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カウントダウンは進む。2、1、と数字を紡いだ唇がゼロの音を発そうとして─── 瞬間、ジンが驚いたように顔を跳ねさせたのを見た
ひじりはすぐに双眼鏡の倍率を下げ、毛利探偵事務所の窓ガラスに大きく入ったひび、そして地面に落ちてバウンドするサッカーボールを順に見てコナンが間に合ったことを知る。
キャンティは突然乱入してきたサッカーボールに呆気に取られており、窓ガラスにひびを入れられた小五郎が怒り心頭で窓を開けた。笑顔で両腕を広げて自分の存在をアピールするコナンが小五郎に何かを話しかけているのは、背後にいるジン達に盗聴器と小五郎は無関係であると示すためにそのイヤホンで聞いた競馬はどうなったと訊いているのだろう。
「目標の変更は?」
「ない。あなたが狙うのはただ一点」
たとえコナンがその場にいたのだとしても変わらない。コナンは今、
ひじりを信頼して無防備に背中を組織に晒しているのだから、ここで感情に任せてブレてはいけない。
整った顔に浮かぶ表情は無く、紡ぐ言葉を彩る声音はあまりに淡々として、けれど決して手の届かない子供を見つめながら小さく快斗の名前を呼べば、『ええ、任せてください』と返ってきた安心させるような声に、
ひじりは詰めていた息をゆっくりと吐き出した。
□ ブラックインパクト 7 □
小五郎がラジオで競馬を聞いていたことが明らかになり、けれどジンはそれで小五郎を見逃してくれるほど甘くはない。銃を構え直して小五郎へ銃口を向けるキャンティ、コナンへ向けるコルン。そして小五郎を生かす選択がないジンに詰め寄るベルモットに、どうやらベルモットはコナンに銃口が向かないよう小五郎は無関係だから殺すのはやめた方がいいと説得しているようだ。
確かに、小五郎は元刑事。今も尚探偵として警察と関わりが深く、確証もないまま殺してしまえば組織に不利益が生じる可能性がある。だが疑わしきは罰せよがジンのモットー、その説得材料は弱いものだ。
案の定、ジンは小五郎を庇っているとも見えるベルモットに銃を向け、そのまま同士討ちしてもらえないものかと
ひじりがこっそり思うが、それで願い通りになってくれるほど現実は優しくない。ベルモットはあの方─── 組織のボスのお気に入りという話でもあるようだし、そう簡単にジンも彼女を殺すことはできないだろう。
だがそのベルモットでも小五郎の殺害を止めるまでは至らないようだ。
キャンティとコルンに中止の命令を出さない様子を見て、まぁ当初の予定通りかと
ひじりが目を細めると同時、神経を研ぎ澄ませてスコープを覗いていた赤井が唇に笑みを刷き、瞬間ジンの指先にある盗聴器目掛けて引き金を引いた。
「─── Nice shoot」
赤井の放った弾丸は、見事ジンがつまむ盗聴器を撃ち抜いた。約700ヤード離れた地点から、射線上の人間に掠り傷ひとつ負わせず指の先にある僅か数ミリサイズの物を、だ。まったく恐ろしい。
ひじりの心からの称賛に背筋が凍るような畏怖が混じるのは仕方のないことだった。
「
ひじり、来い」
笑みを浮かべ、スコープを覗いたまま照準をジンへと合わせる赤井に呼ばれた
ひじりはコルンが方角を確認、キャンティがスコープを覗いて射撃ポイントである高層ビルを特定したのを目にすると、双眼鏡を目許から外して何も覆い隠すもののない素顔を彼らに晒した。
するりと赤井の右肩に触れてしなだれかかるように僅かに凭れかかれば、「鬼の形相だ」と何が楽しいのか赤井がくつくつ喉を鳴らす。誰の、とは訊かない。
ひじりとFBIが繋がっていることのアピールはこれで十分だろうとすぐに体を離す。これは決して浮気じゃない、どうしても必要なことだったから仕方なく、と誰にするでもない言い訳が思い浮かんだが、赤井のひと言で察しただろう快斗からのおねだりには全力で応えることを誓った。
