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 蘭が裂帛の声を上げて固く握り締めた拳を突き出そうとした、その瞬間。
 水槽を囲むカーテンが勢いよく跳ね上げられ、そこからたった今脱出したかのように苦しそうな顔をした星河がずぶ濡れのまま飛び出て来た。
 星河の生還に観客が安堵に沸く。星河が自力で水槽を脱出したことで蘭が目を見開いて動きを止め、和葉もぽかんと口を開けたまま固まった。

 荒い息を整えアシスタントからイヤホンマイクを受け取った星河が『な、何とか成功しました』と観客に自分の無事と脱出マジックの成功を知らせ、慌ててスタッフから手を離した和葉とその隣に立つ蘭を振り返る。


『私のこの強運と、ショーを盛り上げてくれた勇敢なレディ2人に祝福の拍手を』


 成程、闖入者たる蘭と和葉を脱出マジックに組み込んでみせたか。物は言いようだが、要は観客が納得して盛り上がればいいのだ。
 盛大な拍手と歓声に紛れてうまく場を治めた星河に称賛の拍手を送り、次いでステージの上でやらかしたと身を縮ませる妹分2人に苦笑するように眉を下げて、ひじりはほんの僅かに口角を上げた。






□ 推理マジック 2 □





 ショーが終わり、ロビーにて顔を青くする蘭と和葉にしがみつかれたひじりは、プロではないが不定期にマジックショーを開く快斗の「あんまり気に病みすぎなくていいと思うぜ」と慰める言葉に同意して頷いた。
 ブルーパロットという店の都合上大規模な脱出マジックはできないが、それでなくとも真に受けた者、または酒が入った観客に乱入されることはたまにあるのだ。

 興奮醒めやらぬ観客達がそれぞれ帰路に着くのを眺め、星河に謝りに行くと言う2人にひじりも付き合うことにする。男3人も付き合ってくれるようで、6人は揃って舞台裏へと足を向けた。
 途中、会場スタッフに声をかけられるも一行の中にいるのがステージに上がった2人だと気づいて苦笑され、星河のところに行きたいのだと言えば楽屋を教えてもらってそちらに進む。星河童吾様控え室、と貼り紙がされている楽屋はすぐに判った。

 ノックをして返事をもらい楽屋のドアを開ける。タオルを肩にかけ、イスに座っていた星河が最前列に立つ少女2人に目を瞬かせた。


「「本当にすみませんでした!!」」


 楽屋に入っての第一声。深く頭を下げた2人の後ろで他の4人も頭を下げる。結果的にショーの邪魔をしてしまって申し訳ないと再び頭を下げる2人に、星河はタオルで髪を拭きながら「構わないさ」と笑みを浮かべた。


「それに、僕が助かったのは君達のお陰でもあるんだから」


 星河の言葉にえ?と蘭と和葉が首を傾げる。ウインクをひとつ、水槽の中で気を失いそうになったときに愛のこもった君達の声が聞こえたのだと、茶目っ気を見せながら星河が朗らかに笑った。ほんとですかと笑う蘭と和葉の後ろで顔に「嘘つけ」と書いて隠さないコナンと平次を一瞥したひじりが無表情のまま小さく肩をすくめる。
 確かに星河の言葉は嘘ではあるが、観客を笑顔にして帰すべきエンターテイナーとしては正解だ。嘘も方便、蘭と和葉を許し、笑顔を取り戻してくれた星河には感謝しかない。

 マジシャンの楽屋を物珍しそうに見回していた快斗がふいに視線を背後のドアに向け、ドア越しに聞こえてくる足音に気づいていたひじりは軽く手を引かれてドアの正面から快斗の方へと抵抗することなく身を寄せる。
 すると楽屋のドアが開き、拍手をしながらひとりの男が入って来た。火の点いた葉巻を咥えたサングラスの男を見て、「範田 りき…」と微かに驚きを滲ませて快斗が小さく呟く。その名前の男は、確かプロのマジシャンだったはずだ。


