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 哀が博士と共に阿笠邸に帰ったとき、ひじりは家にいなかった。いたのはリビングのソファで丸くなって眠る猫だけで、ソファには何のぬくもりも残っておらず、食器は残らず全て洗われて食器棚に戻されていて、2階のパソコンはシャットダウンされたまま、起動して履歴を調べても何も残っていなかった。
 誰といたのか、いつ出て行ったのか、何も残さず人ひとりだけが消えた家の中で、哀は組織の影を感じて震える手をポケットの中で固く握り締める。

 大丈夫、ひじりひじりで動いているだけ、組織に連れ戻されてなんかいないし、ましてや殺されてもいない。
 大丈夫、ひじりはコナンに仕掛けた盗聴器から情報を得ていたはずだから、以前ジンと対峙した自分を助けたときに協力してくれた“警察の人の関係者”─── おそらくFBIの誰かと一緒にいるだろう。
 大丈夫、あのお人好しは情が湧いた人間相手にはひどく甘くて、死なせたくないと思っていて、だからそのためにできることをしてくれている。
 大丈夫、だってひじりでしょうと自分に四度言い聞かせてようやく心臓が落ち着いていくのを自覚しながら、哀はゆっくりと深呼吸をする。ポケットに入れていた手を抜き出し、手の平の上で転がる、あの雪が舞い散る日の朝に彼女からもらった猫のストラップを見つめてお守り代わりに握り締めていたそれをもう一度握り込んだ。


(私は、私ができることをするわ)


 博士が小五郎に電話して蘭も一緒に呼び出そうと説得する声が聞こえる。
 ひじりひじりができることを、コナンはコナンができることを、ならば自分もと、どこに行ったのかも分からないひじりに届くことはないと分かっていても、哀は胸の内に静かな決意を宿した。






□ ブラックインパクト 6 □





 様々な条件を加味して赤井が候補の中から選んだ場所は、毛利探偵事務所から直線距離にして約700ヤード、メートル換算にすると640m離れた高層ビルだった。
 そこから探偵事務所付近にいる人間を肉眼で認識することは不可能であり、ましてやそこからスコープ越しとは言え対象を捉えて確実に撃ち抜くなど人間業ではない。それでも「できる」と言うのだからできるのだろう、本当に末恐ろしい人だと思いながら、ひじりは屋上へ続くビルの非常階段を息ひとつ乱さず涼しい顔で駆け上がる赤井の横顔を盗み見る。ライフル自体相当な重さがあるはずなのだが、空のカバンを背負っているかのような軽やかな足取りが鈍ることはない。

 普段は施錠されている非常用屋内階段の扉をさっさとピッキングして開けたのは赤井で、今階段を駆け上がっている足音は赤井とひじりの2人分だけ。

 ─── 快斗は今、この場にはいない。

 このビルに入る少し前、赤井はひじりだけを連れて狙撃ポイントに潜伏すると言い、当然快斗はひじりと離れることを渋った。
 しかし、ジン達が毛利探偵事務所前に現れた場合、赤井は当然彼らを狙撃をするし、そうなれば狙撃位置は瞬時に割れて狙撃手とその周囲にいる人間も把握される。そのとき、快斗の姿を見られることは危険行為にほかならず、たとえ別人に変装したとしても快斗がその場にいるメリットが何ひとつない。それよりも別のポイントに潜伏してもらい、緊急時のヘルプ要員として構えておきたいと赤井は言い、「けどひじりさんも赤井さんのとこにいる必要はないだろ」と珍しく粘って反抗姿勢を取る快斗に深くため息を吐いた。


「黒羽。その言葉が感情からきたものなら仕舞え。できないのなら、今ここで降りろ」


 冷たい響きとモスグリーンアイの鋭さに、ぐぅと喉の奥で唸るも気丈に睨み返した快斗は数秒後、「………了解」と甚だ不本意ですと顔に書きながらも小さく頷いた。今度は呆れたように赤井がため息をついた。
 ひじりは無言で快斗を引き寄せ胸に頭をうずめさせて撫でた。ぐりぐりと頭をすりつける快斗は本当はちゃんと分かっていて、それでも渋るのはひとえに自分が見ていない場所でひじりがジンと対峙するのが嫌だからという子供じみた理由からだ。対峙するとは言っても肉眼では見えない距離なのだが、それでも感情的に嫌らしい。


