幸せに暮らしていたはずだった。
 両親が離婚して、父親に引き取られて。
 父親が再婚して、新しい母親ができて。その人を「お母さん」と呼べない小さな悩みがあったぐらいで、幸せだったはずだ。
 新しい母親が子供を産み、弟ができた。それはとても喜ばしいことで、姉として護らなければと思った。

 幸せだった。

 幸せだったのだと、思い知った。


 同時に、幸せなんてかくも儚くくずれるもので、


 儚いからこそ─── 幸せは人の夢なんじゃないのかと、思った。





□ 銀の檻 前 □





 赤だ。

 視界が赤い。茶色であるはずのフローリングの床は真っ赤に染まっていて、膝をついたそこから、生温く粘着質のある感触が肌を粟立たせる。
 途絶えた断末魔が余韻として鼓膜を打ち続け、ぴくりとも動かなくなった女をしかし視界に入れず、ただ少女は溢れる赤を見ていた。


「逃げ、ろ…」


 腹を撃たれ、足を撃たれた父親が呻く。逃げる?逃げるだなんて、とんでもない。
 逃げられるはずがないのだと、少女は悟りきっていた。このまま死ぬか、惨めな命乞いか。どちらにせよ、果てには死しかないのだと、少女は冷徹な視線を仰いで改めて思った。
 慈悲のかけらもない、深緑の瞳。冷え切ったそれは、まるで宝石のようで。

 ──── 綺麗だと、思った。


「…きれい、ですね」


 だから少女は、正直に思ったことを口にした。
 わんわんと泣き喚いて父親に縋りつく幼い弟と床に倒れている父親の前に立ち上がり、少女の言葉に僅かに目元を動かした漆黒を見上げる。蛍光灯に照らされる銀髪が煌いている。ああ月の下ならもっと綺麗なのだろうなと、少女はどこか遠くでそんなことを思った。

 死に恐怖していないわけではない。照準が違わず自分に定まっている、初めて見る本物の銃を前に、恐怖しないわけがない。けれどそれ以上に、それから放たれる鋭い弾が、後ろにいる2人に当たることの方が恐ろしかった。
 もしかしたら死の恐怖が張り詰めすぎて、ぶちりと切れて、どこかおかしくなったのかもしれない。だから、たった今継母を殺した男を綺麗だなんて思ったのかもしれない。


「お願いがあります」


 死ぬのは怖いか。当然だ。まだ高校生にもなっていない、若い身空で死にたくはない。
 他人のために自分の命を張るだなんて馬鹿のすることだと思っていた。けれどどうやら、自分は馬鹿だったようだと思い知る。
 両腕を広げ、真っ直ぐにそらすことなく深緑を射抜く。さっさと撃てばいいのに引き金に指をかけないから、少女は言葉を続けた。


「私の命をあげます。だから、お父さんだけでも、見逃してください」


 深くかぶった帽子から覗く深緑が、鋭さを増した。
 引き金にかかったのだろう指を視界に入れることなく、漫画や小説ドラマでよく使うようなサイレンサーをつけた銃が、火花を放ったのが分かった。きゅん、と高く鋭い音がして、頬を何かが掠った。かと思えば熱いものが流れて、顎を伝って床に落ち、いくつかが服に染みた。血だ。


「取引のつもりか?」


 初めて男の声を聞いた。放たれた銃弾にうろたえなかったから、話す気になったのかもしれない。
 威圧感に満ちた、絶対的立場に立つ人間の低く容赦のない声がのしかかるが、少女は上げた腕を下げぬまま、男の目を射抜き続けた。


「取引じゃない。お願いです」

「…願うのは、父親だけか」


 低く、嘲笑う笑みを浮かべた男が視線を幼い弟に向けた。まだ2つになったばかりの、小さな弟。
 護らなければならないのだろう。けれど彼とは、半分しか血は繋がっていない。自分を殺すことを依頼した女の、息子だ。けれど同時に、自分の命を差し出してもいいほど大切な父親の、息子。


「叶うなら、2人を。ただ一人だけを選ぶなら、お父さんを」


 呻くように父親が少女の名を呼び、ふざけるなと唸ったようだった。俺の命などどうでもいいと、言ったようだった。
 しかし少女はそれを聞き入れない。父親に見限られても、軽蔑されても構わない。生きていてくれるなら、それでいい。どうせ自分はもう、死ぬのだ。そう思うと、少しだけ欲が張ってくる。
 しかしその欲は、がちりと額に押し付けられた冷たさに急速にしぼんだ。


「美しき親子愛…か」


 蔑んだ笑み。嘲る笑み。
 構わない。構わない。助かるのなら。生かしてくれるのなら、見逃してくれるのなら。どんな笑みを向けられようと、銃弾がこの身を貫こうと─── 構わない。


「…面白い目だ」


 決してそらぬことなく漆黒の深緑の瞳を射抜いていると、ふいに笑みを消して男が言った。
 その、細められた目が僅かな愉悦を滲ませていることに、少女は気づく。そして気づいた瞬間には、額から離した銃を振り上げた男にこめかみをグリップで殴られ、悲鳴すら上げずに倒れた。


ひじり!」


 父親が呼び、弟の泣く声がひどくなる。漆黒の男は慈悲も躊躇いもなく、少女が乞うた父親の命を削るべく引き金に指をかけ、息をするように容易く引いた。


「うぁああぁあああああぁああぁあああ!!!!」


 右肩を撃たれ、上がった太い悲鳴に僅かな銃声が掻き消される。二発、撃ち込まれた。それを倒れたまま見てしまった少女は、立ち上がると第三発目を放とうとする銃口の前に滑り込んだ。
 両腕を広げ、痛みにむせぶ父親を庇う。弟が、おとうさんおとうさんと泣いていた。