双眼鏡を再び覗きこむ。奪い取ったのだろうコルンの銃を構え、スコープ越しにこちらを射抜かんばかりに睨みつける深緑と目が合ったのは果たして気のせいか。
隣で赤井が再び引き金を引く。その銃弾はジンが構える銃のスコープに勢いよく吸い込まれ、スコープの中身を破壊してその向こうにあるジンの目を貫こうとして、間一髪ジンが顔を動かしたため左頬骨を裂くだけに留まり、しかし
ひじりはそれに穏やかではない光を静かな黒曜に浮かべる。
「赤井さん」
「今殺す気はない。それに、あれを避けられないようではとっくの昔にどこかで野垂れ死んでたはずだ」
ひじりから向けられる厳しい気配もさらりとかわし、赤井は唇を吊り上げる。
「─── やっと会えたな、愛しい愛しい…
宿敵さん?」
だからそう簡単には殺さない。言外に含まれた意味と、喜色すら滲む低い声音に
ひじりの背筋が冷える。心臓を刺すような殺気に似た気配に、自分に向けられているわけでもないのに無意識に呼吸を止めた。
そういえば今までも何度かジンの位置情報を赤井に流したが、実際にこうして自らの視界に入れるのは暫くぶりか。それならば高ぶるのも分からなくはないが、端的に言うとめちゃくちゃ怖い。コナンといい快斗といい、そして赤井と、どうして私の周りにいる男共は怖いひとばかりなんだろう、と思わず遠い目になったがそれを口にすれば「お前が言うな」と揃って返される落ちがつくことを
ひじりは知らない。口にしなかったので知らないまま、ゆっくりと息を吐きながらキャンティがこちらに銃弾を放つのを黙って眺めていた。
キャンティの腕では700ヤード離れた場所にいる赤井を撃ち抜くのは難しく、放たれた銃弾は当たることなくコンクリートの外壁に着弾する。
当たりはせずとも自分の近くに撃ち込まれていると言うのに怯えるどころか気にした様子など皆無な赤井が更に引き金を引き、ジンに2発撃ち込む。しかし防弾ジャケット越しだ、精々が肋骨を折る程度だろう。
彼らの内、誰かの足を撃って足止めすることも赤井なら造作もないだろうが、そうして街中で銃撃戦にでもなれば一般人に被害が出かねない。当然その場にいる小五郎とコナン、更にジェイムズやジョディの命とて危うく、発信機と盗聴器を仕掛けたのがFBIであり、ついでに元“人形”もまた共にいると思わせることができた今、下手な足止めは悪手でしかなく。
ひじりは何も言わずに即座に撤退する彼らを見送った。
米花町を離れて行く黒い車が視界から消えたところで双眼鏡を外し、同じくスコープから目を離して素早く撤収を始める赤井を振り返る。
「お疲れさまでした。快斗も、出番がなくてよかった」
『
ひじりさんもお疲れさまです。あいつら何発かそっちに向かって撃ってたようですけど、怪我はありませんか?』
「ないよ、大丈夫」
『よかった』
ほっと快斗が安堵の息をつくのを聞いて
ひじりも肩の力を抜く。
「
ひじり、黒羽」
ふいに赤井に呼ばれて振り返る。ライフルをケースに仕舞い、肩にかけて立ち上がった赤井が
ひじりを見下ろして「『良い子』にできたな」と口の端を吊り上げて笑った。それに赤井からのメールを思い出すと同時、「Good boy,Good girl.」と褒められて目を瞬かせる。赤井が2人を面と向かって褒めるなど珍しい。
「
What do you want for rewards?」
『オレ赤井さんが用意してくれたあの変装道具一式!あれ、オレが使ってるやつより上等だし欲しい!』
「元よりお前しか使わないものだからな、好きにしろ。で、
ひじりはどうだ?」
即答した快斗に続こうにも、元より物欲のない
ひじりには突然の“ご褒美”がそうそう思い浮かぶものではなく、とりあえずぱっと思いつくのはスペックの高いパソコンか新型調理器具だが、それはできれば自分で選びたい。食べ物などの消えものでもいい気はするが、
ひじりに対する“ご褒美”と赤井は言うからそれは後回しにして、けれど自分が欲しいもの、というのはよく分からなかった。