「埠頭の件でベルモットから既に伝わっているとは思うが、あの状況では精々が可能性程度、今回の件で確実にひじりFBI俺達預かりだと奴らに思わせる。その方が奴らも手を出しにくくなることくらい分かっているはずだが?」

「分かってても嫌なものは嫌なの。ガキでスミマセンね」


 ひじりの背中に腕を回し胸に顔をうずめたままひじりを抱きしめて快斗が唸る。と、ふいに顔を上げて唇に触れるだけのキスをして、熱を帯びた目で見つめると「ひじりさんはオレのだから、浮気しちゃダメですよ」とひじりにだけ聞こえるように囁く。ん、と小さく頷いて約束してくれたひじりにようやく駄々をこねるのをやめ、時間も限られているため思考を切り替えて快斗は体を離した。

 赤井に潜伏しておくよう指定された場所へと着いて快斗が車を下り、トランクから楽器ケースを模したガンケースを手に帽子を目深にかぶってビルへと入って行った。それを見送ったのが十数分前。

 施錠された屋上扉も淀みなく開け放った赤井に続いて屋上へと出たひじりはすぐさま腕時計の通信機のスイッチを入れ、毛利探偵事務所のある方角を確かめて位置取りしていた赤井から「お前は見ていろ」と投げて渡された双眼鏡を受け取る。
 腕時計から『ひじりさん、聞こえますか』と快斗の声が聞こえた。


「聞こえてるよ、大丈夫」


 やわらかい返事をして双眼鏡で快斗が潜伏しているビルを見やる。給水塔の影からひょいと顔を出した恋人に手を振られて振り返し、快斗もまた毛利探偵事務所のある方角を向いてゴム弾仕様のライフルを構えたのを確認する。
 あそこは事務所から約200ヤード地点。快斗がゴム弾仕様に精度と威力を落としたライフルで人に当てることができる、今の時点でのギリギリの距離だ。
 当然快斗が撃った場合組織の目はあちらに向くが、快斗がいる地点の周囲は入り組んでいて車が入るスペースはなく、即座に撤退すれば容易く逃げ切れる。それにこちらには組織の裏切り者がいるのだ、どこの誰とも分からない人間と赤井、どちらを追うかは考えるまでもない。まぁそれ以前に、快斗に撃たせるような事態にはそうそうならないと思うけれど、とひじりは双眼鏡越しに毛利探偵事務所を見て内心で呟く。

 双眼鏡を目許から外して肉眼で見てみるが、たった今まで覗いていた場所は目が悪くないひじりでも当然見えず、彼らもまさかここから狙撃されるなど考えられないだろう。


 ブーッ ブーッ


 マナーモードにしていた携帯電話がポケットの中で震える。ひじりは双眼鏡で毛利探偵事務所付近を見回しながら携帯電話を取り出し、ちらりと画面を見てみればコナンからの着信で、再び双眼鏡を覗きながら通信ボタンを押して耳に当てた瞬間、怒号のような切羽詰まった声が耳朶を打ちつけた。


ひじり、そっちに奴らは来てねーか!?』


 その言葉だけで現状を理解する。─── 発信機と盗聴器が彼らに気づかれた。


「…彼らの道筋は?」

『鳥矢4丁目の交差点を左に曲がって杯戸町方面へ移動、米花町に向かっているはずだ!』

「OK。小五郎さん達は博士のところにいるんだよね」

『ああ、今から博士達に絶対ェ一歩も外に出るなって念を押してオレも行く!だから…!』


 焦燥に駆られた、けれどそれでも絶望はしていない、まだ手はあると確信して疑わない絶対の信頼に満ちた声音は笑みすらにじませて続ける。


『だからそっち・・・は頼んだぜ、ひじり姉!』

「─── もちろん、可愛い弟の頼みなら」


 ああ、随分と懐かしい呼び方だ。ひじりが中学生になった頃からなぜかとんと呼ばなくなり、代わりに呼び捨てになったけれど、それまで新一はひじりをそう呼んでいた。
 コナンが意識してその呼び方を使ったのかは分からないが、わざわざ追及するつもりはない。だが、昔ひじりのあとをコガモのようについて回っていた小さな新一を思い出して、新一が4歳になった頃から隣にいる妹分の蘭を思い出して、今自分の周りにいる者達の顔を思い浮かべ、絶対に護らなければと改めて強く心に決める。