「お前は私を殺すよう依頼されていたはずだ!殺すなら私から殺せ!!」


 口先だけの敬語を取り、殺気さえ滲ませて怒鳴りつければ、男は小さく鼻を鳴らして引き金から指を離した。こめかみを殴りつけられたお陰でぐらぐらと揺れる視界を必死に取り戻しながら、少女は息も荒く男を睨みつける。


「私のやれるものなら何でもやる!だから、お父さんだけは・・・殺さないで!!」


 叫ぶと同時、がつりと銃口が額に押し付けられる。願い通りにとでも言うように、引き金に指がかかって、躊躇いなく引かれて───


 ガチン


 鈍い、金属同士が擦れる音がした。


「……弾切れか」


 男が抑揚なく言い、死ななかったのだと思う前に、少女は呆然と銃口を上げた男を見上げていた。
 死んでいたかもしれない。男の使う銃はべレッタM1934。少女に銃の知識はないが、その銃の弾数は八発。
 継母の額に一発、心臓に二発、父親の右足に一発、腹に一発、肩に二発、少女の頬を掠めたのが一発、計八発。男の言う通り、弾切れだった。

 弾切れで運良く助かったのだと思った少女は、安堵する前に、懐からもう一丁銃を取り出したのを見て安堵することをやめた。けれど安全装置を外したその銃が、再び少女に向くことはない。
 男は床に転がる父親にも弟にも目を向けず、ただ少女を冷えた瞳で見下ろした。


「お前の命ひとつで、ふたつも見逃してもらえると思うな」


 威圧感に、殺気に。足が竦む。震えてくずおれてもいいはずなのに、ただそうならないのは。やはり、冷えているからこそ宝石のような鋭さを持つ深緑の瞳が、綺麗だと思うからか。


「…じゃあ、私の人生もやる」

「……」


 興味を示したように目を細めた男に、少女は一歩、近づいた。


「私のこれからだ。私の命と、これからの時間。そのふたつ」

「違いはない。ひとつだ」

「いいや違う」


 もう一歩近づき、呻く父親の伸ばす手に気づきながら無視をして、少女は真っ直ぐに男を射抜いた。
 手を伸ばせば男に触れる位置で止まり、男の持つ銃に触れる。男は何をする気だとばかりに僅かに手に力をこめたが、少女の手により、銃口が少女の胸に当てられたことで鋭い目を更に鋭く細めた。


「お父さんだけでも見逃してくれるなら、今ここで私を殺せ」


 銃に両手で触れていると男の手とも少なからず触れる。
 男の手は、冷たかった。けれど確かに、人間のぬくもりがある。この非情で冷酷な男も確かに生きているのだと思うと、やるせない思いが湧き上がるようだ。いっそのこと、機械であってくれればと思う。人間であってくれるなと、思った。


「けど弟も見逃してくれるなら…私を好きにするといい。どこへでも連れて行け。どこかへ売り払うでも拷問するでも解剖するでも臓器を切り取るでも、好きにすればいい」


 それはきっと、死ぬことよりつらいことだと理解していた。今ここで死ぬことが少女にとっても最善だと知っていた。けれど、思ってしまったのだ。生きていてほしいのは父親だけ。けれど確かに自分と同じ父親の血を引いている弟を、見殺しにはできないのだと。
 だがそれは、男が少女の願いを聞いて叶うことだ。やはり少女にとっての優先順位は父親の方が上。
 しかし、きっと男は自分達を見逃しはしない。自分を殺し、父親と弟を殺すだろう。そんなこと解っていたが、願わずにはいられない。どうか父親だけでも、生かしてほしい。


「…いいだろう」


 男が、信じられない言葉を口にした。
 拒否の言葉をひとつ吐いて銃弾を放つのだと思っていた銃口は上げられ、がちりと安全装置がかけられる。
 冷え切った冷酷な視線が少女を見下ろし、僅かに口角を上げた。それは正しく嘲笑だったけれど、少女にとってどうでもいいことだった。


「来い」


 銃を懐に仕舞い、男はその長い銀髪をなびかせて背を向けた。そのことに、少女は更に目を見開く。
 本当に殺さないつもりなのか。本当に、見逃すのか。この命と人生のふたつで、2人を。

 少女は歩き出した男について行くために一歩踏み出し、強く名を呼んだ父親を振り返った。父親が、ひどく顔を歪めて怒っている。ふざけるなとその表情が言っている。


「く、な…行、くな…お前、何やってるのか…分かっているのか…!」


 ああ、分かっているとも。自分が今からついて行くあの男が、仲間なり何なりに家に火をつけさせる可能性だってまだある。外に連れ出して、命の保障ができたと安堵した自分を撃ち殺す可能性だってある。
 たとえ生きたとして、死ぬことよりずっと苦しいことが待ち受けているかもしれない。何度も何度も、殺してと願うかもしれない。けれどそれを決めるのは、あの男で。

 けれど、構わない。もう、構わない。


「─── ばいばい」


 せめて彼らの中で、最後の自分が笑顔で残りますよう。
 精一杯の笑顔を浮かべて、少女は父親と弟に背を向けた。死んだ継母に背を向けた。

 取引は完了した。漆黒との取引。この命と人生。ふたつを差し出すから、2人は助かる。それをただ盲目に、少女は信じる。
 この命と引き換えに首輪をはめよう。これからの人生と引き換えに鎖に繋がろう。感情は捨て、けれど意志だけは捨てずに、ただ在ろう。壊されるその時まで、漆黒の“人形”として在ろう。


 そう決めたのは、他でもない、─── 自分、なのだから。



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