「あ…兄貴!? その女は…」

「黙れ、出せ」


 家の外、暗い路地に止まっていた黒い車の後部座席に押し込められ、その隣に男がどかりと座りこむ。見慣れぬ少女の登場に部下らしき男は驚くが、男はそれを遮り冷徹に指示を飛ばし、戸惑いながらも部下はそれに従った。
 銀髪の男は俯き黙る少女を見向きもせず携帯電話を取り出すと何やら打ち出した。それを終えれば、ふいに懐に手を入れた。その様子を衣擦れの音だけで把握していた少女は、唐突に腕を引かれて驚きに目を見開く。
 目の前に深緑の瞳が映る。ああきれいだと、そう思うと同時に唇に感触。顎を掴まれて強制的に口を開かされる。


「ん、ぐ…」


 上を向かされ、何か固形物を押し込まれる。反射的に飲みこめばすぐに解放され、押されて車のドアに背をつけた。ずるりと背が滑る。自分を見下ろしてくる男を見上げていると、ぼんやりと意識が霞んでいくことを自覚した。
 ああ、眠るのか。迫り来る睡魔に抗いもせず、少女はあっさりと意識を手放した。





□ 銀の檻 中 □





 意識が浮上し、それに従って目を開いた。明かりの点いた、見慣れぬ天井。僅かに頭を動かせば視界に白いシーツ。薬のせいで強制的に眠らされた体は倦怠感を纏っていて、現状を把握するのに少し時間がかかった。


(…ああ…)


 ぼんやりと眠らされる前のことを思い出す。
 継母が殺され、父が撃たれ、弟が泣いて。銀髪の男と取引をして、この身を差し出した。そして車に乗って、眠らされて─── ここは、どこだ。


「…う…、……?」


 ずきりと鈍く痛んだ頭に手を当てようとして、小さな金属音と両の手が引っ張られる感覚に訝った。
 見れば、両手を繋ぐ銀色の輪。無骨な手錠が少女の細い手を拘束し、何とか上体を起こして足元を見やれば足にも同じものがあった。
 じゃらりと金属のこすれる音が耳を刺す。─── これが、これからの現実なのだ。これが選択の結果である。


(…ここは…どこ…?)


 さすがに両手両足繋がれたままでは歩こうとは思えない。まともに歩けないだろうし、転んだら立ち上がるのも一苦労だろう。それに何より、体がだるくてしょうがない。
 小さくため息をついて、自分の周りを見回した。キングサイズのベッドしかない、それでも十分に広いフローリングの部屋。天井から床まである長い窓が明るい空を少女に見せていて、眠る前の出来事は昨日かそれ以前のことかと判断した。


(あの…男は…?)


 自分と取引をした、あの銀髪の男はどこに行ったのだろう。とりあえず、今生きていることから、すぐには殺されることはないだろう。気が変われば別だろうが。
 ふぅともうひとつため息をこぼせば、ガチャ、と鈍い音が小さく少女の耳に入った。はっとして顔を上げる。微かな足音が暫くして、この部屋の唯一のドアノブが、静かに下がった。


「……」

「……」


 現れたのは、やはり銀髪の男だった。
 2人は暫し無言で睨み合うように微動だにせずお互いを見、先に動いたのは当然男の方だった。無言で歩み寄り、ベッドに座り込む少女の横に立つ。少女は男を見上げ、視界に肌色が走った─── そう、思った瞬間だった。
 喉に衝撃。大きく冷えた手が食い込み、勢いをもってベッドに押し倒した。


「か…はっ」


 ぎり、と長い指が食いこむ。苦しそうに喘ぐも、その力は緩まなかった。
 殺される。脳裏にその言葉がちらついたが、少女は決して抵抗しようとはしなかった。抵抗のため反射的に動きそうになる手を握り締めることで戒め、自分を無表情に見下ろしてくる男をただ静かに見上げる。


「…抵抗はしない、か」


 男の低い声が、再び意識を飛ばしそうになった少女の耳に滑り込んだ。同時にきつく締め上げていた指が離れ、解放される。


「…っげほ!かほっ、はっ…!」


 体を折り曲げ、苦しさに喘いで必死に酸素を取り入れる。酸素が足りずに頭がぐるぐるとして瞼の裏で光が明滅していた。
 はーっ、はーっと長く苦しげに息をし、ベッドに両腕をついて少女は震える上体を起こした。そうして、無言で見下ろしてくる男を見上げ、うっそりと笑って見せる。


「私は…工藤 ひじりは、お前のものだ。私をお前が殺そうとどうしようと、好きにすればいい」


 命と、これからの時間。だから、殺されることに対して抵抗も拒絶もしない。
 好きにすればいい。殺すも嬲るも虐げるも、気の向くままに。
 けれど意志だけは捨てず、従いもせず、ただ“人形”として在ろうとする少女に、男は口角を上げた。それは嘲笑で─── どこか、面白いとでも言いたげな笑みだった。


「……ねぇ、お前の、名前は?」


 落ち着いてきた息を整え、少女は問う。男は笑みを消し、再び手を伸ばして少女の襟首を引っ掴む。ああ皺になるなと、そんなことを思って、耳元で紡がれる二音。


「ジン」


 囁かれた低い声の余韻が消えぬ内に、言葉を発すべく開かれた唇がふさがれる。香る煙草の匂いと広がる苦味に、キスが甘いだなんて言ったのはどこのどいつだと問い詰めたくなる。
 ああそういえば、あの薬の口移しが初めてのキスだったと、ぼんやりと少女は思った。





 ひじりが目を開ければ二度目の見慣れぬ天井。顔を右に向けて窓を見れば、青空は夜空へと変わっていて、疲れきった顔をした自分がそこにいた。
 ゆっくりと天井に顔を戻し、腕を掲げると、手首についた赤く細い痣。そこに銀色の輪はない。
 一度目の目覚めとは違う体の倦怠感に辟易しつつ上体を起こして足元を見ると、そこにも手錠の足枷はなかった。もっとも、手にはめられていたものはひじりが寝ている間に外されたのだろうが、足のは行為の最中に邪魔だと取られたのだが。


「…、…」


 小さく小さく、ひじりは息をつく。
 分かっていた。覚悟していた。こういうこともあるのだと、解っていた。
 身に纏うものは何もなく、床に乱雑に散らばっていて。整えられていたシーツは乱れ、赤が滲んでいる。それを無感動に無言で見下ろし、しわのついたシーツで体を隠し、立てた膝にひじりは額を当てた。


「……、…っ…」


 解っていた。覚悟していた。知識ではあった。抵抗はしなかった。受け入れた。痛みも与えられた快楽も。こちらの負担を考えない行為をただ一方的に、気絶するまで。
 はた、と頬を伝ったものがシーツに落ちる。小さなしみをつくったそれが、はたはたと止め処なく落ちていくつものしみをつくった。


「……ぅっ…」


 解っていたのだ。覚悟したじゃないか。
 だけど─── けれどどうか、今だけは。

 最初で最後の、涙を。



「────っ…!」



 声なき慟哭を、静かな寝室に響かせた。



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