「……保留で。今は思いつきません」
「いいだろう。決まったら言え」
悩む時間も無駄になりそうで一旦考えることを放棄する。赤井も頷き、さっきから震え続けていたのだろう携帯電話を取り出して通話ボタンを押し
ひじりに背を向けた。ジェイムズ、と聞こえて電話の相手を察し、肉眼で見えないと分かっていて
ひじりは毛利探偵事務所のある方角を振り返る。
ひゅぉう、とふいに風が吹く。なびく短い髪を押さえて目を細めるがその目に銀が映るわけもなく、遠ざかる
匂いに瞼を伏せ、次いで開いたときにはいつもの黒曜がそこにあった。
暮れかけた陽の光に反射して耳元に咲く四葉のクローバーがちかりと光る。快斗に今から迎えに行くことを伝え、再びビル内へ戻ろうと
ひじりは赤井のあとに続いた。
■ ■ ■
毛利小五郎の件は今は手を離すことにして、米花町を背に追っ手を撒こうと車のハンドルを握るウォッカの隣で煙草を咥えながら、かつての同胞にして裏切り者、ライ─── 赤井秀一に撃たれた胸に手を当てたジンは、赤井に寄り添うにようにして立ちしなだれかかる己の“人形”だったものが脳裏を掠めてコートを音が鳴るほどきつく握り締めた。
ギリ、と薄くはないコート越しに手の平に爪が食い込むが痛みを脳は知覚せず、腹の奥底で煮えたぎる激情がふつふつと表に滲んで殺気となり漏れ出る。運転に集中していたウォッカが冷や汗を浮かべ、後部座席に座っていたベルモットは震える心臓を無視して平静を装い口の端を吊り上げた。
「あなたがそんなに苛立ってるってことは…赤井秀一とドールが仲良くしていたのかしら?」
「し、しかし、あんたからその可能性はあると聞いてはいたが、本当にFBIの野郎が…」
実際に
ひじりの姿を確認したのはジンとキャンティの2人。ジンはスコープを覗いたときから静かなままで、しかしキャンティが「ドール!ドールがいやがった!」とかつての生徒が完全に敵対位置に立っている事実に怒りをあらわに興奮していたから赤井の傍に彼女がいたことは間違いない。
今にも届かないと分かっていようが構わずドールを殺しにかかりそうなキャンティを何とか宥めたのはウォッカだ。万が一ドールに傷のひとつでも負わせればキャンティが消されてしまう。
「─── ク」
ふいに低い笑声を漏らし、激情はそのままにジンは自分が目にした女を思い出す。
変わらなかった、あの雪の日と。短い髪も、耳に小さく咲く目障りな四葉のクローバーも、固い意志に煌く黒曜石も、何ひとつ。
変わらない、全てを奪ってから殺す女。そのときにジンを殺す女だ。あの女はまだ、立ち位置を変えたとしてもその胸に殺意を宿したままジンを見ている。それがひどく愉快だった。
赤井秀一は殺す。これは絶対だ。
工藤
ひじりも殺す。これも絶対だ、ただし必ず己の手で。
殺すべきものがまとめてそこにいるのなら、これほど楽なことはない。
そして赤井もあれも、どちらかに手を出そうとすれば片方を庇いにくるような人間ではないことをジンは知っている。むしろ見捨てようとするか、都合の良い餌に使って己の益を満たそうとするだろう。2人が共にいることを思い出せば衝動的な殺意が湧くが、あの2人がお互いに決して気を許し合っているわけではないことは態度を見れば分かる。たとえ一瞬のことだとしても、それが見抜けないほど愚鈍ではない。
(キールが
FBIの手に落ちたのなら、まずは赤井秀一)
たとえあれがFBIと行動を共にしていても、組織に属している以上釣りやすいのはもう片方。それに、保護対象となっているだろう女を囲う鎧と盾を無理やり破るより、女の囲いの一部である男を始末する方が容易い。
そう考え優先すべき方を定めたジンは、優先しなかった方の女を無意識に思考から外し、フィルターを強く噛みしめたせいで潰れた煙草を捨て、また新しい一本に火を点けた。
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