 通話を切りポケットに携帯電話を仕舞う。ジンが来ます、とひと言だけ赤井に告げて彼らがやって来るだろう方角を探すと─── 2台連なる黒い車が見えた。口に出して赤井に教えれば腕時計越しに聞いていた快斗も判っただろう、無言で銃を構える音が微かに聞こえ、赤井も車を確認したかうっそりと唇を吊り上げた。


「ん…?」


 黒い車を追っているとふいに視界に見知った姿が入った気がして、しかしそんなはずはと見渡せば、毛利探偵事務所のあるビルに入って行く背中が見えた。目を瞠って息を呑む。まさか、どうしてここに。阿笠邸に蘭と共にいるはずではなかったか。
 だが疑問はすぐに解決した。そうだ、数日前に毛利邸へ蘭に誘われてお茶をしに遊びに行ったとき、小五郎は事務所デスクにつきながら競馬新聞を広げて険しい顔でにらめっこしていた。大事なレースが近いのだとそのときは言っていたが、ギャンブルにも馬にも特に興味のないひじりは聞き流していたのだ。まさか、今日がその日だったとは。
 コナンは博士に念を押すと言っていた。となれば小五郎の不在にも気づいたはずだ。今頃血相を変えてこちらへ車を急がせているところか。


「来たな」


 赤井が呟くと同時、毛利探偵事務所前のビル屋上に黒が5つ。ジン、ウォッカ、ベルモット、キャンティ、コルン。キールこと水無怜奈の姿はないが、今は彼女のことはいい。
 黒の背中を泳ぐ銀に目を細める。彼はひじりにも赤井にも気づくことはなく、あの冷たい深緑の双眸はガラスの向こうにある背中に向けられているのだろう。

 窓際に来ない小五郎を見てか、キャンティがテレビアンテナを吹っ飛ばした。小五郎は競馬を見ていたはず、だからテレビが見えなくなればイヤホンでラジオを聞いて定位置であるデスクに着く。
 彼らの思惑通り、窓際に小五郎の背中が見えた。キャンティとコルンは既に銃口を下げて照準を合わせており、いつでも引き金を引ける状態だ。ひじりさん、と快斗の声が聞こえて、けれどひじりは「まだ」と制する。

 大丈夫だ、いくらジンでも即座に射撃を命じはしない。発信機と盗聴器に気づいたのなら、発信機は潰し、盗聴器は生かして小五郎とのコンタクトに使うはず。その先が本当はコナンへ通じていたのだとしても、状況からベルモット以外の彼らは発信機と盗聴器を仕掛けたのは小五郎だと疑っていないはずだから。

 ジンの口元が動くのが見える。やはり小五郎に向けて話しかけているようだ。
 この状況でコナンが来ないはずはない。だが間に合うかも分からない。赤井さん、と名前を呼べば視線を向けられることなくスコープを覗いたまま「どこを」と訊かれる。


「盗聴器を。間違っても、ジンを殺さないように」


 あれを殺すのは私です。ひじりもまた視線を向けずに淡々と言って言外に含ませ、赤井は返事をしなかったが僅かに銃口の位置を調整した。
 赤井の腕ならば彼らの脳天を撃ち抜くことはできるだろう。だが殺してしまっては組織へ繋がる情報源が消えて意味がない。分かっていても忠告はして、双眼鏡の倍率を上げてジンの口元に集中し動く唇を読む。10秒くれてやる、と読み取れたからそれが射撃までのカウントダウン。


「10…9…」


 ジンの口の動きに合わせてひじりも数字を落とす。赤井が目標に照準をぴたりと合わせて引き金に指をかけたことを目にすることなく、視界に映る唇が弧を描いたのを見た。






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