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ひじりはマジシャンではない。だから彼らにとって何よりも大事なものも、そのプライドも、真に理解することはできない。
けれど快斗が何を大切にしているかは分かっている。マジシャンとして、いちエンターテイナーとして、心に立てた絶対の誓いを知っている。
観客にひとときの夢を見せ、輝く笑顔を生み出すその手の尊さは、きっと誰よりも知っていた。
そしてその手を血で染めたひとを知っているから、二度とそんなことはさせないのだと固く心に決めた快斗を─── 眉をきつく寄せて悔しそうに顔を歪める彼をもう見たくはないから、防げるものなら防ぎたかった。
「星河さん」
Mr.正影の自室の中、振り上げた大振りの花瓶を持つ手を後ろから掴んで動きを止めた快斗の声はけして大きくはなかったけれど、静寂に満ちたその部屋にはひどく大きく響いた。
□ 推理マジック 5 □
「…………黒羽、くん?」
手首を掴まれた星河が壊れたブリキのような固い動きで首だけを快斗に向ける。
ひじりは開いたままのクローゼットを一瞥し、あそこから花瓶を取り出したのかと冷静に分析した。
部屋の奥、星河の正面には、快斗が声をかけるまでこちらに背を向けていた姫宮がいる。彼女は快斗の声に振り返って初めて自分に花瓶を振り下ろそうとしている星河に気づいたようで、快斗が止めなければ殺されていたのかもしれないと理解して目を見開き顔を青褪めさせる。
ひじりはとりあえず止められたことに安堵の息を吐いた。重いドアを素早く開けるために重心を下げていた体を伸ばして中に入り、ドアを努めて静かに閉める。
ドアが完全に閉まると同時、快斗がぐいと星河の手首を引いた。突然のことにバランスを崩した星河が後ろに転がって尻もちをつき、巻き込まれないよう手首を離して花瓶を奪い取った快斗の表情は、
ひじりと同じく全くの無だ。けれどその胸の内に渦巻く感情を察することはできて、
ひじりは寄り添うように快斗の隣に立った。
予想だにしていなかった闖入者に星河と姫宮が呆然と視線を向ける。何で、と声に出したのはどちらだっただろうか。
「どうして君達が……それに僕は、今…」
床に尻をつき、花瓶を握り締めていた己の手を見下ろして心ここにあらずの様子で星河が呟く。
演技ではないだろう。おそらく姫宮の放ったひと言に頭が真っ白になり無意識の殺意が爆発したというところか。衝動殺人と言われるものだ、未遂だが。それほどまでに星河にとって師であるMr.正影の存在は大きく、姫宮の言葉の爆弾は威力が高すぎた。
「─── あんたの手は」
ぽつり、ふいに快斗が吐き出した声は冷ややかで、しかし隠しきれない激情が滲んでいることに気づいたのは
ひじりだけだった。
「あんたの手は、何のためにあるんだ…!
答えろ、星河!!」
叫びのような詰問は星河と姫宮にも分かるほど激情に震えていて、思わず顔を上げ、下から怒りに燃える青い目を真正面に見つめてしまった星河はびくりと肩を震わせた。
(僕は───)
姫宮を殺そうとした自分。それを止められて、状況がうまく呑み込めなくて意識はあちこちに散乱して定まらない。無意識に開いた口は何を言おうとしたのかも分からず、呼吸がうまくできなくてはくりと空気を噛むだけで。ぼくは、と虚ろな声が何とか単語を紡ごうとする。
「ぼくは、ぼくの、手は……」
何のために。この手は、今までひたすらに磨いてきたマジックの腕は。
衝動に任せて血に染めるためのものでは、なかったはずだ。
師が弟子を取る前からこの家に遊びに来て、マジックを習い、いつの間にか自分以外にも弟子ができてからもずっと通い詰め、師が失踪してこの家から足が遠のきはしても、いつだって胸の奥にいたのは。
かつて師に見せてもらったマジックにただただ目を輝かせて笑っていた、自分だったはずだ。
マジックをするのは楽しい。着実に腕が上がっていくのも分かってやりがいがある。けれど一番嬉しいのは、あの日の自分のように、観客を驚かせ目を輝かせて笑顔を広げることができたその瞬間だ。
「マジシャンはエンターテイナー。たとえトランプを消すことはあっても、他人の命を消すなんてことがあってはならない。違うか?」
「……そう、そうだったね…」
力無い笑みを浮かべ、脱力しきって項垂れる星河に向ける快斗の視線は厳しいまま緩まない。快斗が手に持っていた花瓶を床に置き、ため息のようについた吐息は安堵のそれだと知っていたが、
ひじりはただ佇立するだけで、星河の腕を引いて立たせその背中を思いきり叩く恋人に誰にも気づかれない程度に頬を緩めた。
