ジンの“人形”となって、もう何年が過ぎただろう。
 あの日から数度季節が回ったことを考えると、おそらく5年。

 5年の歳月は少女を女へと変え、身長と髪を伸ばし、あらゆる知識や技術を詰め込んだ。
 ジンの傍にいながら、緩やかで停滞した時間を日々繰り返す。心の奥底で眠りについた“人間”は目覚めない。今までもこれからも。

 それが彼女の日常で、そんな彼女の日常を─── 白が、切り裂いた。





□ 白との邂逅 1 □





 腰よりも長く伸びた髪を鬱陶しげに後ろへ払い、ひじりはベランダで眼下を無表情に見下ろしていた。
 夏が終わり秋も半ばを過ぎて肌寒い。夜となれば尚更冷えた風が、カーディガンを羽織った彼女の髪をなびかせる。
 高層マンションの15階、見知らぬ街の夜景色を広いベランダからぼんやり眺める。ジンがおらず、何もすることがない日の日課だった。

 ベランダに鍵はかかっていない。だがここは地上15階で、飛び降りれるはずもない。玄関の扉には外から鍵がかけられているが、今までに詰め込まれた知識を使えば、内側から開けることは可能だった。
 だが、それでも彼女は一切逃げ出すことなく、今までの5年がそうであったように、今日もまた逃げようと思えば逃げ出せる状況の中で檻に留まり続ける。

 ─── そう、ここは檻だ。

 5年前のあの日、自ら首輪をはめ、鎖に繋がれ、そして檻に留まることを決めた。
 私はジンのものだ。身と心に刻み込んだその事実が彼女を従順にさせる。
 だが忠実というわけではない。ひじりはジンの“人形”ではあるが、意志はあるし拒否権だって主張する。要求だってする。だが拒絶や抵抗はしない。
 殺したければ殺せばいい。好きにすればいい。この命はジンのものなのだからジンや死への恐怖などあるはずがなく、そうして今まで図太く生きてきた。
 そしてこれからも、この檻の中で図太く生きていく。そんな揺るぎない未来を今日も当然のように受け入れ、そろそろ部屋へ戻ろうかと思った、そのとき。


 ばさり


「こんばんは、美しいレディ」


 唐突に闇の中に白が翻り、優しげな男の声が耳朶を打った。
 はっとして振り返る。ひじりが今まで凭れていた手すりに、いつの間にか白が降り立っていた。


「…あなたは、誰?」

「今宵は満月。空に浮かぶまことの月に導かれて美しいレディのもとへ迷いこんだ、ただの憐れな白い鳥ですよ」


 大仰に手を広げ、恥ずかしげもなくキザなことを言ってのけた男は、ひじりと目を合わせて微笑んだ。その笑みは、声音に滲むものと同じく優しい。
 ひじりは突然現れた不審者にも関わらず、月の光に照らされて眩しい白とすんなり耳に入って来た言葉に、思わず呆気に取られて目を瞬いた。

 白いシルクハットに白いスーツ、吹く風にあおられて揺れる白いマント。逆光であることとモノクルが邪魔をして顔ははっきりと見えない。手すりの上に危なげなく立つ姿勢から、細身だが鍛えられているのが判った。声から判断して20代─── 否、もっと若い。

 煽られる長い髪を押さえながら冷静に分析していると、ふと白い男が動いた。咄嗟に部屋とベランダを区切る窓を振り返る。すぐに部屋に戻ってカーテンを閉め、白い男を見なかったふりをしよう。
 この男が何のために自分のもとへ現れたのか、そんなことはどうでもいい。男の言葉を真に受けるはずもない。


「それ以上近づかないでください。人を呼びます」


 手すりからベランダの内側へと降り立ち、流れるようにひじりの手を取ろうとした男から身をよじって離れ距離を取る。
 詰め込まれた知識や技術の中には格闘術もあるが、丸腰の今、男の隙をついても制圧するのは難しい。せめてもの牽制として人を呼ぶと言ったものの、“人形”が携帯電話など持っているはずもなく、部屋に電話の類もあるはずがない。


(部屋に逃げ込めれば…)


 窓への距離を瞬時に目算で測る。だがそれは、突如目の前に軽快な音と共に現れた赤いバラに意識を強制的に引っ張られて遮られた。
 トゲが抜かれた満開のバラが一輪、白い手袋に覆われた指に挟まれている。ふわりと風が吹いてバラが揺れ、ほのかにかぐわしい匂いが鼻孔を擽った。


「ご安心を、あなたに危害を加えるつもりはありません。ただほんの少し、夜闇の迷宮の先に佇むレディとお話がしたいだけ」

「……話…?」


 僅かに眉をひそめ、目の前に立つ男を見上げれば、男はええと短く優雅に頷く。
 柔和で品を漂わせながら、それでも凛とした冷涼な気配を隠そうとしない男を見据えていると、ふと、脳裏に何かが掠めた。
 だがそれが何なのかはっきりしない。また再び部屋へ戻れるかと思案するが、おそらくすぐに退路を塞がれると察したひじりが決してバラを手にしないと悟ったらしい男は、しかし薄く浮かべた笑みを動かすことなく己の口元へ当てる。