「いやぁ、見事だったよ星河君。どうだい、今度私と組んでジョイントライブやってみないかい?」


 範田の誘いに僕でよければと星河が頷く。それに範田が嬉しそうに笑い、君は人気があるからねぇと続けるが、範田も星河ほど目立たないだけでコアなファンがついていると聞く。
 と、足音をなるべく消して楽屋に入って来た女が隣を通り過ぎて範田に近づき、「じゃあ私も混ぜてもらおうかしら」と彼が咥えている葉巻を手に取ったかと思えば、手の平を返して一瞬で赤いバラへと変えた。その流れるような仕草から彼女の腕前が垣間見える。


「姫宮 展子まで…すげぇな、Mr.正影の弟子3人が揃い踏みだ」


 やはりマジシャンとしては心が浮き立つのか、湧き上がる笑みをそのまま浮かべた快斗が歓談する3人を見つめる。
 姫宮展子は日本よりも海外で名が売れており、比例して活動も海外が多い。そして快斗の言うMr.正影とは確か、10年前に突如姿をくらませた謎の多いマジシャンだ。死亡確認がされていないため今もどこかで生きているとの噂だが、彼の生死は誰にも判っていない。

 快斗から以前Mr.正影の弟子が3人いること、弟子それぞれの名前を聞いていたためひじりに驚きはないが、和葉は知らなかったようで平次に教えられていた。とは言っても、平次もMr.正影の弟子がこの3人とは知らなかったようだが。

 姫宮は3人でのジョイントライブで誰が正統な後継者なのかをはっきりさせようと不敵に笑い、姫宮にバラを胸に差された範田はどうせなら星河と人気を二分している真田一三も加えて「マジシャン四天王 夢の競演」はどうかと提案する。それに姫宮が自分は構わないと言うも、星河は彼が受けてくれるかどうかと苦笑する。どうやら範田も含め3人とも真田と面識はないようだ。
 和葉が蘭に真田に会ったことがあるのではと問い、蘭が頷くも、小五郎の仕事で会っただけでしかも回数は2回だけ、望みは薄いように思われた。


「とりあえず正影先生の家に行って、ショーの相談をしようじゃないか。君達もどうだい?食後に簡単なマジックショーでもお見せするが」


 ふいに範田に誘われ、蘭と和葉が思ってもみない誘いにぱっと笑顔を浮かべる。だがこちらは6人、範田達を含めれば9人の大所帯だ。さすがにこの人数で押しかけるのはと遠慮しようと口を開きかけたひじりはしかし、隣で目を輝かせる快斗に気づいて唇を閉ざした。めちゃくちゃ行きたそうな顔をしている。
 だが、確かにMr.正影の家となればマジシャンの端くれとして当然興味深いものであるはずだ。自分で建てた家であるなら何かしらの仕掛けがあるはずで、練習室やマジック道具の保管室、さらにマジックの資料室くらいはあるだろうし、交渉次第では見せてもらえる可能性もある。加えてMr.正影の弟子3人によるマジックショーとくれば、快斗にとっては宝石よりも価値の高い宝の山と言ったところか。


「さすがにご迷惑では?」


 だが窺いを立てないわけにはいかず、控えめにひじりが範田に声をかけると、彼は笑顔で構わないと手を振る。
 元々Mr.正影が姿をくらます前、彼の家には多くの客人が招かれていたし、彼の家ならではでのマジックショーの噂を聞いて駆けつける者もたくさんいたから大勢の客には慣れているらしい。私から話しておくから、と言われては固辞するのも失礼だ。ありがたく受けることにする。
 礼を言って頭を下げ、そういえば名前はと訊かれて名乗る。次いで蘭と和葉が、コナンと平次、そして快斗が「黒羽快斗。オレもマジシャンなんです、よろしく」と指を鳴らしてMr.正影の弟子それぞれの手の内に小さなバラを出現させると、目を見開いた3人がもしかしてと声を揃えた。