しかしすぐにその表情は消え、冷ややかな黒曜の目が姫宮に向けられる。一歩踏み出せば姫宮が気づいて
ひじりに視線を向け、しかし人形のような無表情と深い漆黒に射抜かれて息を呑んだ。
「私は優しくないので敢えて言いますけれど。
あなたのせいですよ」
ひゅ、と姫宮が息を呑んでさらに目を見開く。しかし
ひじりは言葉を止めなかった。
「あなたがMr.正影のネタ帳を盗んだからMr.正影は失踪してしまった。あなたがMr.正影のネタ帳を盗んだから奥様はずっと夫の帰りを待ち続けることになってしまった。あなたがMr.正影のネタ帳を盗んで未発表のマジックをしようとするから星河さんは殺意を爆発させてしまった。あなたがMr.正影のネタ帳を盗んだから星河さんは殺人犯になるところだった。
あなたのせいで」
まるで呪いのような言葉が姫宮を刺し貫く。目を見開いた姫宮は反射的に何かを言おうと口を開き、けれど閉じて、ぎりりと奥歯を噛み締めると呪いを振り切るように叫んだ。
「─── 私は!」
音が鳴るほど固く手を握り締め、燃え盛る目で真っ直ぐに姫宮は
ひじりを睨みつける。
「私はできるのよ!私ならやれるの、
私がやるしかないのよ!だって先生がいなくなっちゃったのは私がネタ帳をスッたせいで…ええそうよ、あなたに言われなくたって分かってるわよ私のせいよ!!だから私がMr.正影を継ぐしかないの!私が先生の後継者になって先生のマジックをやって、“Mr.正影”は生きてるんだって!他の誰でもない私が示さなきゃいけないの!!!」
展子さん、と星河が呆然と彼女の名前を呼ぶ。きっと彼も知らなかったのだ、彼女が心奥深くに仕舞っていた、発する言葉の端々に滲む決意と贖罪を。罪悪感という名の自分が一日だって逃がさず己を追い詰め続けて、それでも折れずにステージに立つために強く持たざるを得なかったプライドをそのまま自分のものにして。
海外を中心に飛び回っていたのも、1秒でも早く1人でも多く世界中の人に己を認めさせたかったためだろうか。その真意までは
ひじりには分からないけれど。
「……っ!」
ずっと胸に抱えていたものを勢いに任せて吐き出し、荒く呼吸を繰り返していた彼女の濡れる瞳からふいにぼろりと涙をこぼれる。乱暴に姫宮が手で拭うも、一度あふれたそれは歯止めが利かなくなったように次から次へと頬を滑り落ちた。ぱたぱたと床に雫を落ちる音とすすり泣く震える声に紛れて衣擦れの音が聞こえたと思うと、姫宮に向かい合う
ひじりの隣に星河が立った。
「だから、“魔女復活”…いや、“魔王復活”を?けどあれは…」
「知ってるわよ、危険過ぎることくらい」
先生のネタ帳に書いてあったもの、と続けてもう一度乱暴に目許を拭い無理やり涙を止めた姫宮が睨むように星河を見上げる。
ハンカチを貸そうかとポケットから取り出すが、あれだけ言った手前どうかなと表に出さず逡巡する
ひじりを一瞥した姫宮が鼻を鳴らしてハンカチを奪い取った。遠慮なく涙で取れかけた化粧を拭い取るように使われるが、洗えば取れるので特に気にはしない。
快斗の気配が後ろに立ったため星河を残して身を引き、ぽすりと快斗の腕の中に納まった。背中に回る腕のあたたかさが心地良い。あなたが悪役をする必要はなかったのに、と拗ねた小さい声が耳元で紡がれて、宥めるために快斗の腕を撫でた。
「だからやるしかないと思ったわ。先生が諦めたマジックを私が成功させれば、私は先生を超えたって証明になる。あれを成功させて初めて、私はMr.正影の正当な後継者なんだって認められる」
「あなたは───」
姫宮の言葉に絶句した星河だったが、すぐに我に返ると深いため息をついて首を左右に振った。理解できないと呆れるものではないことは確かなのは、星河が気が抜けたような笑みを浮かべたことから分かった。
「……まずは謝罪を。受け入れられなくとも仕方がないことは分かっています、僕はあなたを殺そうとしましたから。そしてあなたを誤解していたと認めます。本当に、本当に…申し訳ありません」
「……別に。私も悪かったわよ、不用意なこと言って。それに、死んでないからいいわ」
胸の内を吐露してしまった気恥ずかしさからか、深く頭を下げる星河からそっぽを向きながら姫宮が謝罪を受け入れる。ほっと息をついた星河が顔を上げ、この一件が収束した気配を察知して
ひじりから手を離した快斗が2人に声をかけた。
「そんじゃ、仲直りついでにオレ達のお願い聞いてくれます?」
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