「あなたの美しく輝く黒曜の眼が、どうしても私の頭の中から離れなくて」

「……」

「あなたの黒曜の瞳は、森の奥深くで静かに息づく夜の湖面。その水面みなもの奥底に─── 何を眠らせているのです?」

「!」


 その問いはやわらかく、ちらりと覗いた瞳も純粋な疑問に満ちていただけだというのに、ひじりの心臓は確かにびくりと震えた。
 まさか、見抜かれたのか。初対面であるはずのこの白い男に。“人形”の最奥で眠り続ける、“人間”に。
 男の言葉にひと蹴りされた心臓は、しかしすぐに鼓動を静めていく。僅かにさざ波を立てた瞳も、同じく波紋ひとつ残さない湖面へと還る。


「あなたには…関係ない」


 危険だ。頭の中ではなくどこか遠く─── 眠りについているはずの“人間”が、こぽりと気泡を吐き出して警鐘を鳴らす。
 この男は危険だ。5年もの間眠らせ続けてきたものを目覚めさせかねない。
 殆ど無意識に半歩足を引いたと同時、白い男はふっと優しい笑みを描いた。


「私はここへ迷いこんでしまった白い鳥。この声が不愉快でしたら、目を閉じ耳をふさぎ口を閉ざしていただいて構いません」


 言いながらバラを両手で隠し、一瞬で一羽の鳩へ変えた男が軽く指を振れば、鳩はばさりと羽を広げて宙に舞うとひじりの左肩へと降り立った。
 鳩が男のものであろうと、さすがに手を上げることはできない。せめて部屋の中の猫が気づいて威嚇してくれれば逃げ出すだろうが、猫はベッドの中央で丸まり眠っていて、窓ガラスを叩いても起きないだろうことは分かっている。
 男の言う通り、目を閉じ耳を塞いでやろうか。ひじりが腕を上げかけると同時、ふわりとやわらかな感触が頬にこすりつけられた。
 反射的に頬に触れたものを見ればそれは肩にのった鳩で、くるる、と小さく鳴くとぐいぐい体を頬に押しつけてくる。一体何だと言うのか。食べものの類は何も持っていないぞ。


「…へぇ」


 鳩に気を取られて完全に白い男を意識の外に弾き出していたひじりは、感心したような声にちらりと目を向ける。
 男は今も甘えるようにひじりの頬へ体を押しつける鳩が意外だったのか、目を瞬くとくすりと綺麗な笑みをこぼした。


「その子はとんだじゃじゃ馬娘だったのですがね、どうやらあなたを気に入ったようだ」

「はあ。あ、痛い痛い」

「…ですが、あなたの絹のように綺麗な肌を傷つけるのは私の本意ではありません」


 男は言うが早いか、ピッと鋭く高い音を指笛で発して鳩を呼び戻すと指にとめた。
 くる、と小さく鳴いた鳩に赤い目で名残惜しげに見つめられて、思わず手を振ってしまったひじりである。

 鳩と戯れて、何だか目の前の男のことがどうでもよくなってきた。不審者には違いないが、優しいキザな台詞をかけてきたくらいでいきなり銃を突きつけてくるわけでなく、先程心の奥底に眠るものを見抜かれたことは警戒すべきだが、殺気どころか敵意も害意も全く感じられないので、どうにも警戒しづらい。


「…私の、眼でしたっけ」

「うん?」

「それを教えたら、あなたはもうここには来ませんね?」


 黙っていても部屋に戻ることは簡単でないしさすがに体が冷えてきたしで、もう二度と来ないのならば教えてあげてもいいだろうと半ば諦めのような感情が湧く。それにどうせ、教えたところで意味が分かるとも思えない。

 何で見抜かれたのか、冷静に考えれば何となく想像はつく。
 ジンもいない日課の時間、ひじりは部屋からベランダという檻なのか外なのか曖昧な場所で無為の時間を過ごす。その間、この瞳は心を剥き出しにしていたのだろう。“人形”である自分も黒曜の湖に沈み切り、奥底に眠る“人間”を垣間見せて。
 虚ろではなく確かな意志を秘めた、深淵にも似た瞳。それを、この男は見てしまったのだろう。

 好奇心は猫を殺す───。
 無表情にいっそ冷ややかな瞳で、ひじりは問うた。
 だが。


「いえ、それでしたら結構です」

「は?」


 悩む素振りも見せずあっさりと自分が発した問いを取り下げた男に、ひじりは思わず間の抜けた声を上げた。
 だが男は気にすることなくマントを翻して再び手すりに乗る。鳩を飛ばしてシルクハットを深くかぶった頭を下げ、ひとつ綺麗な礼をした。


「今夜はこれにて失礼すると致しましょう。ですがまた、光る街の森を抜け、閉ざされた天高き塔を昇り相見えることを」

「……あなたは、誰?」


 問うた瞬間、ふいに強い風が吹いた。目に痛いほどの白いマントが闇に大きく翻る。
 黒曜の瞳が白に奪われ、煽られた長い髪を手で押さえた彼女は、白が飛び立つ寸前にもう一度目を合わせた。


「─── 怪盗キッド。煌めく黒曜石に心奪われた、泥棒ですよ」



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