「黒羽盗一の……息子?あの世界的に有名だった?」

「“東洋の魔術師”と謳われた天才マジシャンか!息子がいるとは聞いていたが、まさか実際に会えるとは」

「若干二十歳でFISMのグランプリを獲得した鬼才……その子供もマジシャンとは、血は争えないわね」


 星河、範田、姫宮の言葉に快斗は「光栄です」と誇らしそうに笑う。常々親父が世界で一番!と胸を張っているから、盗一への称賛は偽りひとつなく純粋に嬉しいのだろう。
 こそりと平次がお前の親父そんな凄かったんかと言い、まぁなと快斗が肯定して返す。さらに「オレの親父だ、当然だろ」と続けられて虚を突かれたようだ。年頃の少年らしく父親にやや反抗的な平次からすると思ってもなかった言葉だったのかもしれない。

 笑う快斗の横顔を、ひじりは見なかった。ただ握られた手を同じくらい力をこめて握り返す。
 快斗が彼らに黒羽盗一の息子だと気づかれた瞬間、僅かに手を握る力が強まった。ひじりにだけ見せる小さな感情の揺れ。けれど表情は変わらない笑顔のままで、ひじりが正面から見たとしてもそれだけでは内心を見抜けない見事なポーカーフェイス。一瞬目を伏せたひじりはふいに握られた手を離し、すぐに指を絡めて繋ぎ直す。


「君のお父さんは素晴らしかった、正影先生からもよく話を聞いていたしね。…それだけに、8年前の事故を残念に思うよ」


 範田のトーンが落ちた言葉にまた、手の力が強まる。ひじりは無言で握り返した。


「……親父はステージの上で、マジシャンとして死にました。本望だったでしょうし、それが誇らしいとオレは思います」


 そんなわけがないと心の内で叫んでいることをひじりは知っている。笑顔を張りつけて目を細める快斗が過去、どれだけ父を求めてその背に手を伸ばし、父の影を追いかけて仇を討つために怪盗キッドになんてなったのか。夜眠っているとき、時折体を丸めて寝言で父を呼ぶ快斗を知るのはひじりと千影だけだ。

 指を絡ませて握る手は痛いくらいで、しかし振りほどきはせず黙って握り返す。心がどれだけ泣いていたのだとしても涙のひとつも見せない子供の声無き叫びくらい、受け止められなくてどうする。

 目を細めて笑う快斗にほっと息をついた3人に流石は黒羽盗一の息子だと讃えられるが、それは少しだけ不愉快だった。
 快斗は快斗だ。父の教えを守ってはいるが、あとの全ては快斗が自分で考えて決めたこと。盗一さんの息子だから何なのだと思ってしまうのは贔屓が過ぎるだろうか。そう、ひじりは無表情のまま考えた。


「8年前……なぁ黒羽、オメーもしかして」


 8年前のマジックショーでの事故、8年前にぱたりと活動をやめた怪盗キッド、ここ1年再度活動を始めた現怪盗キッドはおそらく2代目。それはつまり、と思考を繋げて顔を上げたコナンはしかし、頭上から下りる快斗の鋭い視線に制されて肩を跳ねさせた。
 快斗は口の端を吊り上げて笑ったままだが、声をかけた瞬間その青い目から温度が消えたのをコナンははっきりと見た。
 つ、と頬に冷や汗が滑る。殺気とすら間違えかねない針のような意識は器用にもコナンにだけ向いており、他の誰も気づいている様子はない。


「オレの親父は世界で一番尊敬できる男です」


 視線を前に戻しダメ押しのように紡ぐ快斗の言葉がコナンの耳朶を叩く。心からの言葉だ、偽りはない。だがその言葉の裏に潜む「踏み込んでくるな」の声がコナンの口を固く縫いとめた。ここから先は決して足を踏み入れてはならないと、線がはっきりと引かれる。


「……」


 だからコナンは、その線の向こうにいる快斗に背を向けることにした。
 探偵として、引かれた線を踏みにじり容赦なく暴き立てる日がいつか来るかもしれないし、永遠に来ないかもしれない。だが少なくともそれは今ではないことだけは確かで、肩をすくめたコナンはただひと言、「ファザコンめ」と言葉を投げる。しかし快斗はゆったりと笑みを刷き直し、「オメーもだろ」と返されてコナンは否定しなかった。






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