示唆する言葉を残し、キッドは躊躇いなく手すりから飛び降りた。慌てることなく眼下を見れば、キッドのマントが広がって風に乗り遠くへ去って行く。
 成程ハンググライダーか。一瞬で見抜いて白が見えなくなる前に踵を返したひじりは、窓を開けて部屋に入った。



 top